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第十三部

 林田は悩んだ。

 悩みに悩んだ末、須藤のいう通り執筆に取りかかり、わずか半月という最短期間で脱稿した。

 しかし、完成した旨を須藤に連絡したときになって、手遅れながらやはり書くべきじゃなかった、という後悔を抱いた。

「これでまた人気上昇ですよ」

 須藤が発したこの言葉が理由だった。

 あきらかに、その語調には以前林田を説得したときとは異なる須藤の姿が映し出されていた。

 恐怖を味わった人質たちの気持ちを世間に知ってもらうため、と林田に言った言葉はしょせん建前で、書籍と林田光雄の名を上げるための宣伝効果をもたらすことが本当の目的という編集部の思惑を、受話器を通じて聞こえた須藤の口調から林田は感じ取った。

 意気揚々と「これから取りに行きます」という須藤の声を右から左へ聞き流してから、林田は重い吐息とともに電話を切った。

 部屋に戻った林田は仕上がった原稿用紙の束を手にしてから、燃やしてやろうか、と思った。

 しかし、常に原稿用紙と向き合っている作家であるがゆえに燃やすという行為に及べず、もう一度深いため息を吐いた。駄作だったり気に入らなかったりしても、結局試行錯誤を繰り返して考え抜いたストーリーに変わりはないので、容易に焼き捨てるのだけは出来なかった。

 林田は原稿をA4サイズのクラフト封筒に押し込んでから、それを持って応接間に移動した。

 免許を持っていない須藤が出版社から徒歩で屋敷に辿り着くまで、どんなに急いでも三十分はかかる。長い付き合いなので間違いない。

 今から応接間で待つほどではないが、書籍に囲まれた自室に控えているのがなんとなく居心地が悪かったので、早めに応接間で待機することにしたのだ。

 林田は尊敬する推理小説家の作品に登場する探偵を真似するつもりで着始めた袴姿で、じっと須藤が来るのを待った。

 ベルが鳴った。

 林田は変わらずじっと待ったが、ベルは続けて鳴る。

(いつも図々しく入って来るくせに)

 と、須藤への愚痴をこぼしながら林田はヨッコラセと立ち上がった。

 玄関へ行き扉を開ける。

 須藤だと思っていた林田は思わず目を見開いた。

「どうも。ご無沙汰しております」

 相手はなんと、カフェ「ロデオ」の店員、恩田圭介だった。

 予想もしない来訪者の出現に林田は口をあんぐりと開けてから、

「どうして私の自宅を?」

 と、聞いた。

「近所の方々を尋ね回りましてね。どうしても、林田さんにお会いしたかったので」

 と、手提げカバンをぶら下げた恩田は笑顔で言った。

「私に?」

「だって、私がこうして無事でいられるのも林田さんがあのカフェにいらっしゃったおかげですから。私だけでなく、人質全員が林田さんに感謝しているはずですよ」

「私は別になにも…。ここではなんですから、中へどうぞ」

 と、林田は恩田を屋敷に招じ入れた。

 れっきとした客人なので、林田は恩田を応接間へと誘った。

 台所でお茶を淹れながら、須藤が来る前に引き上げてくれることを林田は願った。

 座布団の上で正座する恩田の前にお茶を置いた。

「家内が買い出しに出かけていましてね。私なんかが淹れたお茶で申し訳ありませんが」

「めっそうもありません。いただきます」

 会釈してから恩田は丁寧にお茶をすすった。

 その様子を眺めながら、林田は原稿入りの封筒をそっとテーブルの下に隠した。

(もしもあの事件を題材にしたなどと知ったら、事情はなんであれ彼はきっと傷付くだろう)

 そう思いながら、林田もお茶をすすった。

 そのときだった。

「…私なんです」

「はい?」

 林田が間の抜けた声を出すと、恩田は林田の目をじっと見ながら、

「私が無言電話の男なんです」

「…えっ!」

 一瞬、林田はポカンとしてから愕然とした。

 彼の思い描いていた無言電話男の姿は、いかにも狡猾で意地の悪さを際立たせるガラの悪い印象をプンプン漂わせた典型的な悪党面だった。

 ところが、驚いたことに彼のイメージとは似ても似つかない一見ひ弱そうな恩田圭介が、自ら無言電話の正体だと自白したのである。

 信じられないといった顔のまま呆然とする林田に、

「林田さん、恩田圭介をご存知ですか?」

 と、恩田は突然切り出した。

 なにもかも想定外な展開に林田は頭の整理が追い付かず戸惑ったが、ふとカフェ「ロデオ」での記憶が鮮明によみがえった。

(そういえば彼の名前を聞いたとき、どこかで聞いたような気がしたんだ)

 籠城犯の前原浩が店員の恩田にコーヒーを淹れるよう命令をくだしたとき林田も付き添ったのだが、そのとき恩田は恐怖のあまりカップを落としてしまった。

 一緒にカップの破片を拾い集めているときに、彼は「恩田圭介」と林田に名乗った。

 あのとき、林田はどこかで聞き覚えのある名前のようだと思ったが、気のせいかもしれないとも思っていた。

しかし、たった今恩田が発した言葉を素直に受け止めれば、どうやら気のせいではないらしい。

 林田は必死に思い出そうと、恩田の顔をまじまじと見た。

「その様子だと、ご存知ないみたいですね」

 恩田に図星を突かれ、今度は林田が申し訳なさそうに頭を下げた。

「申し訳ありません。実は、名前を聞いたときに聞き覚えがあるような気はしたんですが、どうしても思い出せませんでした」

「当然ですよ」

 恩田はフッと笑ってから、当たり前と言わんばかりに言った。

「私たちは、あのカフェが初対面ですから」

「しかし、今あなたは…」

「私はこう聞いたのです。『恩田圭介をご存知ですか?』と」

「ですから、あなたのことでしょう?」

「そうです。私の名前は恩田圭介です。しかし、さきほど私が聞いた『恩田圭介』は、私とは別の『恩田圭介』のことです」

「別のオンダケイスケ?」

「まだ思い出せませんか? では…」

 と、恩田は持ってきた手提げカバンを開けると、一冊の本を取り出しテーブルに置いた。

 林田は思わず「おっ」と声を漏らした。

「私が書いた作品だ」

「そうです。この本は覚えてらっしゃいますか?」

「ええ、覚えていますよ。半年以上前に出版されたーー」

 と言った刹那、林田はハッとした。

(まさか…)

 恩田が笑みを浮かべた。

「思い出されたみたいですね」

「そ、それじゃあ、もう一人のオンダケイスケというのは…」

「そうです。この小説『深淵から』の登場人物であり、私と同姓同名の、それも同じ漢字の名を持つ架空の人物の『恩田圭介』のことです」

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