第一話「悪女仕草」
幼きケイレヴ公爵家嫡男クロフォードは、茶会で出会った二歳年上の伯爵令嬢レイアに初恋を抱く。活発で屈託のない彼女が示した純粋な優しさに内向的な彼の心は救われた。しかし時は流れ、十七歳になったレイアは貴族社会の重圧に押し潰され、かつての輝きを失っていた。王立アカデミーでレイアは婚約者となったクロフォードの美貌と才能に引け目を感じながら日々を送っていた。そんな彼女の前に現れたのが、燃えるような赤髪の美貌を持つメルリィ・ダコバ男爵令嬢。彼女はクロフォードへの恋慕を隠さず、レイアに陰湿な嫌がらせを繰り返すようになる。そんなレイアを見かねたクロフォードは、彼女をサロンに呼び出し──
§
この日、ケイレヴ公爵家の広大な庭園では長年の盟友であるシャルドネ伯爵家を招いての、親密ながらも格式高い茶会が開かれていた。
テラスでは大人たちが表向きは穏やかな笑みを浮かべながら話をしている。
ケイレヴ公爵家とシャルドネ伯爵家。家格には明確な隔たりがあったが、両家の絆は深く、この茶会には次代を担う子供たちの顔合わせという未来への重要な布石の意味合いも含まれていた。
ケイレヴ公爵家の嫡男、クロフォード・ケイレヴは当時まだ八歳だった。銀糸のような髪と深い湖水を思わせるサファイアブルーの瞳を持つ美しい少年だ。公爵家の嫡男として生まれ落ちた彼は、その小さな肩にすでに重すぎるほどの期待と責任を背負わされていた。
線が細く、極度に内向的な性格だった彼はしかし、同時に非常に利発でもあった。
だからこそこの茶会の意味を理解していた。
正直な所、クロフォードは自身の意思に関係なく物事が進んでいくこの状況に納得がいっていない。ましてや将来の伴侶をも勝手に決められるというのは、多感な年頃の彼にとっては思うところが大であった。
そんな風に気乗りしないクロフォードが人混みを避け、庭園の隅にある古い樫の木の下に隠れるようにして、植物図鑑を読みふけっていると──
「ねえ、そんなところで何をしているの?」
突然、頭上から太陽のように明るい声が降ってきた。驚いて顔を上げると、木漏れ日を背負って立つ一人の少女がいた。自分より二つ年上の十歳。艶やかな亜麻色の髪を活発そうに揺らし、屈託のない笑みを浮かべている。シャルドネ伯爵家の令嬢、レイアだった。
「……本を、読んでいました」
クロフォードは、蚊の鳴くような声で答えるのが精一杯だった。
「こんなに良いお天気なのに? もったいないわ。ほら、こっちへいらっしゃいよ。ここのお庭は広いから一緒に探検をしましょう!」
レイアはそう言うと、何の躊躇もなくクロフォードの手を取った。その手は温かく、そして驚くほど力強い。クロフォードは抵抗する間もなく、安全地帯だった樫の木の下から引きずり出される。
「待って、ですが、服が汚れてしまいます……父上に叱られます」
「大丈夫よ。もし誰かにいじめられたら、このお姉さんが全部解決してあげる! あなたは将来、偉い公爵様になるんでしょう? だったら、もっと堂々としていなくちゃ」
レイアは小さな胸をぽんと叩いた。
クロフォードは目を見開いた。彼を守ると言った人間はこれまでにも大勢いた。傅役、家庭教師、護衛騎士。だが彼らの言葉は義務感や打算から発せられたものだ。彼らは「公爵家の跡取り」を守るのであって、クロフォードという個人を守るわけではない。それが彼にはよくわかるのだ──表情やささいな仕草、体全体から滲み出る雰囲気で。
高位貴族の嫡男として特別な教育を受けてきた彼には、幼くともそれくらいの事は出来る。その彼の目から見て、レイアの言葉は違った。それは純粋な好意であり、無償の優しさだった。彼女は彼が誰であるかに関係なく、ただ彼自身を見てくれていた──そう、クロフォードは感じた。
それが分かった瞬間、クロフォード・ケイレヴは恋をしたのだ。
§
王立アカデミーの時計塔が重々しく正午を告げる鐘を鳴らしている。高い天井から吊り下げられた豪奢なシャンデリア、壁に飾られた歴代国王の肖像画、磨き上げられた大理石の床。すべてが重厚で、歴史の重みを感じさせる。
私はため息を一つついて、手にしていた歴史書を閉じた。
私はレイア・シャルドネ、十七歳になる。この伝統ある学園に通い始めて数年が経つが、どうにもこの空気に馴染めずにいた。
昔はもう少し活発だった気がする。あの幼い頃、クロフォード様の手を引いて庭園を駆け回っていた頃の私は一体どこへ行ってしまったのだろう。貴族社会の複雑なしきたりや息の詰まるようなマナーを学ぶうちに、私はすっかり気弱で奥手な性格になってしまった。自分の意見を主張することもできず、ただ周囲の期待に応えようと息を潜めて生きている。
ただ呼吸をしている事を生きているとは言わない──そんな言葉がとある書物にあったが、まさにその通りだ。私は今、生きているようでいて生きていない。そんな感じがする。
そんな私ではあるが、実は分不相応な婚約者がいる。
クロフォード・ケイレヴ公爵令息。
彼とは幼い頃からの知り合いで、両家の親密な関係もあって、ごく自然な流れで婚約が決まった。クロフォード様は私より二つ年下だが、その優秀さから二階級も飛び級し、私と同じ学年に在籍している。彫刻のような美しい容姿と、全てを見透かすような深い青色の瞳。彼は学園中の憧れの的であり、同時に畏怖の対象でもあった。
あの線が細く内気で、いつも私の後ろをついてきていた愛らしい少年の面影はもうどこにもない。むしろ立場は完全に逆転してしまった。今や彼はどこにも隙のない氷の貴公子へと成長し、私を導き、守ってくれる存在になっていた。でも、彼が眩しければ眩しいほど、私の影は色濃くなっていくようだった。
公爵家と伯爵家。その家格の違い。そして、私自身の至らなさ。私が公爵家の未来の女主人として相応しいのか、疑問視する声も聞こえてきた。けれどクロフォード様はいつも私を大切にしてくれた。彼は私の至らなさを決して責めることなく、静かに見守ってくれていた。
その関係はこれからも変わらないはずだった。少なくとも、私はそう信じていた。あの女性が現れるまでは。
§
昼下がりの温室。私は一人で静かに読書をするのが好きだった。ここは人が少なく、植物の香りに包まれていると少しだけ心が安らいだからだ。
しかしその静寂は甘ったるい、それでいて棘のある声によって破られた。
「レイア様、ごきげんよう。奇遇ですわね」
顔を上げると、そこには燃えるような深紅の髪と挑発的な翠の瞳を持つ、息をのむような美貌の令嬢が立っていた。メルリィ・ダコバ男爵令嬢。最近クロフォード様に急接近していると噂の女性だ。
「ごきげんよう、メルリィ様」
私は平静を装い、挨拶を返した。心臓が早鐘を打っているのが自分でも分かった。
「先ほどまで、クロフォード様とご一緒させていただいておりましたの。レポートについてご相談に乗っていただいたのですが、まあ、なんて的確なご指摘でしょう。あの方の知性には本当に感服いたしますわ」
彼女は艶然と微笑み、わざとらしく私の隣に腰を下ろした。
「そうですか。それは有意義な時間でしたわね」
私は空虚な返事をした。手にした本の内容が、全く頭に入ってこない。
「ええ、本当に。あの方の隣に立つ女性はやはりそれ相応の覚悟と、そして能力が必要だと思いますの。ただ家柄が良いというだけでは務まりませんものね。特にケイレヴ公爵家のような、格式高い貴族家では」
メルリィ様は私を値踏みするように見ると、嘲るように鼻で笑った。彼女の指摘は的確に私の心の最も柔らかい場所を抉った。それでも私は何も言い返せず、拳を固く握りしめるばかりだ。能力、覚悟。その双方が私に備わっているか──正直、否と言わざるを得ない。そもそも、クロフォード様の隣に立つだけの能力、覚悟とは一体どのようなものを指すのだろう。それすらも私にはわからないのだ。
「あら、ごめんなさい。少し出過ぎたことを申しましたわね。ですが、これもクロフォード様の将来を思えばこそ。それでは、失礼いたしますわ」
彼女はそう言うと、勝ち誇ったような笑みを浮かべて颯爽と立ち去っていった。彼女が通り過ぎた後には濃厚な香水の香りが残っている。その香りが私の劣等感をさらに刺激した。
悔しい。だが、何よりも情けなかった。私は本当にクロフォード様に相応しいのだろうか。そんな不安が黒い霧のように私の心を覆い尽くす。
それからというもの、メルリィ様の陰湿な嫌がらせが始まった。大切にしていた母の形見の栞が無残にも引き裂かれてゴミ箱に捨てられていたり、お茶会の席で、私のドレスにわざとらしくワインがこぼされたり。
彼女は巧妙だった。決して自分が手を下すことはなく、取り巻きの令嬢たちを使って私を孤立させ、追い詰めていった。私が何かをしようとすると必ず邪魔が入る。私が何かを発言すると必ず嘲笑される。
私は誰にも相談できなかった。こんな惨めな姿をクロフォード様に見せたくなかった。彼に心配をかけたくなかった。そして何より、彼に失望されたくなかった。
私は日に日に憔悴していった。夜は悪夢にうなされ、昼は周囲の視線に怯える。鏡に映る自分の顔は青白く、目の下には濃い隈ができていた。
そんなある日、クロフォード様から一通の招待状が届く。学園の最上階にある、王太子殿下専用の特別サロンへの招待だった。
なぜそんな場所に私を呼ぶのだろう。もしかして、本当に婚約解消の話なのだろうかと私は恐怖と不安に苛まれながら、約束の時間にサロンへと向う。
§
サロンの中は外の世界とは隔絶された静謐な空間だった。豪華でありながらも洗練された調度品が並び、窓からは王都の街並みが一望できる。窓際の特等席に座っていたクロフォード様は、私の姿を認めると静かに微笑んだ。
「よく来てくれたね、レイア。さあ、こちらへ」
彼の声は優しかったが、その瞳は私の全てを見透かしているかのようだった。この目は苦手だ。私の情けない想いを全て見透かしてしまっていそうで。私は緊張しながら、彼の向かい側のソファに腰を下ろした。
「まずは紅茶でも飲もう。特注の茶葉を取り寄せたんだ。君の好きな松明花の香りがするものだ」
彼はそう言って、優雅な手つきで紅茶を淹れてくれた。その香りに少しだけ心が和らぐ。けれど、今の私にはそれを楽しむ余裕などなかった。
「さて、レイア」
クロフォード様はカップを置くと、真っ直ぐに私を見つめた。
「単刀直入に聞こう。最近、君の様子が明らかにおかしい。一体何があったんだい? 私に隠し事をしているね」
彼は核心を突いてきた。私はどきりとして視線を逸らした。
「いえ、そのようなことは……少し疲れが溜まっているだけですの。学業が忙しくて……」
私はごまかそうとしたが、彼の鋭い視線の前ではそんな子供騙しの言い訳は通用しなかった。
「レイア。私の目を見て言いなさい。君は嘘が下手だ。そんな青白い顔をして何もないはずがないだろう」
私は観念して俯いた。やはり彼に隠し事はできない。
「君をそこまで悩ませているのは、メルリィ・ダコバ男爵令嬢のことだろう?」
彼はこともなげに言った。私は弾かれたように顔を上げた。彼は全て知っていたのだ。私の苦しみを、私の悩みを、全て。
「君の周りで起きている些細な出来事は、全て私の耳に入っている。君のドレスが汚されたことも、大切な本が破られたことも、彼女が君に関する悪意ある噂を流していることも、全て把握している」
平坦な声。私が知っている優しい彼とはまるで別人のようだった。恐怖すら感じるほどの冷徹さだった。
「ご存知だったのですか……」
「ああ。私はこの学園で起こる全てのことを把握している」
彼は淡々と続けた。
「本来ならば君という婚約者がいる私から彼女に対して厳重に抗議し、二度と君に近づかないよう警告すべきだと思う。が、私はあえてそうしなかった」
彼の言葉は私の期待を裏切るものだった。
「……なぜ、ですか……? なぜ、私を助けてくださらなかったのですか……? 私が、こんなに苦しんでいるのを知っていて……」
私は震える声で彼を詰問した。彼に対する微かな怒りと、裏切られたような思いが込み上げてくる。
「君を助けたいと思っていたが、それ以上に大切な事があり、それを知りたかった。私は君がどう対処するのかを見たかったのだ。僕の婚約者として、将来の公爵夫人として、どういう手段を用いて彼女を排除するのかを見たかった。しかし、君はそれができなかった。ただ怯え、耐えることしかできなかった」
彼の言葉は容赦なく私の心を抉った。私の無力さを、私の愚かさを、冷徹に突きつけられた気分だった。私は彼に試されていたのだ。そして、その試験に落第したのだ。
「つまり、婚約者として私は、失格……ということでしょうか……。だから、婚約を解消するために、私をここに呼んだのですか……」
彼から婚約解消を告げられる瞬間が恐ろしかった。涙が溢れそうになるのを必死で堪える。
「なぜそうなる? 話を飛躍させるのは君の悪い癖だ」
クロフォード様は呆れたようにため息をつき、私の隣に座って私の冷たくなった手を優しく包み込んだ。
「私は君を愛している。君には傷ついてほしくはない。だが、それでもなお知っておくべきだと考えたんだ。君のやり方をね」
彼は何を知りたかったのだろう。私のやり方とは何の話なのだろうか。
「君は優しい。だが、貴族社会の現実を知らなさすぎる。それを責めているわけではない。君のご両親の教育は、君を素敵なレディにしてくれた。そこには感謝をしている。その上で私は君にはダコバ嬢を排除する事はできなかった事を問題視している。なぜ出来ないのか? 私は私なりに色々考えた。そして出た結論は、君がやり方を知らないから、というものだった」
「やり、かた?」
私は彼の言葉の意味が分からず、首を傾げた。
「その通り。貴族として自分に仇なす政敵を排除する際の、謀略の廻らせ方さ。彼女は男爵家、君は伯爵家だ。君がその気になれば、いくらでもやりようはあったはずだ。例えば彼女の家の財政状況を調べ上げ、弱みを握るとか。彼女の過去の醜聞を暴き立て、社交界から追放するとか。私の力を使ってもいい。君から頼まれれば情報の一つや二つは喜んで収集してこよう。しかし君はそのいずれの手段も取らなかった。きっと優しい君は、そういう手を使うという選択肢を考えもしなかったのだろう」
謀略。その言葉に私は息を呑んだ。そんな物騒で、恐ろしいこと、考えたこともなかった。私はただ、彼女が私に嫌がらせをやめてくれればいいと思っていただけだ。彼女を陥れるなんて、そんな恐ろしいこと。
「なぜそんなものを知らねばならないのか──それは最悪の場合、君が死ぬからだ。君だけではない。あるいは私も死ぬかもしれない」
クロフォード様の口から出た、あまりにも衝撃的な言葉に私は凍りついた。
「し、死ぬ!? クロフォード様が!? そ、それに私も!?」
私は驚愕した。そんな大袈裟な。ここは学園なのに。
「ああ。いや、誤解しないでほしい。ダコバ嬢が君を殺すという話ではないよ。君がケイレヴ公爵家の人間として、この家に嫁いできた時の話だ。我々には君が想像する以上に多くの敵がいる。その敵意を我々は適切に処理できなければならない」
クロフォード様は真剣な表情で語り始めた。ケイレヴ公爵家が持つ権力と、それに伴う危険について。
「我々の失脚を狙う者、我々の利権を奪おうとする者。彼らは目的のためなら手段を選ばない。時には、直接的な暴力に訴えることもある。私の父も、過去に何度も命を狙われたことがある。毒を盛られたり、馬車が襲撃されたり……」
彼は淡々と、しかし有無を言わせぬ迫力で語り続けた。貴族社会の裏側。華やかな世界の裏に隠された、陰湿で、血生臭い現実を。
そうして彼はまるで歴史の講義をするかのように続けた。
「我々の国の歴史を紐解いても、似たような事例は枚挙にいとまがない。百年前のオルレアン公爵夫人の悲劇を知っているかい? 彼女は慈悲深く心優しい女性だったが、ある夜会で新興の伯爵令嬢から些細な侮辱を受けた。夫人はそれを笑って許したが、その結果、彼女は軽んじられ、次第に社交界での立場を失っていった。その伯爵令嬢はオルレアン公爵夫人を舐め切っていたのだな。そして最終的に、彼女の夫は政敵の陰謀によって失脚し、彼女自身も修道院に幽閉された後、謎の死を遂げた。陰謀というのは仕掛けられた時の対処も大切だが、そもそも仕掛けられない事のほうが大切だ。この相手に下手な事を仕掛ければただではすまない──そう思わせる事が最も血が流れないスマートなやり方だ。オルレアン公爵夫人は優しかった。しかし結果的にそれは他の貴族から舐められる事となり、彼女自身と一族を滅ぼしたのだ」
聞いているだけで身の毛がよだつような話だった。私はそんな恐ろしい世界で生きていける自信がなかった。今まで自分が生きてきた世界が、いかに狭く、平和だったかを思い知らされた。
「貴族社会は常に戦場だ。一瞬でも油断すれば食い殺される。それが君がこれから生きる世界の現実だ」
彼の言葉は冷徹だったが、それは彼が生きている世界の真実なのだろう。
「私は君を守りたい。心からそう思っている。だが現実問題として、私が常に君の傍にいて守り続ける事はできない。私がいない場所で君が危険に晒されることもあるだろう。その時、君自身が自分を守るための力、牙と爪が必要なんだ。その力を得られないならケイレヴ公爵家へ嫁ぐ事は君の不幸に直結してしまう」
彼は私の目を見つめた。
「でもね、人には向き不向きもあるということは分かる。君がもし、“こういう事”にどうしても抵抗があるというのなら、今この場で、婚約を解消しても構わない。私は君を危険な目に遭わせたくない。君が平和な人生を送ることを望むなら、私は喜んで君を手放そう」
私は耳を疑った。婚約解消? それは私にとって、死刑宣告にも等しい言葉だった。彼と離れるなんて、考えられない。彼がいない人生なんて、意味がない。でも──
「クロフォード様は……私が身を引いたほうが良いのでしょうか……」
もし彼がそう望むなら。私の存在が彼の重荷になるのなら。私は、震える声で尋ねた。
「それは違う」
クロフォード様はそういって私の前に膝をつき、私の冷たくなった手を両手で包み込むように握りしめた。
「私は君と一緒になりたい。他の誰でもない、君を愛しているんだ。だから、無理をしてほしい。私の為に」
「無理、というのは──」
クロフォード様の手。幼い頃、彼の手を引いて庭園を駆け回った時のことを思い出す。あの頃は私が彼を守っていたのに、いつの間にか私たちはこんなにも変わってしまった。
「私の為に、私の傍で生きるために、君には悪女となってほしい」
「悪女……私が……?」
「そうだ。君の、私の──いや、我々の敵を容赦なく叩き潰し、自分と私が大切にするものを守るための力を持った女性。それが私が君に望む姿だ。君に必要なのは、知識と経験だ。そしてそのための教材が目の前にある。メルリィ・ダコバ男爵令嬢だよ。彼女を相手に、貴族の謀略のイロハを学ぶんだ」
彼の言葉は衝撃的だった。しかし不思議と恐怖はなかった。彼と共に生きていきたい。でもそんな事、私にできるのだろうか──そう思っていると。
「大丈夫だ、レイア。私が君に教えよう。厭な貴族の振舞い方というものを。なに、君には素質がある──それが私にはわかるのさ」
そう言ってクロフォード様は笑った。
その笑みは普段の彼とは違う、どこか様子をうかがうようなもので──ああ、そうだ、あの頃の彼の笑い方に少し似ている。
嫌われないか不安そうにしていた、幼い頃のクロフォード様の。
ふ、とその時。私の中に、彼の為にどんな女にでもなろうという想いが湧いてきた。同時に、メルリィ様──いえ、メルリィへの怒りに似た薄暗い想いも。ああ、私も結局、貴族の女という事か。
「分かりました、クロフォード様。どうか私に、悪女の振舞い方を教えてくださいませ」
§
その日から私の奇妙な二重生活が始まった。表向きは淑女教育の総仕上げに励む模範的な貴族の令嬢。しかしその裏では、クロフォード様による秘密の「悪女の英才教育」が、容赦なく施されていた。私たちは毎日、人目を忍んで王太子専用のサロンで密会を重ねていた。ちなみにクロフォード様は王太子殿下とは昵懇の仲らしく、私たちがサロンを使う際には人払いをしてくださっているらしい。
「いいかい、レイア。謀略の基本は情報収集だ。敵を知り己を知れば、百戦危うからず。相手の弱点を知らなければ効果的な攻撃はできない」
彼はそう言って、分厚い革張りのファイルを取り出した。そこにはメルリィに関する信じられないほど詳細な情報が記されていた。家族構成、交友関係、過去の経歴、趣味嗜好、そして彼女が抱える後ろ暗い秘密まで。ダコバ男爵家が近年急速に勢力を伸ばしてきた背景にある、かなり強引な商売や、違法スレスレの取引など、黒い噂も詳細に記されていた。
「凄い……こんな事を一体いつ調べたのですか?」
「私は私に近づこうとする者の事は全て調べ上げるようにしている。幸いケイレヴ公爵家の腕は長くてね。君も今後はそうするんだ。仮に君に近づく者がいれば、君の家の力でも私の家の力でもどちらを使ってもいいから、その背景を調べ上げる事だ。敵意を以て近づいてくる者、好意を向けて近づいて来る者──双方等しく疑念の目を向けなさい」
「私に近づく者すべてを、ですか?」
「そうだ──まあ、そのあたりは追々教えよう。人を調べるにもやり方というものがあるからね。さて、今日の講義はここまでだ。メルリィ嬢の資料は持ち帰ってよく読み込んでおきなさい。明日、君が彼女に対して何を仕掛けるべきか、君の考えを聞かせてもらうよ。どんな考えでも構わない、もしそれに問題があれば、私がきちんと指摘するし、決して怒ったりはしない」
「は、はい……!」
サロンを退出した私の胸には今まで感じたことのない黒い感情が渦巻いている。恐怖、不安、そして……奇妙な高揚感。
§
自室に戻った私は、暖炉の前に座り込み分厚い資料を改めて検分した。ページをめくるたび、メルリィという人間の輪郭がよりはっきりと、そしてより禍々しいものになっていく。
(なんてこと……)
資料を読み進めるうちに私の心の中で何かが変わっていくのを感じた。今までの私はただ怯える子羊だった。だが今は違う。これは正当防衛であり、未来の自分とクロフォード様を守るための戦いなのだ。そう思うと不思議と力が湧いてきた。
私の頭に様々な意趣返しの筋書きが浮かんでくる。その多くは今まで私が愛読してきた物語から得た知識だ。
例えば、ある歴史小説では敵対する貴族の令嬢に恥をかかせるため、夜会で彼女が身につける予定の宝石を偽物とすり替えていた。メルリィも高価な装飾品を好む。あれを精巧な偽物にすり替え、専門家に鑑定させれば……。
あるいは恋愛小説の悪役令嬢は、恋敵の令嬢が乗る馬車の車輪に細工を施し、事故に見せかけて怪我を負わせていた。メルリィが令嬢たちとお茶会に行く馬車に同じことをすれば……。いや、これはやりすぎかもしれない。
もっと過激なのはどうだろう。ある物語では、主人公が政敵の一族を根絶やしにするため、ありもしない反逆の罪をでっち上げ、国王に讒言していた。ダコバ男爵家の黒い噂を利用すれば、それも不可能ではないかもしれない。
私は興奮を覚えながら、次々と悪辣な計画を練り上げていった。
翌日の放課後。私は少し誇らしい気持ちで、クロフォード様に自分の計画を披露した。
「……以上が、私が考えた報復の計画ですわ。いかがでしょうか、クロフォード様」
「ふむ……」
私の話を黙って聞いていたクロフォード様は、しばらく腕を組んで考え込んでいたが、やがて口を開いた。
「君には、どうやらそちら方面の素質があるのかもしれないな」
「本当ですか!?」
「ああ。だが、それは過剰だ」
予想外の言葉に、私は目を丸くした。
「過剰、ですって……?」
「その通りだ。いいかいレイア。君の計画はどれも派手で劇的だが、同時に危険すぎる。馬車に細工をすれば、彼女だけでなく他の令嬢や、無関係の人間まで巻き込む可能性がある。反逆罪のでっち上げに至っては論外だ。我々が仕掛けたことが露見すれば、それこそケイレヴ公爵家が取り潰される。謀略の要諦は、如何に最小限の力で、如何に気取られず、そして如何に効果的に相手を無力化するかにあるんだ。君のやり方は、言わば大砲で蚊を撃つようなものだ。勿論君のやり方を取らねばならない時もある。例えば相手が強大で、そして敵意ある存在である時。相手を完膚なきまでに叩き潰さなければならない時が我々には必ず来る。だが、その時は今ではない」
彼の指摘は冷静で的確だった。私は自分の考えの浅はかさを恥じた。物語の世界と現実は違うのだ。
「では……どうすれば良いのでしょう……」
「良い加減というものを教えよう。例えば、君がワインをこぼされたドレスの件だ」
クロフォード様はそう切り出した。
「メルリィは特定の仕立て屋を多く利用している。その仕立て屋の内情に注目するんだ。これも覚えておきたまえ。特定の人物の事を調べようと思うなら、その人物が懇意にしている者から先に調べるのさ」
彼は続けた。
「不正をしてまで金を得ようとする者は、大概金に困っている。そういう者が懇意にする仕立て屋だ。まともなはずがないだろう? 私はすでにその仕立て屋について調べを進めている。そして、奴らが他の有名デザイナーの作品を盗作し、安価で売りさばいているという証拠を掴んだ」
「盗作……!」
「そうだ。次の夜会で、メルリィ嬢と、彼女の取り巻きの令嬢が、その仕立て屋で作らせたドレスを着てくるだろう。その夜会には、盗作された側のデザイナー本人も招待してある。……どうなるかは、分かるね?」
クロフォード様は、悪戯っぽく片方の口角を上げた。私は息を呑んだ。
つまりメルリィたちは何も知らずに、夜会の主役であるはずのデザイナー本人の前で、その盗作ドレスを披露してしまうということ……。その結果、彼女たちがどれほどの恥をかき、社交界での信用を失うかは火を見るより明らかだ。
血も暴力も、大掛かりな陰謀もない。けれど、これ以上に残酷で効果的な報復があるだろうか。
私は背筋に冷たいものが走るのを感じた。これが、クロフォード様の言う「良い加減」。これが、貴族の戦い方なのだ。
「分かったかい、レイア。これが貴族のやり方だ。陰険で──陰湿だろう?」
クロフォード様の深い青色の瞳に見つめられ、私はこくりと頷くことしかできなかった。
§
そして運命の夜会の日がやってきた。
王家の主催するその夜会は、社交界でも最も格式高いものの一つだ。会場となった王宮の大広間は、天井から下がる巨大なシャンデリアの光を浴びて、さながら星空のようにきらめいている。着飾った貴族たちの立てるざわめきが、心地よい音楽と混じり合っていた。
私の隣には、夜の闇を溶かしたような漆黒のタキシードに身を包んだクロフォード様がいる。その完璧なエスコートを受けながら、私は内心でごくりと喉を鳴らした。これが、私の初陣だ。
「緊張しているのかい?」
クロフォード様が私の耳元で囁く。
「……少しだけ。ですが、武者震いですわ」
強がってそう言うと、彼は満足そうに微笑んだ。
やがて、会場の入り口がにわかに騒がしくなる。メルリィが、数人の令嬢を引き連れて現れたのだ。彼女たちは、示し合わせたように同じ系統のデザインのドレスを身にまとっている。淡いピンクや水色、ミントグリーン。色とりどりのドレスは、確かに華やかで美しい。
メルリィはひときわ豪華な、薔薇色のドレスを着ていた。胸元には大粒のダイヤモンドが輝き、勝ち誇ったような笑みを浮かべている。彼女はすぐに私たちの存在に気づくと、わざとらしく大きな声で笑いながら、こちらへやってきた。
「まあ、レイア様。ごきげんよう。今宵の貴女は、ずいぶんと……地味ですこと」
彼女は私の着ているシンプルな紺色のドレスを、頭のてっぺんからつま先まで見下ろした。しかし、今日の私にその言葉は少しも響かない。
「ええ。今宵の主役は、私ではありませんもの」
私が微笑みながらそう返すと、メルリィは一瞬きょとんとした顔になった。だがすぐに、いつもの嘲るような笑みを浮かべる。
「あら、そうでしたわね。シャルドネ伯爵家のような家格では、主役になどなれませんわよねえ」
その時だった。会場の空気が、ぴんと張り詰めた。招待客たちが分かれて道を開ける。その先から現れたのは、白髪を綺麗に撫でつけた初老の紳士だった。威厳のある佇まい。彼こそが、当代随一と謳われるデザイナー、ムッシュ・グランディエその人だった。
彼の登場に、メルリィたちの顔色が変わる。彼女たちにとって、グランディエは雲の上の存在。憧れの対象だ。
グランディエは穏やかな笑みを浮かべて周囲に会釈しながら、ゆっくりと歩を進めていたが、その足が不意に止まった。彼の視線は、真っ直ぐにメルリィへと注がれていた。
「おお……これは……」
グランディエはメルリィのドレスに注目し、ゆっくりと彼女に近づいた。メルリィは緊張と興奮で頬を紅潮させている。憧れのデザイナーに注目されたのだ。最高の栄誉だと感じているのだろう。
「ムッシュ・グランディエ! 私のドレス、いかがでしょうか」
しかし、グランディエの口から出たのは、賞賛の言葉ではなかった。
「このドレスのデザイン……実に興味深い。私が次の春に発表する予定の新作コレクションと、驚くほどよく似ている」
彼の静かな声が、会場に響き渡った。音楽が止み、全ての視線がメルリィに集中する。
「え……?」
メルリィは狼狽えた。
「特にこの胸元のドレープの寄せ方、そしてスカートにあしらわれた刺繍のモチーフ。これは私が長年温めてきた、独自の意匠のはずですが……。どこでお手に入れになりましたかな、ご令嬢」
公然と指摘されたメルリィは、顔から血の気が引いていくのが分かった。
「そ、そんな……わ、私は、ただ、いつもの仕立て屋に……」
その時だった。クロフォード様が私の耳にそっと唇を寄せた。
「レイア。グラスを落としたまえ。そしてダコバ嬢が君を見たら、微笑んであげなさい」
ぱりん、と甲高い音が響いた。
私の手から滑り落ちたシャンパングラスが、大理石の床で砕け散る。その音に、全ての視線が一斉にこちらへ向いた。
「おっと、すまない。私が彼女の手を取っていたばかりに」
クロフォード様が、わざとらしく謝罪の言葉を口にする。彼は私の肩を抱き寄せ、庇うようにして前に立った。
注目が私とクロフォード様に移った、その一瞬。顔面蒼白になったメルリィが、憎悪と恐怖に満ちた目で、私を睨みつけていた。
私は彼女に向かってゆっくりと、淑女の作法に則った完璧な笑みを浮かべてみせた。
その瞬間、メルリィの表情が絶望に染まる。彼女は全てを悟ったのだ。これが誰の仕業なのかを。そして自分が、完全に嵌められたのだということを。
メルリィは何も言えず、わななく唇を噛みしめると、ドレスの裾を翻してその場から逃げるように走り去っていった。
§
夜会の喧騒を背に、私とクロフォード様はバルコニーに出ていた。ひんやりとした夜風が、火照った私の頬に心地良い。眼下には王都の宝石のような夜景が広がっている。
「見たかい、レイア。彼女のあの表情を」
クロフォード様が静かに口を開いた。
「あれは単なる意趣返しではない。我々の仕掛けを彼女は理解したはずだ。『貴女の事はよく知っている』という、これは脅しでもあるんだ。我々がその気になれば、ダコバ男爵家を潰すことなど造作もない、とね」
その言葉に、私は先ほどのメルリィの絶望に満ちた顔を思い出す。胸がすくような思いと、同時に得体の知れない罪悪感が入り混じった奇妙な感覚だった。
「今後はどうしたい? 君がまだ意趣返しを続けたいのなら、他にも手はある。彼女が二度と君の前に姿を現せなくなるような、もっと決定的な方法がね」
クロフォード様のその提案に、私の胸の奥に黒い靄が広がっていくのを感じた。メルリィにされた数々の仕打ちを思い出す。栞、ドレス、そして心無い言葉の刃。あの屈辱を思えば、彼女をもっと徹底的に叩きのめしたいというどす黒い衝動に駆られる。
しかし、私はゆっくりと首を横に振った。
「いいえ。もうこのへんで勘弁して差し上げますわ」
「ほう? それはまた、なぜ?」
意外そうな顔をするクロフォード様に、私は微笑んでみせた。
「『加減を知れ』と教えてくださったのは、クロフォード様ですから」
私の答えに、クロフォード様は一瞬目を見開いた後、心底楽しそうに笑った。
「はは、なるほど。君は本当に優秀な生徒だ。よろしい。ならば明日は学園でダコバ嬢と話してみなさい」
「彼女と、ですか?」
「ああ。『仲直り』をしよう、と呼び出すんだ。彼女も君への嫌がらせのやり方を見るに、貴族の作法は心得ているようだ。その申し出の意味は通じるだろう。いつものサロンの使用許可は、殿下から取っておくよ」
§
翌日の放課後。私はクロフォード様のアドバイス通り、メルリィを王太子殿下専用のサロンに呼び出した。約束の時間きっかりに現れた彼女は、憔悴しきった様子で私の前に立っている。
「……ここは、王太子殿下のサロンではございませんこと?」
メルリィが訝しげに尋ねた。無理もない。男爵令嬢である彼女が、本来足を踏み入れることのできる場所ではないのだから。
「ええ。ですが、殿下から特別にお許しをいただいておりますの。どうぞお座りになって」
私はにこやかにそう告げた。クロフォード様から教わった通り、隠然と“力”の差を誇示する。メルリィの顔がさっと青ざめた。
「一体、何のお話でしょう……?」
怯える彼女に、私は優雅に紅茶を差し出しながら切り出した。
「仲直りをいたしましょう、メルリィ様」
「……え?」
「私たち、ここ最近妙な関係でしたでしょう? きっとわたくしが何か──メルリィ様の機嫌を損ねたからだと思うのですが。それがどういう事であれ、謝罪を致しますから仲直りをしませんか? わたくしも今後ずっとメルリィ様といがみ合って学園生活を送っていくのは嫌ですし……メルリィ様も、嫌でしょう? わたくしたちが争うということは、そう、ある意味でダコバ男爵家とシャルドネ伯爵家との争いとも言える事ですし……」
私の言葉に、彼女はただ呆然と私を見つめている。私はそこで、ふと思い出したかのように言った。
「そうですわ、メルリィ様。あなたが利用なさっていた仕立屋さんですけれど」
「……!」
「殿下が大層お怒りでしてね。王家の威信を傷つけられたと。近々、憲兵の調査が入るそうですわ。……メルリィ様も、あの仕立て屋に騙されたのでしょう? 本当にお気の毒でしたわね」
これは事実だった。ちなみに私のアレンジだ。周囲から対処する──そうクロフォード様は仰っていた。だから周囲、つまり件の仕立屋の末路を伝えてあげれば、メルリィもそれを自身と重ねて怯えてくれるのではないか。この考えを伝えたとき、クロフォード様は私の事を「君も意地が悪くなったね、嬉しいよ」などと仰っていた。乙女としては少し複雑だったりする。
メルリィはソファから滑り落ちるようにして床に膝をつくと、震える声で言った。
「……申し訳、ございませんでした……! これまでの数々の非礼、どうか、お許しくださいませ……レイア様……!」
彼女は深々と頭を下げた。
こうして私の初めての貴族としての戦いは終わった。クロフォード様におんぶにだっこだったけれど、彼のやり方が少し分かった気がする。
きっと次は、私一人でもうまくやれる。
§
それから二十年の歳月が流れた。
クロフォード・ケイレヴは父の跡を継ぎ、若くして公爵位に就いていた。四十を目前にした彼は、かつての氷のような鋭さに加え、歳月がもたらす円熟と深みを湛えている。
書斎の重厚な執務机でクロフォードは一通の報告書から目を上げた。長年、彼の勢力拡大を阻んできた政敵、マクシミリアン侯爵が失脚したという知らせだった。表向きの理由は長年にわたる不正蓄財と、それに伴う不敬罪。証拠は完璧に揃えられ、反論の余地なく侯爵は全ての爵位と財産を没収され、一族もろとも没落した。
あまりにも鮮やかな手際だった。クロフォード自身、侯爵の周辺を探ってはいたが、これほど決定的な証拠を掴むには至っていなかった。誰かが自分の知らない水面下で動いたのだ。
(また、君か……レイア)
クロフォードの脳裏に、愛する妻の微笑みが浮かぶ。彼は報告書を机に置くと、深く椅子に身を沈めた。
ケイレヴ公爵家には敵が多い。それは今も昔も変わらない。クロフォードが公爵となってからは、その敵意はより一層、剥き出しの牙となって彼に向けられるようになった。だが不思議なことに、その牙が彼の喉元に届くことは決してなかった。敵対する貴族はいつも絶妙な時期に、まるで自滅するかのように勝手に転落していくのだ。
クロフォードは何も知らないふりをしている。レイアもまた何も語らない。彼女はただ、完璧な公爵夫人として穏やかに微笑んでいるだけだ。しかしクロフォードには分かっていた。かつて自分が「悪女」の振る舞い方を教え込んだ愛らしい少女が今や彼の想像を遥かに超える、恐るべき謀略家へと成長を遂げていた事を。
彼女の張り巡らす策謀の網は、蜘蛛の糸のように繊細で、それでいて鋼のように強靭だ。敵は自分が罠に掛かったことすら気づかぬうちに、ゆっくりと、しかし確実に絞め殺されていく。その手口は、かつて自分が教えた荒削りな謀略とは比べ物にならないほど洗練され、そして冷徹だった。
(私の牙は、もう君には及ばない)
クロフォードは内心で舌を巻いた。一抹の恐怖すらないと言えば嘘になる。だがそれ以上に強い愛おしさと、誇らしさが彼の胸を満たしていた。自分が育てた毒花が誰よりも美しく、そして猛々しく咲き誇っている──その事実が、彼を言い知れぬ歓びで満たすのだ。
「あなた、お疲れではありませんか?」
ふと、穏やかな声と共に書斎の扉が開かれた。レイアが銀の盆に紅茶を載せて入ってくる。彼女もまた四十を過ぎたはずだが、その美しさは少しも衰えていない。むしろ、成熟した果実のような甘美な魅力を増していた。
「ああ、レイア。ありがとう」
クロフォードは立ち上がり、彼女から盆を受け取った。
「マクシミリアン侯爵の件、聞きましたわ。大変でしたわね」
レイアは夫の肩にそっと手を置きながら、心から同情するかのような口調で言った。
「ああ。だが、これで少しは静かになるだろう」
「本当に。……これで、あなたが夜中に眉間に皺を寄せることもなくなりますわね」
そう言ってレイアは悪戯っぽく微笑んだ。
その笑みに、クロフォードは全てを理解する。ああ、やはり君だったのか、と。
クロフォードは何も言わず、ただ妻を強く抱きしめた。
「愛している、レイア。昔も、今も、これからも」
「ええ、存じておりますわ、あなた。私も……私も、あなたを愛しています」
二人の間にそれ以上の言葉は必要なかった。
§
後世の歴史家、アルフレッド・シュタイナーはその著書『ケイレヴ公爵家年代記』の中で、クロフォード公爵の治世を「最も静謐にして、最も盤石な時代」と評している。
クロフォード公爵は稀代の政治家であった。彼の政策は常に的確であり、その指導力によって公爵領は未曾有の繁栄を謳歌した。特筆すべきは、彼の政敵が一人として彼を失脚させることができなかった点である。歴史を紐解けば、数多くの貴族がクロフォード公爵に挑み、そして不可解な形で姿を消している。ある者は突然のスキャンダルで没落し、ある者は事業に失敗して破産した。そのいずれにも、クロフォード公爵が直接関与した証拠は一切発見されていない。彼はまるで、天運に愛されているかのようであった。
一方で、公爵夫人レイアについての記録は極端に少ない。彼女は常に夫の影に寄り添い、慈愛に満ちた微笑みを絶やさぬ、理想的な貴族夫人としてのみ記録されている。「ケイレヴの聖女」とまで呼ばれた彼女の生涯は、慈善活動と芸術の庇護に捧げられた、穏やかで平和なものであったと伝えられる。
しかし、シュタイナーは著書の最後に、一つの仮説を書き記している。
『クロフォード公爵の“天運”とは、果たして本当に天から与えられたものだったのだろうか。あるいは、彼の傍らに常に寄り添っていた「聖女」の、深淵なる愛と献身がもたらした奇跡だったのではないだろうか。真実は、歴史の闇の中である』
なお、ケイレヴ公爵とその夫人が互いを深く愛し合っていたことだけは、誰もが知る事実として後世に語り継がれている。
(了)




