第1話 悪夢の残響
銀世界が終わりなく広がる。息を吸うたび肺が凍りつく。前に進まなければならないと思ったが、どっちが前なのか方向感覚が失われていた。空と地上の区別もつかない。ただ白い闇の中を這うように進む。
「誰か……いるのか」
自分の声が聞こえない。風にかき消されたのか、それとも、もう声を出せないほど衰弱していたのか。膝から下の感覚がなかった。特に左足は何も感じない。見下ろすと、そこには……
悲鳴と共に健太は目を覚ました。
シーツは冷や汗で濡れていた。部屋の闇に目が慣れるまでの数秒間、自分がどこにいるのか把握できなかった。息遣いは荒く、胸が激しく上下していた。
「ただの夢だ」
自分に言い聞かせるように呟いた。デジタル時計の数字が暗闇で浮かび上がっている。午前三時十分。
ベッドから起き上がろうとした瞬間、左足に鋭い痛みが走った。痛みというより、そこに何かがないという感覚。健太は思わず足に手を伸ばした。指先が自分の足首に触れる。ある。確かにそこにある。まだ寝ぼけているのか。
部屋を横切り、キッチンへ向かった。水を一杯飲み、冷たさが喉から胃へと伝わるのを感じる。徐々に現実感が戻ってきた。
冷蔵庫のドアに貼られたカレンダーが目に入る。二月十日に赤い丸がついていた。遭難事故から今日でちょうど一年。生還記念日とでも言うべき日。正確には『奇跡の生還』と新聞は報じていた。『極限状況での生存の奇跡』『冬の谷川岳で三週間』──見出しの数々が脳裏をよぎる。
しかし健太の記憶は断片的だった。谷川岳での三週間の記憶は霧に包まれ、所々が欠けていた。医師の説明では、低体温症と極度の飢餓による一時的な記憶障害だという。
一年経った今でも、記憶は戻らない。ただ悪夢だけが、夜ごとに彼を訪れる。
キッチンの窓から見える東京の夜景はいつもより暗く感じられた。星一つない空。遠くのビルの灯りが点滅している。暖かいはずの光が、どこか冷たく、遠く感じられた。
部屋に戻り、机の引き出しからノートを取り出した。『記憶再生のための日記』と表紙に書かれている。医師に勧められて書き始めたものだ。夢の内容を記録することで、失われた記憶の断片を拾い集められるかもしれないと。
ペンを走らせながら、健太は時々止まっては谷川岳での遭難の記憶を探った。生還して一年。四人で入山し、自分だけが生き延びたあの惨劇。
あの時、美咲が励ましてくれた言葉を思い出す。『大丈夫、あなたは生き延びたのよ』そう言って手を握ってくれた。あれは病院でのことだったか。いや、もっと前から知っていた気もする。
ふと、美咲と交際を始めたのはいつからだったか思い出せないことに気がついた。
事故の前か後か。病院で看護師として出会ったはずだが、大学時代から知っていたような気もする。その矛盾に、今まで気づかなかった。
朝になったので、シャワーを浴び、鏡に映る自分の顔を見つめた。頬はこけ、目の下には隈ができている。事故前と比べると十歳は老けた顔だ。それでも一年前の病院のベッドで見た死人のような顔よりはましだ。
衣服を選びながら、左足の痛みを無視しようとした。靴下を履くとき、左足首に触れるのを避けるように素早く動作を済ませる。これも無意識の癖になっていた。
キッチンで簡単な朝食を取りながら、テレビをつけた。天気予報では、今日の東京は晴れで平年より暖かくなるだろうと言っていた。
平年より暖かいとアナウンサーが言っていたはずだが、部屋の中は妙に寒かった。暖房はついているはずだが、息が白く見える。健太は温度計を確認したが、室温は二十一度を示していた。セーターの上にダウンジャケットを羽織っても、寒さは消えなかった。
会社に着くと、まず上司の山下に呼び止められた。
「高橋、先週の企画書だが、少し修正が必要だ」
「どの部分ですか?」
「ターゲット層の分析が甘い。もう少し掘り下げた方がいい」
健太は黙って頷いた。企画書を書いた記憶はあるが、その内容が曖昧だった。最近、仕事上の記憶も断片的になっている。
「あと、体調はどうだ?」
山下の声は少し心配そうだった。
「問題ありません」
「無理はするな。戻ってきたばかりなんだから」
復職してもう半年になるのに、言われ続けている言葉だった。「戻ってきたばかり」という言葉には、時効がないのだろうか。
デスクに座り、コンピュータの電源を入れる。画面が点くまでの間、窓の外を見た。曇りのない空。
企画書のファイルを開いた。自分が書いた企画書のはずだ。しかし画面に並ぶ文字列を目で追っても、内容が頭に入ってこない。文字は確かにそこにあるのに、意味が滑り落ちていく。タイトルすら読み取れない。集中力の問題だろうか。何度も同じ行を目でなぞったが、まるで知らない外国語を眺めているようだった。
山下の指摘した部分がどこなのかもわからない。資料を眺めていると、ふと寒気を感じた。周りを見渡すが、誰も厚着をしていない。ダウンジャケットを着ているのは自分だけだ。
気がつくと昼休みになっていた。午前中に何をしていたのか振り返ろうとしたが、デスクに座ってから今まで何時間分もの記憶がすっぽり抜け落ちていた。時計を見ると十二時十五分。出社してから三時間以上が経過しているはずだが、体感では五分も経っていない。
後輩の佐藤と社員食堂で昼食を取っていると、
「高橋さん、聞きましたか?」
向かいに座る佐藤が小声で話しかけてきた。
「何を?」
健太は食事を続けながら答えた。
「斉藤さんのこと」
健太は一瞬動きを止めた。斉藤という言葉が胸に鈍い痛みをもたらした。
「何がだ?」
なぜだか声が少し震えていた。
「生きているという噂があるんです」
佐藤は声を潜めた。
「山で見たという人がいて」
佐藤は続けた。
健太は箸を置いた。斉藤剛は、遭難事故で亡くなったはずの親友であり、大学の山岳部からの先輩であり、この会社の先輩でもある。週末ごとに二人で山に登るほど親しい仲だった。あの雪山で彼と別れてから一年、その遺体はいまだ見つかっていない。
「そんなはずはない」
健太は断言した。
「あの状況で生き延びられるはずがない」
気づかないうちに強い口調になっていた。
佐藤はそれ以上何も言わなかった。彼の表情には好奇心と、どこか引いたような様子が混ざっていた。
午後の会議で上の空だった健太は、会議が終わった後、屋上に出て美咲に電話をかけた。
「健太、どうしたの?」
心配そうな声。
「うん、ちょっと聞きたいことがあって……」
「なあに?」
「斉藤さんのことなんだ」
電話の向こうで美咲が息を呑む音がした。彼女は斉藤さんのことを知っているはずだが、健太は二人が会ったことがあるのかどうかすら思い出せていなかった。
「斉藤さん?」
彼女の声には警戒心が混じっていた。
「生きているという噂があるらしい」
……長い沈黙。
「そんなことあるわけないでしょ」
美咲の声は冷静だった。
「高橋くん、あなたは自分で見たのでしょう。斉藤さんが亡くなるところを」
健太は息を止めた。俺は斉藤さんの死を目撃したのか?記憶にない。
「そうだったかな。忘れてくれ」
記憶に自信が持てないのでそう答えた。
電話を切った後、何かが腑に落ちない感覚があった。美咲の反応はどこか不自然だった。彼女はいつから自分のことを高橋くんと呼ぶようになったのか。普段は健太と呼んでいたはずだ。健太は違和感を抱いたままオフィスへと戻った。
帰宅してから、冷蔵庫を開け、缶ビールを取り出した。リビングのソファに座り、テレビをつける。ニュースを見ながらビールを飲む。左足の痛みが再び強まってきた。
ソファの横の小さなテーブルに置かれた写真立てに目が留まる。山岳部時代の集合写真。健太は中央に立ち、その隣に斉藤さんがいた。不思議なことに、自分以外の全員の顔がぼやけて見える。
スマートフォンの振動が聞こえたのでそちらに注意が向いた。
美咲からだった。
「今日はもう休んで」
彼女のメッセージには心配が滲んでいた。
「明日、いつものカフェで待ってる」
健太は返事を書きかけて止めた。先ほどの電話での彼女の様子が引っかかっていた。高橋くんと呼んだこと、斉藤さんについての警戒した反応。何か違和感があった。どう返信すべきか迷った末、結局メッセージを無視することにした。
カーテンを閉め、ベッドに横になる。天井を見つめると、そこにも霜が広がっているような気がした。目を閉じると、雪山の記憶が断片的によみがえる。何かが雪の上を這う音。そして斉藤さんの声。
『高橋、食料はどうする?』
いつもの悪夢が始まった。




