第六部
「なんだ?」
突然、人質たちの方を向いた前原が声を上げた。
林田も振り返ると、子連れの男が遠慮がちに手を挙げていた。
「すみません。息子がトイレに行きたいそうなんです。行かせてくれないでしょうか?」
「ダメだ」
前原が素っ気なく言うと、父親は尿意と怯えで震える息子を安心させるように背中を優しくさすった。
「行かせてやったらどうだ?」
林田が言うと前原は首を振った。
「さっきも言いましたが、オレは万全を期したいんです。そのためにも、人質には人質らしくおとなしくしていてもらいたいんです」
「とは言っても、生理現象だから仕方ないだろう。それに、父親と一緒にいる子はまだ中学生だ。イタズラに怖い思いばかりさせるのは忍びないと思わないか?」
と、林田は言った。震える子どもの様子を見ているのが耐えられなかったのもあるが、私小説にて少しでも自分を勇敢に描く要素を入れた方がウケるという狙いもあった。
「それに、キミが心配しているのは警察への連絡で仲間が捕まることだろう? それなら人質たちの電話を没収するか、もしくは私を監視役に使えばいい。どうだ?」
「…分かりました。それならいいでしょう」
と、前原は了承した。
林田は親子連れを伴って、店の奥にあるトイレへと向かった。
トイレの前まで来ると、父親に促され息子が扉を開けて中へと入った。
「作家先生でいらしたんですね。こんなところでなんですが、天宮統と申します。一緒にいたのは息子の信吾です」
二人きりになってから天宮が自己紹介した。
「どうも。ところで、大丈夫ですか?」
「少し落ち着きました。さっきまでは生きた心地がしませんでしたが」
と、天宮は苦笑を浮かべながら言った。二人がいる場所は丁度前原のいる場所から死角になっており、そのおかげで少しではあるが心に余裕が持てたのだろう。
しかし、すぐに表情を曇らせ、
「とはいえ、まだ中学に入ったばかりの息子には刺激が強すぎる気がするので、あの子のことが気がかりで仕方がありません。万が一、息子がなにかされてしまったら…」
「お気持ちお察しします。ですが、あの前原という男は無闇に危害を加える男とは思えないので、おとなしくしていればいずれ無事に解放してくれるでしょう」
と、不安そうな天宮を林田は慰めた。
「かもしれませんが、ボクは少しでも早く息子を安心させてやりたいんです。それに、あの男が本当に無傷で解放してくれる保証なんてどこにもありませんし」
「きっと大丈夫ですよ」
「…あの、林田さんにお願いがあるんですが」
「お願い?」
「前原という男を説得してほしいんです」
「説得ですか? それは厳しいですなあ」
「厳しいですか?」
「そりゃあ…。なにせ、相手は猟銃を持っていますからね」
「しかし、あの男はボクたちの前で、ハッキリとあなたのファンだと言っていました。それ以降、林田さんが前原と対等に話している様子を見て、ビクついていたボクにもウソじゃないと分かりました。尊敬する林田さんが説得を試みれば、前原の気持ちが揺らぐんじゃないかとボクは期待しているんです」
「そうおっしゃられてもねえ」
と、林田は曖昧な態度を示した。
歪んだ創作意欲に燃える林田にとって、まだ現時点で物語を完結させるのは早すぎた。日下部編集長をうならせるだけのノンフィクションを仕上げるためにも、完結までのプロセスに読み手を小説の世界に引き込む魅力的な展開をいくつか組み込まなければならない。
今がその段階の最中だった。
天宮親子を含む人質たちを助けてやりたい気持ちはあったが、それを実現させる材料としてまだ物足りないため、林田は二の足を踏む態度を取ったのだ。
「どうかお願いします」
と、天宮はグッと顔を近付けた。
必死に息子を想う父親の姿を見たくなく、林田は顔をそらせた。
沈黙が続いた後、天宮がボソッとつぶやいた。
「ひょっとして、林田先生も彼とグルなんですか?」
「なっ、突然なにを言い出すんですか」
思わぬ誤解を受けた林田はやや憤慨しながら言った。
天宮は慌てて頭を下げ、
「ごめんなさい。なんだか、緊張のあまりおかしな想像をついしてしまいました。…とにかく怖いんです。怖くて仕方がないんです。父親として息子を守らなければならない立場でいながら、逆に怯えている自分が情けなくて仕方がありません」
「誰だって怖いですよ。あなたに限らず、あそこにいる人質も全員。もちろん、私もね。だから、情けないことはありません。私は子持ちではないが、一児の父親としてあなたが一生懸命なのは、これまでの様子を見ていてハッキリ理解したつもりです。息子さんも怖い思いをしつつも、必死に耐えているので強く育てられたと思いますよ」
「ありがとうございます。…失礼を承知で打ち上げますが、さっき前原と楽しげに話しているのを見たとき、私たちの気持ちなどまったく無関心な冷徹な方だと思っていました」
「………」
図星を突かれた林田はドキッとしたが苦笑で誤魔化した。
「これは海外のニュースで聞いた話です。外国のある作家が、新作で悩んでいるときに偶然テロ事件に巻き込まれました。その作家は助かりたいという願望を抱きつつ、魅力的なネタに出くわしたと言って自分が置かれている状況をワクワクしながら過ごしたそうです。これは結局、緊迫した状況下で抱く人間の歪んだ思考を鮮明に描いている、と筆者の希望とはそぐわない皮肉により反響したらしいですが、結果的に売れればそれで満足なのです。筆者はあの体験を今でも神が与えてくれたチャンスだと信じているそうです」
「………」
「もしも、ボクと息子がそのテロ事件の人質になっていたら、間違いなくその作家を憎んでいたでしょう。ましてや、本にしてからもその体験を神が与えてくれた、などと言った場合、ボクは決して許さない」
天宮の言葉に林田の胸にチクッと痛みが走った。
そのとき、トイレの扉が開き息子の信吾が顔を出した。
「大丈夫か?」
父親が聞くと信吾は「うん」と頷いた。
天宮は林田に会釈をすると信吾を連れて元の場所へと戻った。
林田はやりきれない面持ちで彼らの後に続いた。