C3-21 特別な存在の果て
「ふー、今日もいっぱい遊んだな」
「ぐぅ……すぅ……」
「はは、いつの間にか寝てたのか」
ケシアは進と物語のあらすじを相談し終えると、満足げに微笑みながら寝息を立てていた。進は少女の頭を愛おしそうに撫でる。
そんな様子を隣で見ていたロクスの顔はいつものように綻ぶ。そこには穏やかな空気が漂い、静かな時間がゆっくりと流れていた。
「ふふ、明日寝坊したら起こしてあげないわよ」
「えぇ……それは困るな。早く寝るよ」
床に着いた進は、深い眠りに身を任せるつもりで目を閉じた。しかし、昨日たっぷりと眠りすぎたせいで、どうにも寝付けない。
布団の中で身じろぎしながら、進は時間の経過を感じていた。とうとう一時間ほど経ったが、目は冴え渡り、まるで昼間のように覚醒していた。
「うっ……ぐっ……」
そんなとき、微かに聞こえるすすり泣きの音が、静寂を破った。進はそっと体を起こし、音の方向に目を向けた。薄暗い灯りの中で、ロクスが膝を抱え、涙をこぼしている姿が目に映った。
「!? ど、どうしたんだ?」
「! 起きてたの?」
長女が今まで溜め込んでいたものが、張り裂けてしまった。彼女は顔を上げ、涙で濡れた頬を隠すように手を拭った。
「あの魔獣の気まぐれで、いつ私たちが死ぬか分からない。私はあの子を守りきれるかわからない」
感情の波が抑えられず、再びすすり泣きがこぼれる。彼女の表情には深い悲しみと不安が刻まれていた。
「両親も殺されて……なんでこんな目に遭わないといけないのかしら」
声は震えていた。気丈で頼れる女性だと思っていたロクスの、弱くて脆い一面が見えた。今まで甘やかされてばかりだった進。しかし、今ばかりは自分が支えなければならないという使命感が宿る。
「大丈夫だよ。一緒に首都に行こう。なんとかなる」
進はそっと手を伸ばし、震えるロクスの手をしっかりと握りしめた。瞳を合わせ、無言で頷く。根拠があろうが無かろうが、何としてでも彼女に前を向かせたい。
「……本当に?」
「当たり前だろ、俺も一緒なんだ。安心して」
ロクスは静かにうなずき、涙をぬぐった。青年の熱い思いが伝わった瞬間だった。ここに来てからずっと子供のようにだらしなかった進ではあった。だが、この時ばかりは必死で大人になろうと、力強く彼女の両手を握りしめる。
「俺がなんとかするよ。約束する」
「……うん。ありがとう進」
それは、長い間一人で踏ん張ってきたロクスが、一人のか弱い女性になれた瞬間だった。この日以来、進は寝坊をすることがほとんどなくなり、誰よりも早く起きるようになる。
——————
それからさらに一月ほどの時間が流れた。進は二人と共に、海岸に隣接する森を見回り、仲間と連絡を取る方法や首都へ変える方法を模索し続けた。
しかし探索を繰り返しても、目に映るのはただの草木ばかり。馬車などの轍があれば、それを辿って進むこともできるかもしれない。しかし、そんな痕跡は見当たらなかった。
「一体ここはどこなんだ?」
「私たちも無我夢中で逃げてきたから、正直どこら辺にいるか分からないのよね」
おまけに、魔獣の生息地から少しでも離れると、野盗らしき存在が生活した跡が見つかる。焦げた地面と血の跡が散らばり、その光景に全員の心が凍りつくのを感じた。
そんなこともあり、三人はほとんど遠くへ移るための行動をしなくなっていた。恐怖心や疲労感のせいでもあるが、リスクを負ってまで他の場所へ行く意味を見失い始めていたから。 そして、何週間も時間が過ぎていった。
「ススム、おままごとしよう」
「はいはい。俺がお父さんかな」
「違う、ススムは旦那さん。ケシアね、ススムのお嫁さんになるの」
「はは、それはラッキーだな」
「もう! ちゃんと聞いて、本当の話なの!」
「ぶっ!」
思わず飲んでいた水を吹き出してしまう。頬を赤く染める幼い少女からは、言っていることが本気ということが伝わってくるから。彼女の瞳から、真っ直ぐな眼差しが向けられる。
「まだ早いわよ、もう」
「早い?」
「そうよ。私くらいになってから」
「じゃあ一番乗りはお姉ちゃんかぁ」
「ぶほっ!!」
再び口に含んだ水を吹き出してしまう。ケシアから放たれる言葉には、あまりにも残念そうな感情が乗っていて、決して演技ではないことが伝わるから。要するに、少女はずっと真剣なのだ。
「こ、こら、そういう話をしてるんじゃ……」
普段とは少し異なる日々を過ごした後、彼らは再び夜を迎えた。その晩、月は静かな輝きを放ち、星々が天空を照らし出す。加えて波音が夜を彩るかのように、規則的で優しい音色を奏でていた。
「もう寝た?」
「うん、気持ちよさそうに」
進はケシアの頭に手を伸ばし、まるで実の妹や娘を世話するかのように、優しく丁寧に撫でた。その手の温もりに包まれたケシアは癒やされたのか、安らかな寝顔を浮かべる。
「この子も懐いてるみたいだし。ずっとここにいてもいいのよ」
「いや、でも俺は追われている身だし……」
「大分長い時間が経ったのよ。向こうも諦めているわ」
「そう……だといいけど」
「いて、ほしいの」
ロクスの顔が進のすぐ近くまで寄る。互いに時が止まったかのように見つめ合い、人肌の熱を感じる。心地よい香りが漂ってきた。それは花のような、どこか懐かしい甘さを含んでいた。
「ご、ごめんなさい!」
「い、いや、その別に……」
思わず、二人はぱっと離れた。進もロクスも、これまでの人生でこんなに顔が真っ赤になったことは一度もなかった。
互いに視線を交わすこともできず、心臓の鼓動が耳元に響き続ける。気まずいような、心地いいような。そんな沈黙が流れた。
「おやすみなさい!」
「あ、うん」
何事もなかったかのように二人は横たわる。だが、今晩は両者ともに寝付けなかった。早鐘のように鼓動が収まらなかったから。
——————
「もう、今日は、ススムとお姉ちゃんがお寝坊さん!」
「あ、ああ。ごめんな」
「い、いいじゃない。たまには」
翌朝、一晩過ぎても相変わらず頬を赤く染める二人。のろのろと起き上がる二人を見て、何があったのかを大体察したのか、ケシアは膨れっ面で住処の洞窟から駆け出していった。
「ふん、だ」
「お、おい!」
「まったくもう……」
二人はゆっくりと肩が触れるような距離を保ち、並んで妹を追う。それは外から見ていれば夫婦か恋人にしか見えないような、親密性を感じる光景だった。
「いたいた。ん? それはなんだ?」
「虹色の砂! ススムとお姉ちゃんにあげる!」
追いついた先にいたケシアは、怒りが収まっているように見える。木製の掌サイズの皿に七色の砂を入れていた。それを小さい手で二人に差し出す。
「へぇ……こんなの見た事ないや」
「確かに。珍しいわね」
「この砂はね、私が色んな石と石を削って混ぜて作ったの!」
「へえ……じゃあケシアだけが作れるのね」
「そう! 私の宝物なの! 樹液と一緒に絵本につけて色を塗るの!」
「ああ、なるほど。絵の具の代わりなのね」
「そっか。大切にするよ」
そして三人はその砂を洞窟に持ち帰る。虹色の砂は薄暗い洞穴の中でも、綺麗に輝いていた。全員がそれを見て、夢見心地を味わう。
進にとって、それは今までにないほど幸せな空間だった。側にいる人たちと気持ちも何もかもが通じ合う時間。
ーー皆から凄いってチヤホヤされるのもいいけど……俺の成りたかった特別な存在の果てってこういうのじゃないのか。
ーー近くにいる人全員が大切で愛おしくて、明日が待ち遠しくてたまらない気持ちを抱ける。そんな人間になりたかったんじゃないんだろうか。
その日も、晴れ晴れとした気持ちのいい昼が訪れた。まるで太陽が三人を祝福しているかのように優しい日差しが降り注ぎ、そよ風が心地よく吹き抜ける。
空は澄み渡り、小鳥の囀りが静かに響く。穏やかな光景の中で自然と皆が微笑み、心も軽やかに満たされていく。
「ススム、肩車!」
「お? よし、上げるぞ!」
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「あいつら、よくも私の家族を……」
三人が仲睦まじく暮らす場所から遠く離れた位置。そこには地獄の歌姫アルジェが立っていた。彼女はケシアを肩に乗せ、満面の笑みを浮かべる進を発見したのだ。
アルジェの醸し出す空気はどこまでも黒く、一筋も希望を感じられない。ちょうど両親が、彼女を捨てて逃げ去った日のように。
アルジェはひたすらロクスとケシアを開いた眼で睨みつけ続ける。その傍らには近辺を縄張りにしていた、三つ首の犬の魔獣の死体が転がっている。三人の守護者は消えてしまった。




