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透き通った雨上がりに・大樹の傍らで・まばゆい光を・指でそっとなぞりました。

 新緑の葉に落ちる雨粒は、何故か緑の上にあると透明かつ大変に美しく見えた。だから幼い私は、その露を飲もうとして緑の葉をぶちんとちぎり、自分の口に滴を傾けようとする。

 「雨って汚いのよ」

 そんな私の耳に言葉を差し向けたのは、母の友人だった。彼女は整った髪型に少しのほうれい線が口元に残りながらもなで肩で華奢で、女らしい歳の取り方を取っている気がした。少し目元はくたびれているが、妙に強い語気でいつも幼い私の行動を止める。私は彼女を振り返った。でもまだ葉の上のしずくは捨てていない。


 「あのね、雨って汚いの。お空の上の埃とか小さーい汚れとか、そういうのに水がついて、落ちてくるのよ。とっても汚い。捨てちゃいなさい」

 そう言われると、私は急に興味を失って葉っぱごとその場に放り投げた。滴がからだのどこかに触れたのも、急に気持ち悪くなって泣き出したら、彼女はハンカチーフを差し出して拭いてくれた。近くになった母の友人の顔は、自分の母の顔よりも皺が多い気がした。でも彼女はそれを厭わず、ただありのままの自分を愛していた。大人の寂寞と戦いながら奮い立って人生を歩いているような、そんな女性だった。


 私の母は人形にあこがれていた。もともと美しい顔立ちで、若い頃の写真を見せてもらうと輝かしいばかりの写真ばかりだった。それを幼い頃から私は、何度も何度も見せられた。毎日だったかもしれない。そうして母を誉めると、彼女は満足げだが表情筋を動かさないようにほほえんでいた。醜さと美に囚われた母だった。あとで聞いたことによると、母親の表情が子供の情操教育に深く関わると聞いたことがあるが、私は幸運にも社会性のある普通の人間に成長したので、周辺の人間の助力あっての私かもしれない。だが母は、私を愛していたと思う。だけれど、母は母自身をもっと愛していたのだ。私が二足歩行で自由に歩けるようになった頃、母は鏡の中の己を気にして、高額な医療に頼っては若い頃の写真に近付かんと努力していた。いわゆる、美魔女という分類になるのだろう。そんな母だから、私が幼稚園や小学校に入る頃には周囲からは奇怪な目で見られて、友人らしく振る舞う人間は近くにいなかったと思う。だから母の友人は、母が母になる前の友人だけだった。その一人が、皺を隠さない彼女だった。彼女は典型的な優等生で、孤立しがちな母を救った恩人の一人だったらしい。私は父から誉められるのが大好きな母だったが、彼女の前では静かにうなずいたり、つまらない話だと後でグチったとて顔に出さないでいた。

 そんな彼女が、不慮に死んだのは私が中学生の時だ。詳細は成人してから教えてもらったが、自死であったらしい。母の落ち込みぶりは目に見えたものがあった。泣きながら酒を飲んでいた日もあった。だがそれ以上に荒れた生活をしていないのが、彼女の美に対する信仰心のあらわれだったのかもしれない。

 「なんで死んじゃったの」

 彼女は樹木葬を選んだ。成人し、社会に出て擦り切れた私は、母の友人の樹を訪れてそう尋ねていた。母の友人は少々変わっているようだ。人は樹木葬をなかなか選ばないということに、大人になり社会の仕組みを知ってから分かった。この樹の根っこに抱かれて、彼女は安らかに眠っている。


 「私ね、恋人に振られた。それで会社で大きなミスしちゃってさ。あーあ、何もかもうまくいかないことってあるんだね」

 ぽろぽろ、ぽろぽろ、と涙がこぼれてくる。美に取り憑かれた母を羨ましいと思った。もし私に信仰対象があれば、折れた心の支えになっただろう。だが私は無宗教で、母のように美に盲信することも出来ず、仕事に打ち込むが女だからと期待はされておらず、恋人には女らしくないと言われてしまう始末。何が正解なんだろうと私は見失っていた。彼女が答えを持っていると思わなかったが、雨上がりにしくしくと泣いている女は不気味だろう。寺の人が心配して見に来るかもしれないが、私は人目を忘れていったん泣きじゃくった。樹は何も答えなかったが、雨上がりの滴がはっぱの上にたくさん付いていることだろう。

 透き通った雨上がりに、まだ土砂降りの私がいるのは不釣り合いだが、私の土砂降りだっていつかは止むのだ。ようやく泣きすぎて鼻の奥がつーんと痛くなった頃、ぽたりと私の手に、雨露が上から一粒だけ降ってきた。それは手にはじかれ、滴の形にならずにどこかへ飛び去ってしまう。そこは綺麗な透明なまるになるべきだが、うまくいかないのが人生だなあ。そのかわり、小さな光が手に残った気がした。彼女が慰めてくれるには少々不器用で、彼女の死を自分だけの視点でちょっと分かる気がして、でもそちらにはまだ行けないかなあとぼんやりと考えた。彼女を理解しないのが、私の生きる道なのだ。残酷なようだけれど。

 「雨って汚いのよ」

 彼女の声が、今も耳の奥にへばりついている。


引用元:一行作家

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