第9話:氷の仮面が割れる時
「火事だ!」
その叫び声が、幻想的な仮面舞踏会を一瞬にして地獄絵図へと変えた。
離宮の厨房から吹き上がった炎は、単なる失火ではない。
リリアナが感知した通り、それは魔導によって増幅された不自然な青い炎だった。
「リリアナ、口を覆え! 煙に魔力が混ざっている!」
アルフレッドの声が、リリアナの思考を現実に引き戻す。
彼はバルコニーのカーテンを引きちぎり、手近な水差しの中身で濡らすと、それをリリアナの口元に押し当てた。
その動作は驚くほど迅速で、淀みがない。
「殿下、出口は……」
「正面はパニックに陥った群衆で塞がっている。裏の回廊から脱出する。私の背後にいろ」
アルフレッドはリリアナの手を力強く引き、煙の立ち込める回廊へと飛び出した。
しかし、進む先々に、まるで意志を持っているかのように青い炎が立ち塞がる。
「……くっ、この術式、対象者を追尾しているのか?」
アルフレッドが氷の魔力を解放し、炎を鎮圧しようとする。
しかし、氷が炎に触れた瞬間、不気味な「笑い声」のような異音が響き、炎はさらに勢いを増した。
その様子を見たアルフレッドの顔が、見たこともないほど蒼白に染まる。
「……あ……ああ……」
「殿下……?」
リリアナは目を見開いた。
無敵だと思っていた王子の指先が、目に見えて震えている。
彼の瞳は、目の前の炎を見ているようでいて、もっと別の、ここではない「過去」を視ているようだった。
「……母上……逃げて……。暗い、熱い……誰か……!」
(母上? 何……まさかトラウマ? ゲームでは、火事や今の現象も全てこんな設定なかったはず……)
それでもリリアナは直感する。
アルフレッドが「氷の王子」と呼ばれ、他者を寄せ付けない冷酷さを身につけたのは、この熱い恐怖から自分を凍らせて守るためなのだろうか。
だが、そんなことを考えている余裕はもうない。
アルフレッドの魔力が暴走し始め、周囲の壁が凍りつくと同時に、青い炎が彼の精神を喰らおうと迫る。
「しっかりしてください、アルフレッド様!」
リリアナは彼の手を掴み、その懐に飛び込んだ。
彼女は「火」の魔力を応用し始める。
それは破壊のためではなく、彼を包み込む「暖炉の熱」のような暖かさに。
さらにそこへ、独学で学んでいた「衝撃吸収と空間安定」の古代魔法。
それを彼を外部の悪意から切り離す「絶対障壁」として編み直す。
「見てください、私を! 貴方を焼く炎は、私が全部弾き飛ばしてあげますわ!」
リリアナの叫びに、アルフレッドの焦点がようやく戻る。
彼は自分を必死に抱きしめるリリアナの温もりと、彼女の背後で荒れ狂う青い炎を、初めて正視した。
「リリアナ……君が、なぜ……」
「私は悪役令嬢ですもの。勝手に絶望されるのは癪に障りますわ。さあ、立って。氷の王子様が溶けて消えるなんて、私が許しません!」
二人はリリアナの結界に守られながら、崩れ落ちる回廊を駆け抜け、庭園の奥にある古びた東屋へと逃げ延びた。
夜風が火災の熱を冷ましていく。
遠くでは、騎士たちが消火活動に当たる喧騒が聞こえる中、東屋の陰で二人は肩で息をしていた。
アルフレッドは力なく壁に背を預け、地面に座り込んでいる。
さらに仮面はどこかで失われ、整えられていた銀髪は乱れ、煤に汚れている。
その姿は、一国の王子ではなく、ただの傷ついた少年のようだった。
「……無様だな。私は、この程度の火で……母が死んだあの日の悪夢に、簡単に飲み込まれる」
彼は自嘲気味に笑い、ぽつりぽつりと語り始めた。
それは、歴史の表舞台には決して出ることのない、王宮の闇。
「十年前……王位継承争いの真っ只中だった。私の母はその最中に精神を病み、離宮で心を癒していた。だが、どこからともなく謎の火が舞い、その日が母を包み込んで私の目の前で焼き殺された。母は、私を隠し棚に押し込み、『決して音を立てるな』と言い残して、炎の中へ消えた」
リリアナは息を呑んだ。
ゲームの世界では決して明かされなかった設定。
アルフレッドの冷酷さは、鎧だった。
いつかまた、愛する者が目の前で焼かれるかもしれない。
あるいは、自分が弱さを見せた瞬間に、背後から焼かれるかもしれない。
その恐怖から逃れるために、彼は心を凍土に変え、感情を排した「冷徹な支配者」を演じ続けてきたのだ。
「私は決めたのだ。誰にも心を開かず、誰も愛さなければ、奪われる痛みもない。……だが、君が現れた」
アルフレッドは顔を上げ、リリアナを見つめる。
その瞳には、かつての執着を越えた、剥き出しの「魂の飢え」が宿っていた。
「君は、以前の君なら真っ先に逃げ出したはずのこの炎の中に、自ら飛び込んできた。……なぜだ。君が守るべきは、私との婚約などという利権ではなく、君自身の命だろう?」
リリアナは少し困ったように眉を下げ、彼の隣に座り直した。
「……さあ、どうしてでしょうね。前世の私なら、きっと逃げていたかもしれません。でも、今の私は……貴方のあの孤独な目が、放っておけなかっただけですわ」
「……前世?」
「あ、いえ。……なんでもありません」
リリアナは慌てて誤魔化した。
そしてさらに誤魔化すために、彼女は彼の手に自分の手を重ねる。
まだ微かに震えている、冷たい手。
「殿下……いえ、アルフレッド様。貴方は冷酷なんかじゃありません。ただ、人一倍、優しさを守る方法が不器用なだけです。……これからは、一人で凍りつく必要はありませんわ。私が……その、うるさいくらいに隣で火を焚いて差し上げますから」
アルフレッドは驚いたように目を見開き、やがて、その氷の仮面が完全に崩れ落ちるような、泣き出しそうな笑顔を見せた。
「……うるさい火だな。だが、悪くない」
彼はリリアナの手を握り返し、その額を彼女の肩に預けた。
初めて彼が見せた、心からの依存。
リリアナは、自分の胸が高鳴るのを感じていた。
それが、断頭台を回避するための「戦略」によるものなのか、それとも、一人の男としてのアルフレッドに向けられたものなのか、彼女自身にも分からなくなっていた。
「リリアナ、約束しろ。……私の側から、勝手に消えるな。たとえ炎が世界を焼き尽くしても、君だけは私の側にいろ」
「……努力いたしますわ。私は往生際が悪いのが自慢ですもの」
月明かりの下、二人の距離は、より深く、より深層へ、心の本質的な部分で縮まっていく。
しかし、この火災を仕組んだ黒幕は、二人の絆が深まることを最も嫌う存在なのは、まだ知らない。
(……殿下、貴方の過去を知ってしまった以上、もう私は『ただの悪役令嬢』には戻れないわ)
リリアナの決意が固まると同時に、闇の中から一対の視線が二人を射抜いていた。
運命の歯車は、凄惨な「刺客の襲撃」へと向かって、容赦なく回り始める。
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次回、第10話:刺客の襲撃




