C3-24 悪魔と交わる
翌朝、進はかつて寝泊まりしたテントの一つにいた。彼はベッドに人形のように座り込み、まるで魂を失ったかのように沈黙していた。 昨晩アルジェの使用人たちの手によって、進の体は丁寧に洗われ、汚れた身なりも整えられている。
それでも、彼の心には深い虚無が広がっていた。テントの中の静寂は、彼の内面の混沌とした感情を一層際立たせるようだった。
「大丈夫? 落ち着いた?」
「……」
「顔面が蒼白よ。一体何があったの?」
「……」
進は口を閉ざしたまま、何も言えなかった。いや、本当は言いたくなかった。言葉にすることで、現実が確定してしまうような気がしていた。喉元まで押し寄せる言葉を無理やり飲み込んで、ただ沈黙を選んだ。
「よっぽど怖いことがあったのね。安心して、私といれば何も怖く無い」
アルジェに右手を握られるが、熱も感触も何も憶えることはできなかった。すっきりとした見た目とは裏腹に、進の頭は何も整然としてはいなかった。愛する姉妹が惨殺されたトラウマが、フラッシュバックし続けるのだから。
「私ね、反省したの。もう二度と無意味な殺人なんてしないわ。それよりも、もっともっと大切なものがあるから」
「……」
話は一応聞こえていたが、相槌の一つも打てないでいた。進はただその場に座り込み、心の中で繰り返される苦痛の波に押し流されていた。
「これから悲劇のないセカイを作りましょう。あなたと私で」
「……」
かろうじて出てきた考えは、少なくともここに居れば野盗に襲われて、惨たらしく殺されずに済むということ。自分は世界でたった一人の希少種。利用価値があるからには守られる。
「ごめんなさい、それどころではないのね。しばらく休んで」
進はそれから丸一日、ただひたすらベッドに横たわっていた。現実から逃避するために。空腹でたまらなかったので一応食事はしたが、それでも彼の中身は空っぽだった。
焦点も合わないままどこか遠くを見つめ、時折小さく息をつく。その姿は、言いようのない悲しみを呼び起こさずにはいられなかった。
——————
「う……あ……?」
真夜中、進は不意に目を覚ました。闇に包まれた部屋の中、薄ぼんやりと布の天井を見つめる。だが体はまるで鉛のように重く、動かすことができない。
毒でも盛られていたのだろうか。痺れが全身を包み込み、呂律もろくに回らなかった。喉の奥から絞り出される声は、自分自身のものとは思えないほど不自然だった。
「あら? 起きちゃった?」
「!?」
気づくと、進の視界にアルジェの姿が飛び込んできた。彼女は下着姿で、進の上に跨ってくる。その姿は、帝国の頂点に並び立つ才女の妖艶さと美しさを見せていた。
テントの隙間から差し込む月明かりが彼女の白い肌を照らし、その美麗な曲線が浮かび上がる。誰もが憧れるその光景。しかし、進にとってはその美しさが一層の不気味さを引き立てていた。
「あなたがどこかに行った時、とっても怖かったの。また一人ぼっちになるかもしれないって」
細く美しい指が進の頬を撫でる。まるで指の軌跡にそって全てが凍結するかのように、感覚という感覚がなくなっていく。
「だから今ここで、私のものにしたいの」
「あ……あ……」
アルジェの指が、進のシャツのボタンに触れた。冷たい指先が、まるで愛撫するかのように一つ一つのボタンにかかる。彼女はその瞬間を噛み締めるように、ゆっくりと、丁寧に外していった。
「私ね、家族が欲しいの。自分から離れない家族が。歌を聴いてくれる家族が」
唇と唇が重なった。それはこの世のものとは思えないほど柔らかい感触。それに加えて柑橘類のようなどこか刺激的な香りと、生暖かい体温を感じる。
だがそれらは僅かな時間で消えゆく意識とともに、記憶から抹消されていく。その日の晩の出来事を、進は何も覚えてはいなかった。
——————
「……」
朝日が燦々と輝く時に、進は目が覚めた。裸のまま進は布団から上半身だけ起き上がる。何も覚えていない、思い出せない。
毒を盛られたせいもあったのだろうが、あの悲劇の時から、進の頭はほとんど稼働していない。生まれたての赤ん坊に回帰したかのように、思考がまとまらない。
「おはよう、進」
進はぼんやりとした意識の中で、すぐ近くに座っていたアルジェと目が合った。彼女の大きな瞳が一瞬見開かれ、その表情が不意に変わった。アルジェの顔はみるみるうちに赤く染まり、視線を斜め下に逸らした。
「ごめんね。今はあなたの顔を真っ直ぐ見れないの」
その姿は、まさに恥じらう乙女そのものだった。しかし今の進にとって、そんな可愛らしい彼女の姿ですら霞に等しい。彼の瞳は虚ろで、感情の欠片すら浮かんでいない。進が見ているのはアルジェではなく、その向こうにある何かだった。
「ねえ、進。見通しのいい丘を見つけたの。二人で行かない?」
「……一人になりたい」
「そう……ゆっくり休んで」
ーー何があったのか、何も思い出せない。
進は昨晩の出来事を思い出すことを諦め、呆然としていた。意味もなく何時間かが経過した。テントの外では風の音と遠くで聞こえるかすかな人の会話が交じり合い、静かな時間が続いていた。 そんな中、入り口の垂れ幕が揺れ動き、誰かが入ってきた。
「!! 貴様……」
突然、テントの中に現れたのはオルチノだった。彼女は鬼のような形相で進に迫ってきた。瞳は怒りに満ちて充血し、まるで今にも何かを害するかのようにぎらついていた。
進が二度も脱走したことについて激怒しているのだろうが、それだけでは片付けられないような鬱憤も感じられる。
「がっ!?」
オルチノは進の胸板を殴る。殴られた進は当然鈍痛を感じるが、それでも彼は大した反応はしなかった。
「よくも、何度も舐めたマネをしてくれたな! その上……」
「……」
互いに見つめ合ったまま静止していた。彼女は立ち尽くし、歯を強く噛み締め、進を射殺すように睨みつける。だが、当人は生ける屍のように無感情。
「クソが!」
彼女は意味がないと悟ったのか、振り返って無言で去っていった。
「……」
そんな奇妙で恐ろしい時間を過ごしたにもかかわらず、進は何も感じなかった。いや、感じられなかった。まるで自分の構成物質が塵芥になってしまったかのように。
「……」
しばらくして、進は無造作に服を羽織り、テントを出て歩き出した。その行動には意味も理由も特にない。ただ生ける屍のように、なぜか勝手に足が動き出しただけ。
「やあ、久しぶり。昨日はよく寝れたかい?」
「ちょっとレザー! やめなさい!」
「……」
徘徊する途中で、レザーやティリスに出会う。だが、彼らの言葉も何も聞き取れない。二人とも奇怪で虚な進の姿を見て、何も干渉する気が起きなかったのかもしれない。無言で彼が去っていくのを見つめるしかなかった。
「……」
どちらが天で、どちらが地かも認識できないまま歩き、行き着いたのは武器などが収められている倉庫用のテントだった。もっとも進は今、自分がどこにいるのかも分かっていなかったが。
「あ……ぐ……うぅ……」
進は何をするでもなく、全身の力が抜け、その場で立ち尽くした。そしてほどなくして、とめどなく涙が溢れ出す。
何も変わらないまま、もう何日も経過してしまった。あの悲劇は夢ではなかったのだと、認めざるを得なかったから。ようやく動き始めた脳が最初に認識したのは、逃れようのない重苦だった。
「……ん?」
頭をふらつかせていると、鈍く光る物が目に入る。それは、いくつもの命を無慈悲に奪い去った魔銃だった。
ーーこの虹色の輝き? ……まさか!?
七色の何かが、短銃の接合部や銃口に僅かに付着していた。それは愛する少女にもらった宝物の砂と全く同じ色彩と輝きを放っていた。
「どうして、この銃にあの砂が……!!」
そして進は理解する。すべての経緯を。誰が愛しい二人に悪逆無道を尽くしたのか。
ーーこいつらが犯人だったのか! 魔法は使わなかっただけか!
アルジェはロクスとケシアを害する時にこの魔銃も使用した。自身の魔法の中身は進に知られていたので、万一にも正体が勘付かれないように使用しなかった。
いつ銃に砂が付着したのかは分からない。砂塵が舞ったのか、それとも魔銃を落としてしまったのか。
殺害時に着用していた服は、血痕があったので燃やした。だが、持って帰った魔銃については布で払っただけだった。魔銃は精密で、誰にも完璧な整備ができない。開発者たちは殺され尽くしたのだから。
ゆえに壊さないように、水洗いはできなかった。そして、完全に砂を落とし切れていなかった。単なる砂だと加害者たちはあまり気に留めなかったが、それは進にとっては動かぬ証拠となってしまう。
「あああぁぁぁ……」
四つん這いで額を地面につけて、声にならない声を上げる。自分と親密になったせいで、愛する二人は冥府に送られたのだ。
ーー全部俺のせいだ! 俺のせいだ! 俺のせいだ! 俺が一緒にいたから……
彼は今まで何度か、死んだ方が楽だと思ったことはある。だがそれらの思い出が、稚拙なお遊びのように感じられる。
それほどまでに進は今、心の底から生まれてきたことを後悔した。罪悪感で直ちに自殺しようと考えるほどに。
だが……踏 み 留 ま っ た。
ーーまだ死ねない。死ぬわけにはいかない。
どこまでもドス黒い感情が湧き上がる。涙が溢れる真っ赤な目は血走り、握りしめた拳が熱を帯び、歯は割れんばかりに噛み締められる。洗ったはずの衣服から、血の匂いを感じる。
ーー絶対に許さない。お前たちが人を人とも思わないのなら……
この瞬間、タダの青年に狂気が宿る。彼はもう、以前の人間とは全く違う存在。堕天するかのごとく、帝国に仇なすテロリストとして生まれ変わる。戦う理由ができてしまったから。
「俺も蝋燭みたいに燃やしてやるよ。断末魔すら溶けてなくなるまで」
補足です。進は人間が使用している魔法のニオイは嗅ぎ分けられても、魔銃などの無生物のニオイは嗅ぎ分けられません。
それが何故かは物語の中で説明します。かなり先の話になると思いますが。
ブクマ、評価をお待ちしております。