第七部
「先生、一大事ですよ」
トイレから戻った林田に前原がいきなり言った。
「なにが?」
「先生たちがトイレに行っている間、ちょっとここにいる連中に聞いてみたんですよ。先生のどんな作品を読み、どんな作品が好みか、と言った具合にね。そしたら、揃ってポカンて顔するんですよ。ここにいるやつら、誰一人として先生について知らないって顔をね」
「なにかと思ったらそんなことか」
「『そんなことか』じゃありませんよ。先生が世に送り出したベストセラーを知らないなんて、日本文学を理解していないも同然だから一大事でしかない」
「そこまで目くじらを立てることじゃないだろう」
と、林田はどうでもよさそうに言った。
が、前原は納得がいかない様子で人質たちを見回し、
「オレは許せないですね。先生は今じゃ日本を代表する大御所作家ですよ。なのに、こいつらは先生の本名すら知らない」
「処女作以降から私は今のペンネームを名乗っているんだ。それこそキミみたいなファンでなきゃ関心など持たんだろう」
「そんなもんですか」
と、前原が冷めた目で言った。
露骨に不穏な表情を見せた前原に林田はギョッとした。自分のことを言っただけなのに反感を買われるとは思わなかったし、最悪気分を害して控えめに出ていた態度をガラッと変えるかもしれない、という不安がよぎったからだ。そしたら、自分もほかの人質と同様危険な立場に置かれる可能性は高かった。
「本名ならボク知ってる」
人質たちの中から声が聞こえた。
前原と林田が同時に振り向いた。
天宮信吾が生徒のように堂々と手を挙げていた。
横にいる父親の天宮統は戸惑いながら息子を見ていた。
「コバヤシヨウヘイ。漢字は知らないけど」
信吾が言うと、前原は感心そうに頷いた。
「アタリ。もしかしてペンネームの由来も?」
「知ってる。そんけいする作家からそれぞれ取ったんだ。自伝にそう書いてあったの覚えてる」
「先生、あの子は自伝まで読んでますよ」
と、前原がまたしても自分のことのように喜びながら言った。
本来なら自分が感激するはずなのに、それを差し置いて勝手に喜ばれたので林田は変な気持ちになった。
前原が信吾を手招きした。
さすがに一人で行かせるわけには行かないので父親の天宮も付き添い、二人は前原の所まで行った。
前原は、信吾にいくつか林田光雄の作品に関する問題を出してみた。内容によってはしばらく悩んだものもあったが、いずれも信吾は回答を言い当て、前原をうならせた。
「全問正解。驚きだな、まだ中学生でここまで林田先生の本を読んでいたとは」
「ホントはあんまり読んじゃいけないんだけど」
「どうしてだい?」
と、林田が尋ねた。
「父さんに禁止されてるから」
「そうなのか?」
と、前原が天宮に目を移した。
「…確かに、息子には禁止していました。子どもにはなるべく自由にさせるべきだとは思ってますが、どうしても暴力とか犯罪に関するゲームやテレビ、それに本は読ませたくなかったんです。というのも、信吾の将来に悪影響を及ぼすような不安があったからです」
と、言った後に天宮は息子を見た。
「信吾。暴力的なものは見たり読んだりしないと、父さんと約束したのを覚えてるだろう?」
「覚えてる」
「父さんに怒られるとは思わなかったのか?」
「思ったよ」
「それなのに、どうして打ち明けたんだ?」
「父さんといっしょに早くウチに帰りたかったから。それに、これ以上怖がらせたくなかったから」
信吾の言葉に天宮は呆然としてから、嬉しそうな笑みを浮かべた。
信吾の言葉は林田の胸に深く突き刺さった。さっき、天宮とトイレの前で会話していた内容を、信吾は恐らくドア越しから聞いていたのだ。
自分だけじゃなく父親も怖い思いをしている。そう察した信吾は、もしかしたら約束を破ったことを怒られるかもしれないと思いつつ、父親を助けるために禁止されていた本を読んでいたことを正直に打ち明けたのだ。
「前原クン、せめてこの二人だけでも解放させてあげよう」
突然の林田の言葉に前原は困惑した。
「それは無理ですよ。何度も言うように、オレはーー」
「万全を期す、だろう? でも、この二人は解放されても、警察に余計なことは一切言わないよ。だから、解放させよう」
「…ちょっと考えさせてください」
「考える必要などない。今すぐ解放させるんだ」
「しかしですねーー」
「解放させろ」
林田は最大限の圧を込めて前原に言った。
驚いた前原は不服ながらも林田に従った。
林田は店のドアを開けた。
「どうぞ、天宮さん。いいご子息をお持ちで羨ましいです。信吾クン、お父さんを大切にね」
と、林田は最後に声をかけた。
天宮は恐縮そうに林田と前原、そして人質となっている人々に会釈をすると、息子を連れて店を出て行った。
こうして、天宮親子は無事に解放された。