第2話 記憶の齟齬
翌日、カフェに足を踏み入れた瞬間、空調の温かさと珈琲の香りが肌を撫でた。窓際の席に美咲がいた。白いダウンコートが椅子の背にかけられ、青いワンピースの肩のラインが目に入る。光沢のある黒髪が肩に流れ、自然な化粧が顔立ちを引き立てている。細いウエストと均整のとれたラインは、まるでファッション誌の一ページから抜け出してきたかのようだった。しかしスマートフォンを見下ろす彼女の横顔には、何か影のようなものが漂っていた。
「待った?」
席に滑り込みながら声をかけた。
「ううん、今来たところ」
彼女は微笑む。だが笑顔が目元まで届いていない。唇だけの笑み。
彼女の様子がどこかぎこちない。右手の指先が無意識にスマートフォンの縁をなぞっている。
注文を済ませると、健太は昨日の電話以来、気になっていた斉藤の話を切り出した。
「あの、斉藤さんのことだけど……」
「その話はやめましょう」
美咲の声は静かだったが、断固としていた。
「無理に思い出さないほうが、あなたのためよ」
彼女の言葉には医療従事者としての客観性があった。時々、恋人というより看護師のように感じることがある。
「最近よく眠れてる?」
美咲が尋ねた。話題を変えたいという意図が明らかだった。
「まあ」
曖昧に答える。完全な嘘はつきたくなかった。
コーヒーが運ばれてきた。美咲はカップを持ち上げ、香りを楽しんでいる。彼女の指先は細く、繊細に見えた。看護師なのに、仕事で荒れた感じがない。
「なあ、俺たちはどこで出会ったっけ?」
唐突に聞いた。
美咲は一瞬動きを止めた。
「どうして?」
「ただ思い出そうとしているんだ。記憶が曖昧で」
「病院よ」
彼女はカップを置いた。
「あなたが担ぎ込まれた救急救命センター。私が担当の看護師だったの」
「でも、大学時代から知り合いだったような……」
美咲の表情が一瞬凍りついた。
「違うわ」
彼女の声は少し強く、否定的だった。
「きっと記憶が混乱してるのよ」
そうなのだろう。医師も同じことを言っていた。
「ごめん、たまに記憶がごちゃ混ぜになる」
「大丈夫よ」
美咲の表情が和らいだ。
「時間がかかるのよ。焦らなくていいよ」
会話は日常的な話題に移った。健太の仕事の話、美咲の病院での出来事。表面上は普通の会話だったが、何かが違った。健太は美咲の言葉の端々に、普段とは異なる緊張を感じた。
窓の外を見ると、遠くに山の稜線が見えた。一年前の記憶が断片的によみがえる。恐怖と共に、奇妙な懐かしさも感じた。
「もう一度、雪山に登ることができるだろうか」
健太は思わず呟いていた。自分でも予想していなかった言葉だった。
美咲の瞳が一瞬大きく開いた。
「何を言ってるの?」
彼女の声に恐怖が混じった。
「あなたは二度と山に行けないでしょう」
「医学的には問題ないって先生も言っていたし……」
本当に行きたいのか自分でもまだよくわかっていなかったが、そう答えていた。
「問題あるわよ」
彼女は言い切った。
「左足の……」
そこで彼女は言葉を切った。
「左足がどうした?」
彼女はいったい何が言いたいのだろう。
「凍傷の後遺症は長引くのよ」
健太は黙ってコーヒーを飲んだ。左足の違和感の正体は単なる凍傷の後遺症なのだろうか。
彼女は話題をそらした。
「私たちの出会いについて、どんな記憶があるの?」
声は優しかったが、その目は健太の反応を注意深く観察していた。
「救命救急センターのベッドで目が覚めたとき、きみが側にいた」
「他には?」
「髪を結んでいた。声が優しかった」
美咲は満足したように微笑んだ。
「そう。それは本当の記憶よ」
だが、頭の片隅で別の映像が浮かぶ。大学構内。桜の木の下。青いスカーフを首に巻いた女性。彼女も美咲だったような……
「健太?」
美咲の声が遠くから聞こえる。
「大丈夫?」
「ああ、ちょっとぼんやりしてただけ」
窓の外を見ると、雪が降り始めていた。天気予報では雪の予報はなかったはずだ。
「雪が降ってる」
健太は言った。
美咲は窓の外を見たが、特に反応を示さなかった。
「明日は土曜なのに出勤?」
彼女は話題を変えた。
「ああ」
「迎えに行こうか?夕方、時間あるから」
「いいよ」
健太は答えた。温かさが胸に広がった。彼女がいてくれることでどれだけ救われているか。
支払いを済ませ、カフェを出る。美咲が白いダウンコートの前を合わせ、マフラーを口元まで引き上げた。外では雪がさらに強く降っていた。白い結晶が街を覆い始めている。
「タクシーで帰らない?」
美咲が言った。
「歩こう」
健太は提案した。
美咲は迷った様子だったが、同意した。二人は並んで歩き始めた。雪は音もなく降り続ける。足跡がすぐに雪に埋もれていく。
健太は美咲の横顔を見た。彼女の頬が赤く染まっている。寒さのためか、それとも他の何かのためか。
「美咲」
健太は立ち止まった。
「何か隠してることはある?」
彼女も足を止めた。雪が彼女の髪に積もり始めている。
「どうして?」
「斉藤さんの話をしたとき、きみの反応が……」
美咲の表情が硬くなった。
「何度も言うけど、私は斉藤さんのことは何も知らないわ」
「でも昨日、電話で『あなたは自分で見たでしょう、斉藤さんが亡くなるところを』と言ったよね」
美咲は一瞬黙り込んだ。彼女の呼吸が早くなった。
「以前あなたがそう言ったからよ」
と彼女は言った。
「あの時のことはほとんど覚えていない。だからそんなことは話していないはずだ」
健太は取り乱した。
「あなたの記憶は混乱しているのよ」
美咲は健太の腕を取った。
「無理に思い出そうとしないで」
彼女の手の温もりが、健太の疑念を溶かしていく。
「そうだな。焦らないようにする」
疑念はまだ残るが、とりあえず彼女の言う通りにしよう。
二人は再び歩き始めた。雪は降り続け、世界を白く染めていく。
部屋に帰ると、異常な冷え込みが彼を迎えた。暖房の調子が悪いのだろうか。台所に行き、お湯を沸かした。温かいものを飲めば、この冷えた感覚も和らぐかもしれない。
窓の外を見ると、雪はさらに激しく降っていた。記憶の中の雪山と重なる光景。テントの中で、限られた食料を分け合った日々。そして斉藤の声。
『生き延びるための選択をするときが来た』
その声が頭の中で反響する。健太は頭を振り、その記憶を追い払おうとした。お湯が沸いた音に意識を戻す。カップにコーヒーを入れ、湯を注いだ。温かい湯気が立ち上る。だがコーヒーはすぐに冷たくなった。部屋の冷気があまりにも強いのだ。
健太は左足を引きずりながら、リビングに戻った。ソファに座り、膝掛けを引き寄せる。冷えたコーヒーを飲みながら、今日の美咲との会話を思い返した。彼女の緊張した様子。斉藤の話題を避けようとする態度。そして『左足』について言いかけて止まった瞬間。
集合写真を再び手に取った。やはり自分以外の顔がぼやけている。なぜだろう。写真を撮ったときの記憶が浮かばない。
暖房の温度を最大にしても、部屋の寒さは増していく一方だった。窓ガラスの内側の霜が厚くなっている。まるで部屋の中が冷凍庫のようだった。
健太は布団に入り、毛布を何枚も重ねた。それでも寒さは骨の髄まで染みてくる。左足の痛みも強くなってきた。さっき飲んだ痛み止めはまったく効いていない。脈打つように足首が疼き、かつて経験したことのない痛みが走る。歯を食いしばって耐えるしかなかった。
目を閉じると、雪山の風景が広がる。テントの中。限られた食料。斉藤との会話。そして決断の瞬間。
『生き延びるためには……』
健太は眠りに落ちた。




