第十五部
「自分勝手な逆恨みなのは承知していました。ですが私は、自分の人生を狂わせてしまった林田さんに憎しみを集中させました。しょせん、周囲の人間は洗脳されただけの操り人形みたいなものだから、恨んだところで仕方がない。的を絞るなら『深淵から』で私と同姓同名の男を作った林田光雄だと。私はあなたに人生を奪われた。だから、私は思い立ちました。私も作家業を生き甲斐としているあなたの人生を奪おうと。皮肉にも、小説の『恩田圭介』と同じく復讐心に憑かれてしまったのです」
「それが無言電話だったわけですか」
林田が言ったとき、恩田は持参したカバンを漁ると中に入っていた物を次々とテーブルに並べた。
鋭利なナイフ、薬液の入った薬瓶、ロープ。
目を見開いた林田に対し、恩田は至極冷静な口調で口を開いた。
「無言電話だけではありません。林田さんが散歩に出かけているとき、私は隠れながらこのナイフとロープを手に、あなたを殺せるタイミングを窺っていたのです。ですが、タイミングが掴めなかったり私自身勇気が出せなかったりして未遂に終わるばかりだった。しびれを切らした私は、アルバイトをしていた『ロデオ』に来るよう誘い出し、そこで毒を飲ませようと決めました」
「そのとき、どうして咳込んでいたんですか。まさか、私が営業マンの三沢に疑いを向けさせるため?」
「それは違います。私は三沢という男を知りませんでした。あのとき、電話とはいえ私は初めてあなたと言葉をかわした。緊張をほぐすつもりで飲んだ水でむせてしまっただけです」
林田は納得した。
恩田が続ける。
「『ロデオ』の従業員は最初こそ私を不憫に思って雇ってくれましたが、結局は小説のことをネタに私をからかってきました。私は店内で人が死ねば店の看板に傷がつけられる、という思惑も持ってコーヒーに毒を盛りました」
「それじゃあ、あのコーヒーに毒が…」
恩田は頷いた。
「それを飲んであなたが死んだら、私はその日のうちにひっそりと命を絶つつもりでした。方法は違えど、目的を果たして自らを葬った小説の『恩田圭介』のように。ところが、あなたがいざコーヒーを飲もうとしたとき、私はうっかり客のカバンにつまずき倒れてしまった。その上、計算外のあの籠城事件が発生してしまった」
そうだった、と林田はあのときの光景を鮮明に思い出した。
中々現れない無言電話の男にイラ立ちながらコーヒーを飲もうとした瞬間、恩田が前原のカバンにつまずき、その弾みでカバンから顔を覗かせてしまった猟銃を前原が掴んであの騒ぎに発展したのだ。
あのとき、あのまま何事も起きずコーヒーを口に運んでいたら…。
「計画が失敗し悲観に暮れた私は、いっそ前原があなたを撃ち殺してくれればとも思いました。出来れば自分の手でくだしたかったが、状況が状況なのでもうそれでも構わないと。ところが、これまたどういう巡り合わせか前原はあなたの熱狂的なファンだった。前原があなたを撃つという期待は完全になくなってしまい、私は愕然としました。もはやあなたに手を出すのは至難の業と思ったとき、あなたが天宮親子を解放するよう前原に強く主張したのを見てショックを受けました。というのも、私が思い描いていた林田光雄とは違っていたからです」
「恩田さんが思い描いていた私というのは?」
「私があなたに殺意を抱いた理由は、さっきの小説のほかにもう一つありました。それは、林田光雄が創作のためであれば人の命を軽んじる人間だと思っていたからです。実は、密かに胸を高鳴らせながら籠城事件の様子を見守っているのではないか、という疑惑を私は抱いていました。読者に面白い作品を提供する作家にとって、あの現場は魅力的でしかありませんからね。ところが、あなたは勇敢にも前原に天宮親子を解放するよう強く言った。それだけでなく、前原にコーヒーを淹れるために立ち上がった私に付き添い、手の震えで落としたカップの破片も一緒になって拾ってくれた。その瞬間、私はとんでもない誤解をしていたのではないか、と考え直すようになったのです。林田光雄という人は、誰よりも人情のある作家なのではないかと。そう思えるほど、あのときは嬉しかった」
終始無感情で訥々と語っていた恩田が、そのときを思い出したのか初めて朗らかな表情を浮かべた。
一方の林田は身じろぎせず正座をしていたが、彼の手はゆっくりとテーブルの下に置かれたある物に伸びていた。
「前原は射殺され、銀行を襲っていた彼の仲間も一人残らず逮捕され事件は解決。同時に、私の中に宿っていたあなたへの復讐心も消えてなくなりました。しかし、もしもあなたがあの事件を題材にした小説を書いて発表したと知ったときには…。言わなくてもお分かりですよね?」
恩田はナイフを掴むと、ヌッと林田に顔を近付けた。
キラリと光るナイフの刃先を見た林田はゴクッと生つばを飲んだ。
彼の手が、テーブルの下に隠された原稿入りの封筒に触れた。
恩田は笑顔に戻すとナイフをテーブルに置いた。
「もちろん、私はそんな心配はしていません。林田さんは人質となった私たちの気持ちを踏みにじるような人ではない。そう信じていますからね」
(もしもこれを見たらこの男は…)
作り笑いを浮かべながら林田は戦慄した。それから、ゆっくりと封筒を座布団の下に移動させた。
そのとき、玄関の扉が開く音が聞こえた。
「あ、奥さんがお帰りみたいですね。では、私はそろそろ…」
と、恩田がテーブルに並べられた物騒な品々を慌ててカバンにしまい始めた。
タイミングよく帰宅してくれた妻に感謝しつつ、林田はホッと胸を撫でおろした。それから、恩田を見送るために立ち上がった。
しかし、応接間の扉が開くのと同時に聞こえたのは、おしとやかな妻ではなく意気揚々とした若い男の声だった。
「センセー、初めての実話はいかほどの出来栄えで?」
忌わしい原稿の回収に来た編集担当の須藤だった。




