第3話:氷の王子との再会
春の夜風は、公爵邸の庭に咲き誇る薔薇の香りを運び、リリアナの寝室の窓を叩いていた。
前世の記憶を取り戻してから一週間。
リリアナは一度も屋敷の外へ出ず、憑りつかれたように書類と魔導書に向き合っていた。
「お嬢様、そろそろお召し替えを始めないと間に合いません。今夜は……あの方もいらっしゃる『王宮春季夜会』ですよ?」
メイドのアンが、不安と期待が入り混じった顔で声をかける。
それもそのはず、アンの隣には真っ赤なドレスがマネキンに着せられて置かれていた。
これまでのリリアナなら、この日のために半年以上前から特注した、宝石をこれでもかと縫い付けた重厚なドレスを纏い、王子の視線を奪おうと躍起になっていたはずだ。
しかし、リリアナは机から顔を上げ、静かに微笑んだ。
「ええ、わかっているわ。でもアン、その真っ赤なドレスは解体して売りに出しておいて。今夜は、母様が遺してくれたあのシンプルなドレスにするわ」
「ええっ!? あれは……お嬢様が以前、あんなに地味なドレスは他の令嬢たちに笑われてしまうと言ってありませんでしたか?」
「いいのよ。目立つことが目的ではないのだから。今夜の私の目的は、ただ一つ。『あの方』に、私がもう彼を追わないことを理解させることよ」
リリアナの選んだドレスは、深い夜空のようなネイビーのシルクドレスだった。
それは幼い頃に亡くなった母の遺品であり、これまで大切に保管されていた。
しかし、昔までのワガママお嬢様リリアナは、地味な服が嫌で絶対に着ないと豪語しており、それを知っていたアンは戸惑いながらリリアナにドレスを着せていく。
化粧もいつもの厚いメイクではなく、ナチュラルメイクに近く、装飾は胸元に小さな真珠がいくつかあしらわれているだけで、彼女の燃えるような赤髪を際立たせ、肌の白さを陶器のように美しく見せている。
鏡に映る自分を見て、リリアナは首筋にそっと手を触れた。
夢で感じた、あの断頭台の冷たさ。
(今夜、私はあの男の前に立つ。でも、縋り付くためじゃない。私の未来から、彼を切り離すために)
そして王宮の広間は、光り輝くシャンデリアと貴族たちの虚飾に満ちた笑い声で溢れていた。
リリアナが入場しても、以前のような「我儘放題の公爵令嬢が来たわ」という嘲笑混じりの注目は少ない。
それは彼女が余りにも静かに、そして気高く壁際に佇んでいたからだ。
「ベルシュタイン令嬢、今日はずいぶんと……控えめですな」
「殿下への嫌がらせの手紙も止まったと聞くが、いよいよ殿下に愛想を尽かされたのか?」
周囲の囁きはリリアナの耳に届いていたが、彼女はそれを優雅に受け流し、手にしたシャンパングラスを眺めていた。
今の彼女にとって、社交界の評価など、領地の収支計算書の末尾の数字ほども重要ではない。
その時、会場の空気が一変した。
重厚な扉が開かれ、漆黒の礼装に身を包んだ第一王子、アルフレッドが入場したからだ。
銀髪は月の光を固めたように冷たく、彫刻のように整った美貌は、近づく者すべてを拒絶するような威圧感を放っている。
氷の結晶のような瞳が会場をゆっくりと見渡した。
かつてのリリアナなら、彼が姿を見せた瞬間に他の令嬢を突き飛ばし、「殿下! 私のドレスを見てくださいませ!」と駆け寄っていただろう。
しかし、今日のリリアナは動かなかった。
その姿にさらに周囲が驚きの表情を見せ、ヒソヒソと話し始める。
リリアナは、そんなことも気にせず、ただ遠くから事務的な視線を一度だけ向け、すぐに手元のグラスへと意識を戻していた。
「……リリアナ」
冷ややかな声が、リリアナの背後から響いた。
心臓が跳ねる。
だが、それは恋心ではなく、死の淵を見た者が抱く本能的な警戒心だった。
ゆっくりと振り返ると、そこにはアルフレッドが立っていた。
彼はいつも通り無表情だったが、その瞳にはわずかな不機嫌さが混じっているように見える。
「殿下、ご機嫌麗しゅう。お声をかけていただき、恐悦至極に存じます」
リリアナは完璧な角度で、深く、そして距離を保った淑女の礼を捧げた。
その動作には一分の隙もなく、かつて彼を困らせた「甘え」や「熱狂」は微塵も感じられない。
「……以前、私が贈った宝飾品はどうした。今夜は身につけていないようだが」
アルフレッドの問いは、彼なりの探りだった。
リリアナを繋ぎ止めるための「餌」として与えた、王家の紋章入りの不快な首飾りのことだ。
「ああ、あれですか。……殿下のお手を煩わせるのも心苦しく、既に公爵家の宝物庫へ返却いたしました。今の私には、分不相応なものだと思い至りまして」
リリアナは微笑みさえ浮かべず、淡々と答えた。
アルフレッドの瞳が、わずかに細められる。
「分不相応? 君は一週間前まで、あんなに執拗に私の愛を求めていたはずだが。今さら何を賢者ぶるつもりか」
「賢者になったわけではございませんわ。ただ、目が覚めたのです。殿下がお嫌いなものを無理やり押し付けることが、どれほど無作法で、無益なことか。……今まで、大変ご迷惑をおかけいたしました」
リリアナは一歩、後ろへ下がった。
「これからは、殿下のお時間を奪うようなことは致しません。どうぞ、相応しい方とこの夜をお楽しみください」
言い終えると、リリアナは彼に背を向けようとする。
しかし、王子の瞳に、かつてない動揺が走っていた。
彼は無意識のうちに手を伸ばし、リリアナの腕を掴んでいたのだ。
「……待て。私はまだ、行ってもいいとは言っていない」
掴まれた腕から、彼の冷たい体温が伝わってくる。
リリアナは眉を潜め、冷徹な目でその手を見つめた。
「殿下、大勢の目がございます。婚約者とはいえ、殿下自ら私を嫌っておいでだと公言されていたではありませんか。……それとも、今さら私に何か御用でも?」
「それは……」
アルフレッドは言葉に詰まってしまう。
彼はリリアナを嫌っていたの確かだ。
執拗に追いすがってくる彼女を、軽蔑の対象として見ていた。
だが、いざ彼女が自分を一切見なくなり、まるで路傍の石でも見るような無機質な視線を向けられると、胸の奥で得体の知れない焦燥が襲ってくる。
「君は……何を企んでいる。私を惹きつけるための新しい芝居か?」
「芝居? 殿下、買い被りすぎですわ。私はただ、自分の人生を大切にしたいだけ。……それだけです」
リリアナは強い力で彼の手を振り払った。
驚愕に目を見開くアルフレッドを残し、彼女は一度も振り返ることなく、夜会の喧騒の中へと消えていく。
アルフレッドは、自分の手のひらに残った微かなリリアナの熱を見つめていた。
(何だ、あの目は。以前の濁った、醜い執着に満ちた目ではない。まるで……私など、もう視界にすら入っていないような)
氷の王子と呼ばれ、誰にも心を開かず、すべてを計算で支配してきた彼にとって、リリアナという駒が盤上から勝手に降りたことは、耐え難い「違和感」の始まりだった。
その夜、アルフレッドは自室に戻っても、リリアナのあの去り際の背中が脳裏から離れなかった。
嫌悪していたはずの女。
処刑台へ送ることさえ厭わないと思っていた、うるさい羽虫。
それが今、一輪の冷ややかな月下美人のように、彼の孤独な世界に波紋を広げ始めていた。
一方で、馬車に揺られて帰路につくリリアナは、安堵の溜息をついていた。
(やったわ……。これで殿下の中の『リリアナ=不快な女』という認識が、『関わる必要のない女』に変われば、婚約破棄もスムーズにいくはず)
しかし、彼女はまだ知らない。
自分が王子の「執着」という名の導火線を既に火をつけていたことを。
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次回、第4話:ヒロイン、現る




