C3-9 フォルテ・フォルティッシモ
「……歌?」
「ええそう、私の歌。何の含みもないわ。ただ聴いてほしいだけなの」
何かの実験のつもりだろうか。悪意があるなら許可など取らず、勝手に歌い始めている気もする。だが、不気味には変わりない。
「俺は音楽の知識なんて、何も持ち合わせていないぞ?」
実のところ、進は少しだけ歌の勉強はしたことはある。ネットで自分の歌を披露していた時期もあった。だが今となっては思い出したくない黒歴史で、誰にも話したくはなかった。
「そんなもの必要ないわ。音楽は魂で奏で、聴くものだから」
「いや……それでも俺に限定する理由が分からない。他にいくらでも聞く人がいるだろ?」
「いないわ」
「!!」
それはただの四文字の言葉だったが、信じられないほどの重圧を感じた。明るく天真爛漫な雰囲気を纏っていたアルジェから、とてつもない闇を感じる。
「この世界で私の歌をまともに聴けるのは、おそらくあなただけよ」
「どういうことなんだ?」
「分かったわ。順を追って話しましょう」
アルジェは帝国の中でも屈指の名家に生まれた。その家庭では母が歌手、父がバイオリニストをしており、音楽の才能を一家の全員が重要視していた。
センスが無いものは両親に名すら呼んでもらえないほどに。そんな一族の中で、彼女は名歌手の母をも超越する歌の才を持って生まれた。
「私にとっての全ては歌。元々見込みがあったと思うけど、それを磨き上げるために、夢の中ですら練習をした。心の底から歌というものを愛していたわ」
初めての公演は十二歳のときだった。帝国の中でも最高の知名度を誇る劇場にて、アルジェは全身全霊で大勢の前で歌った。
「結果は信じられないような大成功。人類の至宝、百年に一人の天才とまで褒められたわ。でもね……」
彼女はふとテントの隙間から外を眺める。まるで自分が籠の中の鳥であるかのように、羨望の眼差しを外の世界に向ける。
「四年ほど前……ちょうど私が十三の時に魔法が目覚めたの」
「目覚めた? 後天的なものか?」
「そうね。制御できなくなったと言ったほうが正しいかしら。元々魔力自体は膨大にあったから」
彼女は俯いたままでいた。その表情には、自分が世界から孤立した存在であるかのような、哀しげな影が浮かんでいた。
「歌えば強制的に魔法が発動するようになったわ。意思とは関係なく」
「普通に話せるのに、歌だけが?」
「ええ。私の魔法である音楽隊は、二、三文字分でも歌えば広範囲の人間の魔力を猛毒のように変化させる。そして、苦しませて動けなくするの。相手の力量にもよるけど、魔法も使えなくする。ちなみに耳を塞いでも意味は無いわ」
唖然とする進。対集団でも対個人でも、反則的な力だ。真正面から戦えば、既知の魔法使いは全員、彼女に対して勝ち目などなさそうだ。
「そして、誰もまともに歌を聴くことができなくなったのよ」
「それは不治のものなのか?」
「そうね。世界中の医療機関に相談したけど、どうしても治せなかったわ」
「つまり歌を聞けるのが魔法の効果が無い、俺だけってことか。でも、他の人に聞いてもらえないのに、歌を続ける意味ってーー」
進は言葉を途中で飲み込んだ。アルジェの表情が、真顔のまま時が止まったかのように動かなかったから。その顔には、言い表せぬ執念が滲み出ていた。
「歌は私の全てよ。今までも、これからも。あなた一人だけでも構わない」
彼女は立ち上がり、進のすぐ目の前まで近づいてくる。その姿は、まるで舞台の上を歩くような、体に芯の通った立ち振る舞いだった。
「だからお願い、聴いて」
アルジェは膝を曲げ、両手で進の右手を握る。それはさながら命乞いをするかのような、必死の形相だ。上目遣いの大きく潤んだ瞳が向けられる。男でなくてもドキりとしてしまうような、愛らしさと妖艶さがそこにはあった。
「わ、分かったよ……聞くだけなら」
「本当に!? ありがとう!」
彼女は感激の面持ちでしばらく佇んだ後、進から七歩ほど離れて歌い始めた。その姿は美しく、そこだけが異世界のように微かな光を帯びていた。
「……Morgen früh、 wenn Gott will、 wirst du wieder ge weckt」
「!!」
それは、鳥肌が止まらないほど美しい歌だった。ただ声が綺麗だというだけでなく、抑揚や音の強弱、全てが完璧を超えていた。
素人の進でさえ、数秒で理解する。才能だけでなく血の滲むような努力を経て、ようやく辿り着く奇跡の音色。
「……!」
思わず自分の瞳から涙が出ていることに気づく。歌を聞いただけなのに、志望校に合格したような、何かで全国大会に出場したような。そんな一生に何度かしか味わえないような感動を覚えてしまう。
「大丈夫?」
心配し、思わず歌を止めるアルジェ。しかし、それは単なる杞憂に過ぎない。
「いや、感動したんだ」
進は立ち上がり、感服を表現するかのように両手を広げる。この歌声の前で、今だけは敵も味方も地位も何もかも関係ない。
「君に会えてよかった」
「!!」
ただ、ただ、感銘だけが全てを上書き埋め尽くす。
「うぅ……ぐすっ……」
「だ、大丈夫か!?」
今度は進が心配する番だった。だが、それも同じように杞憂に終わる。
「今まで……頑張ってきてよかった」
「それはなんというか……光栄だな」
互いに顔が赤くなり、目を逸らしてしまう。だが、寸秒で再び目と目が合う。想いはきっと、通じ合っている。
「きっと、この瞬間のために私は生まれたのね」
陽の光がテントの中を際限なく照らす。切れ目から吹く澄み切った風が、二人の頬を撫でて髪を揺らす。歌姫アルジェの人生が、最高点を迎えた瞬間だった。
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