第十四部
〈午前二時前後。
恩田圭介は二つの墓前に、磔にされたキリスト像を立てた。
腐敗臭が漂うキリスト像からしたたる生々しい鮮血が、地面の草を緑から赤色に塗りたくる。
十字架の鉄パイプに磔にされていたのは、恩田の愛する妻と子をリンチ同然に暴行し殺害した暴漢『たち』だった。
暴漢Aの胴体、暴漢Bの両腕、暴漢Cの両足。
そして、暴漢Dの生首。
雨の降る墓地に舞い降りたキリストの正体は、恩田によって肉体の各部位を切断された暴漢たちによって組みつけられた世にも恐ろしい人造人間だった。
泣きながら作業にとりかかった恩田は、生々しい切断面を露わにするダルマのようなAの体にBの両腕、Cの両脚、最後にDの生首をくっつけ、そして糸で縫合した。見よう見まねの雑な縫合だったため、恩田は墓地まで持っていくあいだに糸がほつれてしまうかもしれないと心配したが、結局は杞憂で終わった。
鉄パイプにくくりつけられた人造人間を立てた恩田は、雨に濡れながら妻子の墓を虚ろな目で見下ろした。
そして、十字架を模した鉄パイプを力強く握りしめた。
墓地一面を光が照らし、雷鳴がとどろいた。
轟音とともに、雷が鉄パイプに直撃した。
人造人間が爆破し、一面にはらわたをまき散らした。
感電した恩田はドサッと妻と子が眠る墓のあいだに倒れ、焼けただれた顔にニンマリと笑みを浮かべながら息絶えた。
復讐心に燃えた恩田が、潜在意識に宿るもう一人の『恩田圭介』を葬り、すべてに終止符を打った瞬間だった。
―――林田光雄 著書「深淵から」最終章より。
「この『深淵から』という小説は、主人公の『恩田圭介』が妻子殺しの暴漢たちに復讐を果たし、憎悪によって深淵、すなわち彼の潜在意識から生み出されたもう一人の自分を抹消したところで完結しています。復讐を果たす過程でやむを得ない犠牲を払った主人公は、自らの命を葬ったことで第二の自分をも抹消し、罪を償いました。『深淵から』はベストセラーとなり、林田さんは再び脚光を浴びましたね。ところがその一方、意外な形で重い負担を背負っている人間が現実世界にいたのです。それが私です」
「………」
「小説の中の『恩田圭介』は自らの命を絶ち、これまでの罪を償いました。…『償った』ですって? とんでもない。私は『恩田圭介』に罪を被せられたんです」
「恩田さん、あのーー」
と、遠慮がちに口を開いた林田を恩田は手で制した。
林田は口をつぐむと、黙って耳を傾けた。
「私は三度目の職場でようやく仕事が軌道に乗れました。大学卒業後に入社した会社では上司や同僚のイジメに遭い耐え兼ねて辞表を出し、二つ目の職場では人間関係がうまくいかず退職しました。三度目の転職を決意するまでに随分時間を要しました。二度の職場で、私は完全な人間不信に陥っていたからです。四十を迎えた頃にようやく三度目の転職に成功しましたが、やはり不安で一杯でした。案の定、新入りをいびる上司と自分より一回り年下の社員に手際の悪さを指摘されるばかりでした。しかし、私は自分自身を変えようと必死になり、ようやく仕事の要領と同僚たちの信頼を掴めました。そんな充実した社会生活を送っているときに、林田さんの『深淵から』が刊行されました。それが、私の人生を狂わせたのです」
テーブルを見下ろしていた恩田が突然目を合わせてきたので、林田は思わず目を逸らせてしまった。
「同僚の一人が先生の大ファンでしてね。恐らく、あの前原と同じくらい夢中だったと思います。そんな彼が、ある日いきなり一冊の本を持って私の所へ来ました。彼は『深淵から』を見せながら『恩田さんと同姓同名の登場人物が出ていますよ』と、面白そうに言ったのです。失礼ながら、私は林田さんの作品をまったく読んでいませんでした。だから、特段関心を示さなかったのですが、彼はそれを職場中に広めたのです。その結果、職場だけでなく社員の関係者にまでその話題が広がってしまいました。小説の登場人物と同姓同名の人間が現実にいる、その程度の話題で済めばよかったのです。…ところが、興味本位で小説を読んだ人たちは、小説の『恩田圭介』と私を勝手に同じ人物のように映し出し、作中で行った凶悪行為の数々をあたかも私がやってきたことのように言い始めたのです」
「なんという…」
林田は言葉を失った。
「私は愕然としてから深い憤りを覚えました。どうしたらそんな理不尽な思考にいたるのか、と。しかし、あれはもはや洗脳で、理屈では説明出来ないんだと諦めました。そんな私をある者は面白半分で、ある者は本気で『どうしたらあんな所業が出来る?』とか『死体を切り刻んだ感想は?』など無遠慮に聞いてくるのです。なにより恐ろしいのは、面白半分ではなく、本気になっていた人たちです。彼らは、完全に架空の物語を現実に起きた出来事と信じ切って私を詰問したのです。まともな人間の思考とはとうてい思えなかった私は辞表を叩きつけました。しかし、会社の外へも話題が広まった影響で、退職後も私は周囲からの冷めた視線を受けるハメになりました。日々募るストレスと社会への憎悪。やがてその憎悪が、元凶である『深淵から』を生み出した作者、つまり林田さんに向きました。それが約半年前のことです」
恩田の話を聞いていた林田の脳裏で、芸能界を騒がせた古い事件がよぎった。
ある著名な俳優Dが冷酷な悪役を憎々しく演じたのを機に、オフのときに一般人から石を投げられたり、背後から蹴られたりなどの暴行だけでなく、タクシーの乗車拒否や自宅に脅迫状が届けられたりなどの被害を受け、精神的に参ってしまい自殺を遂げた事件だった。
被害者の妻と同期の俳優たちが、涙ながらに普段の被害者が見せる人柄のよさと思いやりのある性格を打ち明けると、世間は手のひら返しといわんばかりに自殺した俳優の死を悼み、日本のスターを失ってしまった、とうそぶいた。
(フィクションと現実の区別も付けられなかったくせに、よくもこんなことをいけしゃあしゃあと言えるもんだ)
当時、サラリーマンだった林田はこのニュースを胸糞の悪い思いで見ていた。
区別が付けられなかったのか、それとも付けられたが流れに乗って遊び感覚でDを追い詰めたのか。いずれにしても俗世間に対し、林田は憤りと同時に呆れたのを今でも覚えている。
(人間として授かった人情を持つ一個人として、こんな愚か者たちと同じことをしてはならない)
と、林田は自分に言い聞かせながらDの冥福を祈った。
ところが、その林田があろうことか自分が書いた作品によって、面識のない一人の男の運命を狂わせてしまったのだ。




