C3-20 異界の英雄の物語
進がロクスとケシアと出会い、一週間ほどが経過した。進は海岸に隣接する森を探索したり、なんとか仲間と連絡が取れる方法がないか調べていた。
それと同時に、彼はロクスとケシアとの共同生活を続けている。彼の日々は、新しいリズムを刻み始めていた。
「ほら、起きなさい。お寝坊さんたち」
「ん? ああ、もう朝か」
「ススムったら、お寝坊さん」
「こら! ケシアもさっきまで寝てたでしょ」
朝になると、いつもロクスの柔らかく優しい声が進たちを包み込む。そうして気持ちのいい目覚めを迎えられる。彼女の声は、まるで春のそよ風のように穏やかで、この空間に癒しをもたらしていた。
「顔を洗ってきなさい。食事にするわよ」
「「はーい」」
進は完全にだらけきった生活に身を委ねていた。ロクスとケシアに出会ったことで、心に張り詰めていた緊張が一気に解け、彼は安心感と開放感に包まれた。
その結果、日々の暮らしは次第に自堕落なものとなり、未成年らしい奔放な生活を満喫していた。とはいえ自分は追われる身で、あまり長居をする訳にはいかないという焦りもあったが。
「すごいよな。魔法で作物がどんどん育っていくんだから」
「そう! ケシア、すごいの!」
ケシアの魔法は、ここでの生活において欠かせない存在だった。彼女の魔法は作物を通常の十二倍の速度で育てることができる。
その上、水や肥料も通常より少なくて済むという、便利な能力を持っていた。この魔法のおかげで食べ物の乏しいこの辺りでも、三人は十分な食糧を確保することができていた。
「水を注ぐわ。離れてて」
一方、ロクスの魔法はあらゆる水を真水に変える能力を持っていた。彼女の手が淡く輝くと、どんな汚れた水でも、一瞬で澄み渡る清らかな水に変わる。この魔法は海水ばかりの場所では、貴重な資源を生み出す力だ。
「進、その植物は日差しがないと枯れるから、入り口の近くに埋めて」
「オッケー」
農民育ちのロクスとケシアは、進にとって多くの新しい知識と経験をもたらしてくれた。彼女たちが教えてくれる植物の手入れの仕方や、料理を作る時間は、進にとって新鮮で楽しいものだった。
「そうだ、今日は魔獣に供物を捧げにいかないとね」
「ああ、俺が行ってくる」
「ケシアも!」
「じゃあ、皆でいきましょう」
この近辺には不特定多数の野盗が潜んでいるにもかかわらず、三人が襲われることはなかった。それには確固たる理由があり、この場所が上級ウィザードクラスの魔獣の縄張りだからだ。
魔獣は大きな力で他の侵入者を簡単には寄せ付けない。三人は、魔獣の好物である赤い実を提供することで、その縄張り内に住むことを許されていた。
魔獣の巣は、海を望む森の中にある。三日に一度、その巣に向かって果実を届けに行く。薄暗い森に入り、十分ほど歩いた先にあるその場所へ、進たちは足を運ぶ。そこには、独特の静寂が漂っていた。
「!!」
今日は珍しく、魔獣が巣にいた。首がいくつかある、黒い番犬のような魔獣だ。その威圧感は凄まじく、まるで地獄の門番のようだった。
「ウウゥ……」
魔獣が立ち上がり三人の匂いを嗅ぐ。スウゥと息を吸い込む音が、粛然とした周囲を切り裂くように響き渡る。
「うおっ!」
「わっ!」
「きゃっ!」
魔獣は慎重に彼らの匂いを嗅ぎ取り、満足したかのようにゆっくりと座り込んだ。そして、そのまま大きないびきをかき始める。
どうやら、進も含めて全員が魔獣に許されているらしい。彼らがここに住むことを認められ、生かされていることを改めて実感した瞬間だった。
「……帰りましょう」
再び生い茂る木々や草花の中を縫うように歩きながら、三人はもといた居住地へと戻っていった。森の中で時折吹く風が木々を揺らす。苔の匂いが香り、葉音が心地よく響いた。
進は道中、鶏のように首を振りながら周囲を観察し続けていた。彼はかつて戦った仲間たちを含め、誰かがここに来てはいないかと痕跡を必死に探していた。
しかし、どれだけ注意深く探しても、そのような兆候は見当たらなかった。森の中は変わらず静かで、自然のままの姿を保っていた。
「ススム、家まで鬼ごっこね」
見慣れた砂浜に着いた途端、突然ケシアが笑みを浮かべながら駆け出す。無邪気なその笑顔は進たちにも広がっていく。進も彼女に続き、笑顔で走り出した。
「捕まえた!」
進は両腕でケシアの胴を掴む。その勢いで砂浜に二人とも転がる。彼らの破顔と汗は、空と海と砂浜に満ちた明るい世界に溶け込んでいた。
「ススム、いやらしいんだ」
「なっ!?」
ケシアのおませな発言を聞いた瞬間、進は驚きの声をあげ、思わず掴んでいた手を離してしまった。赤面を浮かべながら。
「あはは」
再び笑いながらケシアは駆けていく。風が彼女の髪をなびかせ、海岸線の波が心地よく足元に押し寄せる。この瞬間、その場の全員の心はどこまでも自由だった。
「まったく……」
この穏やかな日常に、進は微笑みを浮かべていた。静かな喜びで満たされ、少女の軽い冗談は彼にとって、楽しいひと時を生み出していた。隣のロクスは静かに穏やかに呟く。
「あなたに甘えたくてたまらないのよ。だから、からかって」
「十二歳だっけ。そういう年だもんな」
「それに、あまり父さんが構ってあげられなかったから」
「……そっか」
夕方になると、三人は一日の疲れを癒すために砂浜に設けた、廃材で作ったベンチに腰を下ろす。ケシアが真ん中に座り、彼らは海原と夕焼けの景色を眺めながら、おしゃべりを楽しんでいた。
「ケシアね、明日は潮干狩りに行きたい! お姉ちゃんとススムと一緒に!」
「俺の片手は海水に浸せないから、要領悪いと思うけどなあ……」
この義手の構造について進は詳細を知らないが、おそらくその大部分は金属でできているだろう。塩水による腐食は避けなければならない。
「いいの、私が一緒にしたいの!」
「わ、分かった」
ケシアは何をするにも、進と一緒にすることを望んだ。何気ない、ただの甘え。だが、それは進にとっては大きく胸を打つものになった。
なぜなら、多田家は個人主義だったから。あまり家族で何かをするということはなかった。二つ下の妹ですら、進に頼ることはほとんどはなかった。
それぞれが、個人的に興味のある何かに没頭している方が楽しかったのだ。互いに他の家族に生き方を理解してもらえないと考えていただけかもしれないが。
「ススム! 一緒に物語、考えて」
「物語?」
月明かりが差す夜中に全ての家事を終え、原始的な織物の布団の上で寝転んだ進とケシア。洞窟の住居は静謐な雰囲気に包まれ、香ばしい香りの種油を使用した灯りが微かな明かりを照らしている。
進はケシアとうつ伏せで寄り添いながら、穏やかな気持ちでゆったりと話を交わしていた。
「異界のね、英雄のね、物語なの!」
「へえ、どんな話なの?」
「別世界から来た英雄がね、悪い人たちをね、全員やっつけるの!」
「んーどうやって?」
「頑張って!」
「はは、そっか。頑張ったら何とかなるよな」
「でもね、悪い人たちも反省していい人になるの! ここでは皆幸せになるの!」
「!!」
進は真顔のまま、数秒間は何も言えずに静止した。そんなことは有り得ないと、心の奥深くでは分かっていたから。しかし幼い少女が描く、純粋で希望に満ちた未来を否定したくはないという葛藤が、彼の胸に渦巻いていた。
「……そうだね、それが一番いいや」
二人は空想の物語を創り続ける。そこには誰もが幸福になれる、理想の世界が紡がれていた。例えそれが仮染めであったとしても。




