C3-19 無償の愛
「!? 君は?」
それは十歳くらいの少女だった。丸っこい輪郭の顔に、くりっとした双眸。それに加えて、赤茶の髪色と小さく愛らしい鼻。
薄紅色の頬が健康的な輝きが、進の視界に飛び込んできた。 少女はところどころ破れた絹の赤い水玉模様のワンピースを着ていた。
その装いは、どこか懐かしさを感じさせる。こんがりと日に焼けた肌は、海で長い間生活している証拠だろうか。みずみずしいその肌は、太陽の光を受けて柔らかく輝いていた。
「お兄ちゃん、なんか変な臭いがする。気持ち悪い」
「あ、そのこれは……」
「ちょっと! 勝手に一人で行かないの!」
遅れて姉らしき人物が駆け寄ってくる。彼女は少女とお揃いの、緑色の水玉模様のワンピースを着用している。少女と同様に、所どころ衣服が擦り切れているが。
彼女は二十代前半の若い女性に窺え、少女と同じく可愛らしくて丸みを帯びた顔つきをしていた。
「どちら様? 酷い臭いね」
「ごめん、怪しい人間じゃないよ」
「……」
彼女らの警戒は全く解かれない。平たい顔に珍妙な衣服。おまけに義手とはいえ、左手は無骨なガントレットを装備している。
取り繕っても、この青年は怪しいに違いない。死臭が漂う彼は、どこにいようが不審者扱いされるだろう。
「怖がらせるつもりはないんだ、じゃあね」
「待って!」
進がそそくさと退散しようとした瞬間、女性が片手を掲げて呼び止めた。彼女の声は冷静でありながらも力強く、進の足は思わず止まってしまった。
「ここまで近づいても、あなたから魔力を感じない。どうしたの?」
「あーその……そういう体質なんだ」
「もしかして魔法が使えないの? あなたは迫害されて逃げてきたの?」
「ま、まあ似たようなもんかな。ただ、一応エディティアの首都に入る許可はもらってるから、帰ればなんとかなるよ」
後ろ髪を掻きながら、ぎこちない笑顔で答える進。その情けない姿は、女性を心配させずにいられなかった。
「大丈夫なの? 外には野盗が大勢いるわよ」
「え!?」
「一応ここはエディティアの国内だけど、首都に着くには歩いて二日程度じゃ足りないと思うわ。相当な手練でない限り、無事には帰れない」
「それは……!」
グウゥ
真剣な話の最中に、お腹が鳴ってしまった。なんとも子供らしい姿に、女性は苦笑を浮かべてしまう。ずっと姉らしき人物の服を掴んでいた少女も、小さな笑顔を浮かべる。
「とりあえず、こっちに来て服と体を洗うといいわ。真水があるから。食事もしましょう」
「わーい、ご飯、ご飯」
「あ、ありがとう」
幼い少女の陽気な声に警戒心を無くした進は、彼女らについて行く。歩き着いたのは、崖にポッカリと空いた入り口高さ2mくらいの洞窟だった。
微かに太陽光が差すだけの、薄暗い洞穴に入っていくと、硬質の地面に小さい穴がいくつか空いていて、それらに水が溜まっている。
「ここの水を使うといいわ。飲んでも大丈夫だから一息ついて。この実を使えば石鹸代わりになるわ」
「た、助かった……」
走り続けて喉が乾燥していた進にとって、まさに天からの恵みだった。水を手で掬い、ゴクリゴクリと大きな音とともに体を潤していく。
そして、満足するまで水分摂取し終えた進は、洗って臭いを取るために身体中の装備を外していく。その中には、左の義手も含まれていた。
「!? その左手は?」
二人は、進の存在しない左手に目を留め、驚愕に息を呑んだ。彼女らの顔はまるで血の気が引いていくように、見る見るうちに青ざめていった。
「あー……切られたんだよ」
「そう、大変だったのね……」
「ひどい……」
義手のおかげで最近はそこまで苦労していなかったが、不便には変わりない。とはいえ、こうやって初対面の相手の同情を買い、警戒を解くこともできたようだ。
進は思う、何事も悪い点ばかりではないと。いや実際はデメリットの方が遥かに多いけれど、とも。
「あなた、名前は?」
「進っていうんだ」
「ススム? ススム!」
「珍しい名ね。顔も服も特徴的だし、違う国からやってきたの?」
「うん、いきなり飛ばされてさ。どうやって来たのか自分でも分かってないけど」
「そんな滅茶苦茶な……家族はどこに?」
「どこにいるのか、何の手がかりもないんだ。もう、別世界に来たんだって諦めてる」
二人は数秒間、絶句した。信じられないし、信じたくないような災難を目の当たりにしてしまったから。進の口から語られるその過酷な過去は、彼女らの心に深い衝撃を与えた。
「なんてこと……酷すぎる」
彼女の言う通りだ。色々なことがあって、進は気にする余裕がなかった。しかし、片手を消された上に、元いた場所から遠く遠くへと引き剥がされた。大凶なんて次元では済まないほどに薄幸だ。
「私たちもエディティアの首都に行く道中で両親を殺されたけど……どっちがマシかしらね」
「流石にそれよりは恵まれてるよ。多分」
「だとしても、本当によく頑張ったわね」
頭部の悪臭が完全に取りきれていないのにもかかわらず、女性に頭を撫でられる。少女からも同様に優しく触れられる。その二つの掌は、羽毛のように温かく、柔らかかった。
「えらい、ススム、えらい」
「う……」
思わず瞳が潤んでしまう。それは打算のない、無償の愛と慈しみだから。今までそれを注がれてこなかった訳ではないが、一番可愛がってくれていた祖母は三年前に他界してしまった。
そして気づけば、誰かに甘えることも構ってもらえることも、ほぼなくなってしまっていた。多田家は進以外の全員が、家に帰ってこないことの方が多かったから。 そんな過去数年のことも重なり、進は涙を抑えきれなかった。
「いや、まあそれはお互い様だよ」
「いいから甘えてなさい。あなたはまだ子供でしょ? 私は二十過ぎなのよ」
「へー、もっと若く見える」
「何を調子のいいことを」とコツンと殴られる。久々に、人間同士の温かい触れ合いを感じた気がする。
「私はロクス。この子はケシア、私の妹よ」
「ロクスさんとケシアね……」
「呼び捨てでいいわよ」
ふふっと彼女の口元が綻ぶ。初対面の人間には敬称をつける。この子はまともな場所で育って来たのだという安堵が、その笑みには含まれていた。
「あなたは中心都市に戻るべきだけど、機を伺うべきね。無計画に発つのは危険だから」
「そうだな……」
「それまでは、しばらくここで羽を休めるといいわ」
「いや、俺は上級以上のアークウィザードに追われてるんだ。二人に危険が及ぶかもしれない。迷惑をかける訳にはいかないよ」
「!? どうしてそんなことに?」
「魔力のない、絶滅危惧種だからかな。使い道があるみたいで」
アルジェは本当に自分という人間を愛していたわけではないと、進は考える。自分の歌をまともに聴けて、感想を言ってくれるなら誰でもよかったに違いないと。それが男ゆえに、彼女にとってはより一層幸せではあったのだろうが。
「でもやっぱり、道も分からずに行くのは危険だわ」
二人の表情は険しく悲しげだった。進が語る、自らの過去の悲惨な境遇に触れるうち、彼女らの同情心は次第に大きなものへと変わっていった。
「しばらくここに隠れていて。魔力が無いならそう簡単には見つからない」
「……ありがとう」
進の両目から涙が一筋流れ落ちた。アルジェたちのように人を人とも思わない連中がいる一方で、こんな世界にも優しい人たちがいるのだと。改めて実感できたから。長い間、暗闇の中を彷徨っていた彼の心に、光明が差し込んだ気がした。
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「なるほど、牛の生皮ね……灯台元暗しだったわ」
一方、アルジェの一団は走れど走れど何も見つけられず、元々のキャンプ地に戻っていた。そしてゴミ捨て場で、進が潜んでいた形跡を発見する。
「さぞ気持ち悪かったでしょうに。こうして忍耐強く、頭を捻ってこの世界を生き抜いてきたのね。魔力0のあなた」
「申し訳ありません。早急に捕獲し、手足を切り落としましょうか?」
「ふざけないで」
「!!」
彼女は静かに憤怒する。あと一歩間違えていたら、オルチノがどうなっていたか分からない。それほどの怒気と殺気が、華奢な少女から放たれていた。
「私は彼と分かり合いたいの。五体満足で保護しなさい」
「はっ! 意図を汲めず、申し訳ありません」
「頼んだわよ。それにしても、意外だったわ」
アルジェは進という人間を理解しきれていなかった。最高級のもてなしに、最高位の権力と地位。おまけに美人で最高峰の魔法使いである自身。
そんな幸せが手に入る未来があるのに、無関係な人間を傷つけただけで、どこかに逃げ出すなど想像していなかった。
「弱者を傷つけたくないという信念があるのね。私が歌への想いを捨てられないように」
歌姫にとってあの集落での出来事は、あたかも虫を駆除した程度の些細な事に過ぎなかった。しかし進の受け取り方は全く異なり、彼の心に深い傷を刻んだのだと彼女はようやく気づく。
「私を捨てようとしたのは正直許したくないけれど、こちらもあなたの大切なものを理解していなかったから」
残念ながらアルジェにとって、進は未だ運命の人らしい。彼女の歌をまともに聴けるのは、以前変わりなく進だけ。彼はまだ、本当の意味で逃げ切れてはいなかった。




