第5話:図書室の密会
放課後の王立ラ・ヴァリエール魔導学園。
夕刻の陽光が、高い天井を支えるステンドグラスを通り抜け、床一面に極彩色の影を落としている。
リリアナ・ヴァン・ベルシュタインは、学園の最深部、一般の生徒は寄り付きもしない「禁書閲覧室」に近い一角のデスクを占拠していた。
目の前には、埃を被った厚い魔導書が積み上げられ、羊皮紙にはびっしりと現代数学の幾何学模様を応用した魔法陣が書き連ねられている。
「……やはり、この術式の起点が『火』の純粋な破壊エネルギーに偏りすぎているわ。それなら火という概念をこの魔力結界に組み込めれば、物理的な衝撃を分散できるはず……」
リリアナは、真珠の髪飾りを口に咥え、燃えるような赤髪を一本の束にまとめ上げると、再びペンを走らせた。
彼女がこれほどまでに必死なのには、理由がある。
先日の「王子と聖女のドキドキ出会い作戦」が、壊滅的なまでに失敗に終わったからだ。
アルフレッドはエレーナに興味を示すどころか、かえってリリアナへの不審を募らせている。
シナリオが崩れ始めた今、彼女に唯一残された生存戦略は、圧倒的な「個の力」を得ること。
すなわち、断頭台の刃を跳ね返すほどの防御魔法の構築だった。
「リリアナ」
静寂を切り裂く、低く冷ややかな声。
リリアナの背筋に、氷の刃を押し当てられたような戦慄が走った。
ペンを握る指が微かに震え、羊皮紙に一滴のインクを落としてしまう。
振り返らなくてもわかる。
この、空気を支配する圧倒的な威圧感は、彼以外にあり得ない。
「……殿下。このような場所で、どうなさいましたか?」
リリアナは極めて冷静に、事務的な笑みを張り付けて振り返る。
そこには、本棚の影から現れたアルフレッド・ド・ラ・ヴァリエールの姿があった。
彼の銀色の髪は薄暗い室内で怪しく輝き、その瞳は獲物を観察する猛禽類のように鋭い。
「どうした、とはこちらの台詞だ。あれから君は一度も私の前に現れず、茶会への招待もすべて体調不良で断っている。その代わり、毎日この埃っぽい部屋に引きこもっているという報告を受けているのだが」
「……ただの学究心ですわ。殿下にお見せできるような、高尚なものではございません」
リリアナはさりげなく羊皮紙を隠そうとする。
しかし、アルフレッドの動きの方が速かった。
彼は一歩で距離を詰めると、リリアナが座る椅子の両側に手を突き、彼女を完全に閉じ込めた。
世に言う「壁ドン」、ならぬ「机ドン」の状態だ。
「……ひっ」
至近距離。
王子の端正すぎる顔が、鼻先が触れそうなほど近い。
彼の纏う冷涼なサンダルウッドの香りが、リリアナの思考を麻痺させる。
「高尚でない、だと? 私の目は誤魔化せない。君が書いているこの術式……これは学園で教える基礎魔導ではないな。古代文字と、見たこともない奇妙な数式が組み合わされている。何を企んでいる、リリアナ」
「企むだなんて……。私はただ、自分を守る力が欲しいだけで……」
「何から守る」
アルフレッドの問いが、リリアナの胸を鋭く突く。
「婚約者である私か? それとも、この学園の誰かか? ……以前の君は、私に縋り付くことでしか自分の価値を見出せなかった。他人の視線ばかりを気にし、装飾品のように私にぶら下がっていた。だが、今の君は違う」
アルフレッドの指先が、リリアナの顎をクイと持ち上げる。
彼の氷のような瞳の奥に、仄暗い情熱が揺れているのを彼女は見てしまった。
「君は、私を避けているのではない。私という存在を『視界の外』に置こうとしている。……私に無関心になろうとしているな」
「それは……殿下がお望みだったことではございませんか?」
リリアナは震える声で反論する。
「殿下は、私の執着を『吐き気がする』と仰いました。だから私は、殿下のご気分を害さないよう、潔く身を引く準備をしているのです。特待生で可愛らしいエレーナ様という相応しい方が現れたのですから、私は……」
その瞬間、図書室の空気が氷点下まで下がった。
アルフレッドの手に力が入り、机の木材がミシリと鳴る。
「……またその名か。君はいつから、私の心の主になったつもりだ? 誰を相応しいと決め、誰を私の隣に据えるか、それを決めるのは君ではない。私だ」
「殿下……」
「君が何を隠しているのか、この私への『嫌がらせ』の結末が何なのか、最後まで見届けさせてもらおう。……だが、忠告しておく。私を無視できると思うな。君がその瞳で、私以外の何かに熱中しているのは……酷く不愉快だ」
アルフレッドはそう言い残すと、今彼女がいるすぐ横の本棚を拳で一度強く叩き、立ち去っていった。
静まり返った図書室で、リリアナはしばらく呼吸することさえ忘れてしまう。
(……おかしい。絶対におかしいわ……!)
リリアナは膝の震えを抑えるために、自分のドレスを強く握りしめていた。
ゲームのアルフレッドは、リリアナに対する関心を失えば失うほど、清々した顔をしてエレーナとの恋に落ちていくはずだった。
しかし、現実の彼はどうだ。
自分を見なくなったリリアナに対し、かつてないほどの怒り、そして歪んだ「関心」を向けている。
「これじゃ……生存ルートどころか、別の意味で逃げ場がなくなってるじゃないの!」
勢いのままに、リリアナは机に突っ伏した。
本来なら、アルフレッドがエレーナと出会い、リリアナの悪事を暴いて婚約を破棄する。
それが「正しい」歴史の形。
だが、リリアナはまだ知らない。
この図書室での「密会」こそが、アルフレッドの中で「リリアナという謎」を解き明かしたいという執着を決定的なものにしたことを。
「……でも、立ち止まってはいられない。どんなに殿下が不気味でも、私は私の身を守る術を完成させなきゃ」
リリアナは再び顔を上げ、ペンを握り直した。
窓の外では、太陽が完全に沈み、夜の帳が降りようとしていた。
その頃、校舎の廊下を歩くアルフレッドは、自分の手のひらに残った感覚を反芻していた。
顎を触れた時の、羽毛のような柔らかな肌の感触。
そして自分を拒絶しながらも、意志の強さを湛えたあの菫色の瞳。
「……リリアナ。君は一体、何を手に入れたんだ」
彼の呟きは、誰にも届かぬまま、夜の風に消えていった。
物語の歯車は、もはや完全に離れ、狂い始めた愛の方向へと回り始めていた。
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次回、第6話:予期せぬ救済




