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クリームソーダ

掲載日:2025/12/30

 老人ホーム独特の匂いにむせ返りそうになる。

 五月の風も気持ちの悪い匂いがするが、ここはもっと酷い。生にしがみつく腐りかけた濃厚な死の匂いがする。それに虚ろで曖昧だ。病院と違ってそこには希望も絶望も無い。疲れ果てた人生が倦怠と共に押し込められてゆっくりと腐敗していく。

 老人ホームが病院と違うのは消毒液の匂いで腐敗した臭いが隠されていない事もある。

 そのむき出しの腐敗が満ちたリノリウムの床を歩く。安物のスリッパが廊下に響く。スライド式ドアの並んだ部屋は全て開け放たれていた。何も隠す事のないドア。あってもなくても良いドア。筒抜けの眠り。その眠りは殆ど死と変わらない。そして部屋の中には必要な全てがあるようでその実、何もない。空っぽだ。


***


 シリカゲルの砂浜とクリームソーダの海が見える部屋。それが彼の求めた面会の条件だった。月から見える地球はそのように見えるのだろうか。分厚い窓の向こうに広がる暗い空間を眺めながら思った。

 宇宙は黒い。群青色をした地球の夜空とは違う。地球の夜空は慎重に塗り重ねた群青色をしている。それに比べて宇宙は癇癪を起した子どもが黒い絵の具をぶち撒けた様にどこまでも黒い。申し訳程度に光る数粒の星が薄く笑うように瞬く。この宇宙に垂れる一滴のクリームソーダを想像したが、宇宙は台無しにならなかった。


 面会室のドアを開ける。彼は手錠で繋がれたままの腕を頭の後ろに回して指定通りのシリカゲルの砂浜に横たわっていた。音も無く寄せて返すクリームソーダの海はどこまでも広がっているように見える。私は彼から少し離れたところに荷物を降ろしコートを脱いだ。シリカゲルの砂浜らしからぬ硬い音が響いた。

「わざわざ月の裏側まで」

 彼はゆっくりと身体を起こしながらこちらを見た。

「来たんですね。どうも、初めまして」

 丸めた頭を礼儀正しく下げると、アメリカ風のオレンジ色をした囚人服を嗅ぎ始めた。

「まいったな、女の人が来ると知ってれば新しい方を着てきたのに。臭いませんか?大丈夫?」

「いいえ、大丈夫よ」

「そうですか。僕のインタビュー、何かの雑誌になるんですか」

 シリカゲルの砂浜に置かれた椅子に座ると彼はまっすぐに私を見ながら尋ねた。

 囚人番号DP365あ5251。祖母を殺した罪で懲役刑となり現在服役中。本人に控訴の意志は無い。

「なるかも知れないし、ならないかも知れない」

「そうですか。まぁ、ここじゃ読めても半年は先でしょうし」

「ゲラができたら送るから、もう少し早く読めるはずよ」

「それは嬉しいですね。ここは退屈ですから」

 クリームソーダの海が寄せて返す。退屈な世界を彩るには少し毒々しい気もする。チェリーの様な色をした太陽が浮かんでいるが、彼の希望なのだろうか。

 レコーダーを回して机の上に置くと彼は視線をそこに落とした。

「あまり形が変わらないものなんですね。僕が子どもの頃から同じ形をしている」

「小さくはなっていると思うけど」

 彼は笑って視線を私に戻した。

「ぼくは形の話をしているんですよ、先生」

「先生?」

「呼び方がわからない人は、全員先生って呼んでいるんです」

「そう。でも私にはちゃんとした名前があるわ」

「それは別にどうだっていいんですよ。偽物かも分からないし、二度と会う事もないんだ」

「つまり、名前に意味は無いと?」

「忘れる方は良いですよ、忘れるだけですから。忘れられる方はね、忘れられないんですよ。」

「……それがお祖母さんを殺した理由?」

「そんな事を聞きに月の裏側まで?」

「南極の刑務所なら経費が安く上がるから事務所は助かったでしょうね」

「アハハ、経費で月面旅行ができる時代だ。凄いな」

「それでも南極じゃクリームソーダの海は見えないでしょうね」


***


 横たわる老婆の呼吸は一定だった。

 薄く開かれた目が小さく光った。その目には何がどう映っているのだろうか。部屋の天井はどう見えているのだろうか。どこかで見た天井に似ている?見慣れない天井?

 いや、目に見えている世界すら認識できていないだろう。じゃあ記憶の回廊を歩いている?いつまでも尋常小学校の通信簿を大事に取っていたように、慎重にその回廊を歩き続けているのだろうか。

 祖母はもうとっくの昔に誰が誰だか認識できなくなっていた。つまり彼女は孤独だった。断絶した記憶。思い出せないそれはあっても意味の無いもので、恐らく外国語の書架を眺めているのに似ているんだろうと思う。

 静かに繰り返される呼吸。それすら電力が無いと維持できない。じゃあ脳みそのどの部分が活動していると言うんだ?

 痒さは認識できるのだろうか。単なる反応か、祖母は緑色のミトンをつけた手で身体を搔きむしっていた。


***


 

「生きてさえいれば良い、なんてのは嘘ですよ。死ぬより酷い事なんてのは沢山あります。四肢の麻痺とか、脳症とか。記憶障害なんかもそうだと思います。」

 手錠を鳴らしながら彼は話し続けた。

「先生は、生きているってどういう事だと思います?」

「さぁ」

「話すのは仕事じゃないって顔ですね。まぁ続けましょう。例えばご飯を食べるとか、眠る、セックスをする、こうして話すとか聞くとか、そういう事だと思いますか?でもそれって言うのは肉体があるからできるんですよ、それが出来ない、動かせない肉体って言うのは生きているとは言えない」

「昔に流行った植松理論かしら?それともピーターシンガー?」

「倫理の話には興味が無いんですよ。実際に四肢が動かせずコミュニケーションの取れない動物の個体は死ぬのが普通だ。生かされているのは異常だし、その個体を生かしている肉親が死んだら誰がその個体の面倒を見るんです?その孤独の中で生命を維持する事は生きていると言えるのか、僕には疑問ですね」

「だからと言ってお祖母さんを殺して良い理由にはならないわ」

「殺して良いとは思っていませんよ。そんな話はしていません。生きている意味を聞いているんです。家族と言う最小単位の社会からも離れて、宇宙空間を彷徨い続けるタウゼロの宇宙船みたいにどこまでも果てしなく孤独な存在は生きていると言えますか?その存在に価値はありますか?」

「その人を憶えている存在がいる限り、意味はあるんじゃないかしら」

「逆ですね、それは忘れてはならないと言う呪いですよ」


***


 人工呼吸器の電源を引き抜いた。

 辛うじて停止していた腐敗が直ちに進行する。すでにスポンジの様になった祖母の脳みそは逆に何を残しているのだろうか。断絶した記憶すら残っていないだろう。夢は見るのだろうか?それは長い悪夢とどう違うのだろうか?目を覚まさない悪夢は日々を生きるのと何がどう違う?

 握りしめた金槌を腐って空っぽになった頭に振り下ろす。これは個人的な憂鬱だ。でもそれは60億の憂鬱でもある。

 部屋の壁には小さい頃に描いた絵が張り付けられていた。元気そうに笑う祖母の似顔絵の上には「いつまでも長生きしてね」と書かれていた。いまその願いをこの手で終わらせた。いや、その呪いを解いただけだ。


***


「タウゼロの宇宙船を止めた。それが事故であろうとも止まる事ができて、少なくとも乗組員の孤独や絶望は救われた。そう思いませんか?」

「ヒーローや神様にでもなったつもり?」

 そう訊くと彼は声をあげて笑った。

 シリカゲルの砂浜とクリームソーダの海が映された部屋に笑い声が響く。チェリーの様な太陽が浮いている。

 彼は両手を上下に付けて前に出すと、指を花のように広げて笑った。

「先生はさ、これ出せない側だったひとの気持ち、わからないでしょ」

 

 クリームソーダの海にひとつの小さな黒い点があった。投影機のエラーだろうか。緑色の海はそれだけで台無しになっていた。

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