ちむぽすり師
「ぁあ
すりてぇよぉ
ちむぽ
すりてぇよぉ」
放漫、早春、思春期前夜。白昼の恋人たちが公園のベンチに置き残した余熱で暖を取っていた野良猫たちが、近所のアパートから漏れ出てきたそんな哀切の一絞りを耳にしました。時刻は深々の深夜、沼のない底なし沼のような夜に聞き耳を立てているものなど猫ぐらいなもので、虫も木も、石も魚もぐっすり寝ていますから、起きている人なんて当然いません。
ホントか?
ほんとさ!
ほら、
みんな寝ちまってる!
大人たちは昼間の軋轢や当てこすりをいち早く忘れようと、度数のイカれたアルコールや安い眠剤を片っ端から飲み下し、早々に寝具に伏しちまったようだ。日中よほど嫌な目にでもあったんだろな、もうなんも発しまいと三日月よりも鋭く口を閉ざし、一切のコミュニケーションを拒んだその結び目からは、寝言おろか寝息すらもこぼさねぇ。ちょっとくらいこぼしてもバチなんて当たらねぇのに、大人の矜持は大したもんだな。別に羨ましくはねぇけども。それに対して子どもたちは、可愛らしい寝顔を押し花のように枕にうずめてよ、寝言はもちろんヨダレまで、口から出せるもんはなんだって出しちまってる。大人に比べて気楽なもんだと笑っちまうが、いずれこいつらも息を殺して寝るようになっちまうんだから、せめて今だけは良い夢見させてやろうぜ。
そうだな!
そうさ!
そうして
あげようよ!
という状況だから、深い深い眠りに包まれているこの街で、さっきの声、あの身の擦り切れるみたいなもの哀しい猛りを聞いたのは、近所の野良猫だけだったってわけ。その猫たちも最初のうちは大人しく耳を澄ませてるだけだったんだけど、だんだんむず痒そうにベンチの脚に体を擦りつけ出して、擦れば擦るほど体温は上がってって、しまいには欲情を触発されちゃって、ニャンニャン、ニャンニャン、一緒になってわめきはじめちゃったものだから、その性的な声は大所帯の、まるで過激なデモ行進みたいにわわっと街中にひろがったんだ。あまりにも騒がしいから就寝中の人たちが起きちゃうんじゃないかって心配になったけど、まぁでも、たとえそうなったとしても、恥ずかしげもなく披露される欲望には、大人たちは死後痙攣のような黙殺で応じるだろうし、子どもたちだってまだ理解に至れなくて聞き流すしかないだろうから、現状は変わらないんだろうけどね。
確かに!
そうだな!
間違いない!
となると、誰にも主張を聞き入れてもらえないその声は、夜の街に当たり散らすに違いない! 行き場のない憤りを公園の植木にぶつけ、それから道を挟んだ先にある羽虫の浮いたドブの水面をぶっ叩くんだ! 斜向かいの駐車場の縁石に置かれた見すぼらしい空き缶をぶっ蹴飛ばして、その奥にある抜け道で弱々しく点滅する街灯を力任せにバチボコぶん殴るんだ! 夜のあらゆるものに八つ当たりして、手当り次第ボコボコにして、もう鬱憤を晴らせるものがなくなると、夜そのものにすがりつくんだ!
ひゃっ、冷たい!
そうさ、夜は、冷たいのさ!
途方もなく冷たい夜気の襟を引っ掴み、そのあまりの冷たさに指が凍えてしまっても決して手放さずに夜を揺すり、揺さぶり、揺らしていると、冷たい夜の底からふるい出されるようにして、入り組んだ道の奥のさらに奥、いや、そこじゃない! そのさらに奥まった、だからそこじゃないですって! そう、こっちこっち! 路地の一段と暗い闇底から現れるのが私たち、ちむぽすり師なのさ!
「ぁあ
すりてぇよぉ
ちむぽ
すりてぇよぉ」
私たちは、シュ、シュ、シュシュシュッ、と摩擦を最小限に抑えたすり足で闇夜を切り裂き、擦り切れだらけの擦り装束をはためかせながら、目指すは夜にこだまする声の主、名前は知らん、しかし呼び名がなければ不便極まりないぞ、んならそうだな、彼ボーイでいいっしょ、テキトーだな、まぁいいでしょう、思春期前夜に身悶えする彼ボーイのもとへ速やかに到着しなけりゃ、誤ったちむぽすりをはじめちゃう恐れがある。だから一刻も早く現場に向かうため、私たちは街灯の下を瞬きの間に抜け、駐車場に転がった空き缶すれすれを通過、ドブ沿いの道を素早く疾駆し、公園にいる野良猫の口添え頼りに突き止めた声の出所アパートに着くと、インターホンは無論押さず、扉の錠を摩擦でこじ開ければ、隙間風と勘違いしてしまうほどの物音と速度で、難なく家内に忍び込んだんだぜ。
そこからはとんとん拍子です。玄関土足で上がり框、構いもせずに進み居間、迷いない足取りでそこを抜け、踏み込む一室その中央、机に項垂れ彼ボーイ、その耳元にスッと口を寄せ、サッと囁く、
いいんだぞ
思いきり
ちむぽ
すっていいんだぞ
顔を上げ、彼ボーイが聞き返す。
いいのか?
本当に
いいのか?
その問いに大きく頷き、
おう、
とってもスッキリするぞ
いいか、ちむぽをするとなぁ
体力増強!
精神安定!
免疫賦活で
生活向上!
体のなかの悪いもんが
ぜぇんぶ排出されて
頭すっきり
目ぱっちり
足はしゃきしゃき
腕ぶんぶん
下らぬことに
思い悩むこともなくなっちゃって
毎日パリッとするぜ
だからほら
手伝ってあげるから
出しなさい
ちむぽ
お出しなさない
私たちがそう説くと、彼ボーイは操られるようにして半分ほどちむぽを出しかけましたが、なぜだかどうして、もう半分を出す手前で止まっちゃったんだ。その停止の合間に夜は、シンシンシンシンって空間を静寂で埋めていき、等身大の寝台のような寝心地の良い一夜を着々と深めていきます。彼ボーイは辺りに漂う無音を吸い込みながら半開きのまぶたでこちらを振り向き、なにもかも中途半端な姿で私たちに問いかけてきたのさ。
「いいのか?」
いいんだぞ!
「いいのか!」
いいんだよ!
「本当に、いいのか?」
もう、今さらでしょう?
彼ボーイはあくびみたいな呻き声とともに再び頭を垂れ、落とした視線の先にある迷路のような机の木目を指でなぞり出したんだ。そしてその行路に自分の行く末を託そうとするも、迷いに迷って机の上はもうぐらぐら、優しく手を取りゴールの卓端まで導けば、断崖を前に二の足踏んで立ち往生、二転三転、早合点、進退窮まり頭を抱え、机に突っ伏す彼ボーイ、振って、揉んでも、傾けても、ぶつけて、回して、壊しても、なにをしても取り払えない頭中の粘液に少しずつ脳を浸漬されていく恐怖に打ち勝つ方法は負けること。泥沼のように沈み込んでいく絶望的な戦況に、もう抵抗を諦めてちむぽに手をやるそのときだ。
稲妻に、稲妻に打たれちゃったみたいに彼ボーイは一度だけ体を震わせ、机についていた自らの左肘を見やり、深く息を吐き、まるで洗脳の解けた戦士のように脱力したのです。
なんだ! なんだ!
私たちは彼ボーイの身に一体なにが起きたのか知ろうと、正面に回り込んでその左肘をのぞき見る。そこには肘頭を剥き裂くような擦過傷、うすく張られた赤黒いカサブタの規模を見るに大怪我ってほどじゃないみたいなんだけど、でもまあまあの怪我ですね、中怪我? なんだそれ、くだらぬな、机でのたうっていた拍子に裂け目ができたみてぇでよ、溶岩のような血が机の上にいくつか垂れ落ちてたんだよ。彼ボーイはその目印のように点々と続く血痕に目を凝らし、短く息を吸い、それを声に変えて吐き出した。
「なんて
言うかなぁ
ツメくん」
どのような心情の岩漿が彼ボーイにそれを告げさせたのでしょうか。推測はいくらでも立てようがあるが、発話者を鋭利に分解し、剥き出しの俎上にずら、ずららッと並べ立てでもしない限り、立証は容易ではないだろうさ。でもね、その一言を皮切りにしてね、ずっとずっと落ち着きなく揺れ動いていた彼ボーイが、まるで宇宙みたいにさ、一挙にして静まったのは確かだったんだよ。
そう。そして、彼ボーイが静まったことで発情の源を断たれた野良猫たちの声も萎んでく。口を閉じ、牙を隠し、目を細め、無になって、尾を丸め、大あくび、したのを目敏い夜が見逃すわけもなくてさ、ベンチの下に潜り込んで体を縮めた猫の輪郭をすっぽりと包み込んで、泥土に汚れた体毛を優しく撫でながら寝かしつけたんだ。
私たちの知る限り、野良猫が眠ると夜が終わります。今夜もその例にもれず、野良猫を夢へと誘って役目を終えた夜は、地平線から現れた朝日にずんずん押し出されちゃって、西へ西へと追い込まれていくのさ。夜気や夜露といった夜の名を借りただけの端役はまっさきに退場させられたけれど、夜空で輝く月と星、地上に灯る諸々の人工光はひと所に集められ、きゅきゅっと束ねられ、まだ各所に残る膨大な量の夜陰を焼く光として再利用されるのだ。それは畑に湧いた虫ころを一匹ずつ指で潰す地道な作業さ、ちょっとも見落とさねぇよう丁寧に丁寧にぶち殺していかねぇと、わずかな油断や同情に群がって、あれよあれよという間に形勢を覆されてしまいます。その気が遠くなるような作業を手助けするかのように、頑なに路面にへばりついた夜を新聞配達のカブが轢いてった。轢かれた夜は散り散りになって消え去ってさ、うす暗がりに残るのは耳障りでうっせぇエンジン音、それとは対照的な、ぽんぽん、ぽぽん、って郵便受けを鳴らす手際の音、その両極端の音律に意識を揺さぶられながら、街は少しずつ目覚めを促されていくのだ。
ついに眠ることのなかった彼ボーイは、その混成音を聞きながら夜から朝へと塗り変わる窓ガラスをぼんやりと眺め、きりきりに乾いた眼球に幾度か瞬きを被せました。まぶたは視界を往復する度、白目にまとわりついた眠気を拭ってくれてたみたいなんだけどね、わずかな拭き残しが目玉の血走りを伝って目の下にこぼれ、うっすらと隈を刻んだのだ。私たちが指摘しなければ自らで確認するすべを持たない彼ボーイは、その陰の存在を知らぬままだろう。しかし私たちは、ちむぽすりに関すること以外の物事をわざわざ相手に告げやしない。それは私たちではなく、親や友だち、もしくは鏡の役割なのだ。
そう。私たちは、私たちの役目を遂行しなくちゃいけないから、
ちむぽ
すらないのか?
そう問いかけたのだが、彼ボーイは緩慢なあくびを一つしてから立ち上がり、自室と居間を仕切る襖を開けて出ていってしまった。
お、おい! という私たちの呼びかけに応じない彼ボーイにつき従い、年季の入った調度と量産された日用品で作り上げられたごっちゃんごっちゃんの居間へと移って、雑多な室内の一部のように並んで伏した夫婦を迂回して台所に赴き、そこでがっちゃんがっちゃん冷蔵庫を漁り出した彼ボーイの背中に向かって、
ちむぽ
すらんの?
改めて投げかけたんだけどね、彼ボーイは全然反応してくれなくて、冷蔵庫の奥に突っ込んでた腕を抜き出して、固そうなパンと変色した魚肉ソーセージを矢継ぎ早に頬張ったんだ。んで、蛇口を捻って水道水で口内をすすぎ、濡れた口を拭うのもそこそこに自室に引き返してさ、机の横に転がっていたランドセルをパッとかつぎやがって、さっさとアパートを出ていきました。
引き止める隙もなくいなくなった彼ボーイのことをね、私たちは慌てて追いかけたのさ。街はまだ夜明けから間もないから、低血圧ぎみの朝もやを不機嫌に街路に漂わせ、寝ぼけ眼の信号機とあくびを噛んだマンホールで、幽霊みたいに家から出てくる大人たちをどっか遠くへ導いていく。
多くの人は重そうに体を運びながら駅を目指しているようです。そのうちの数人は、顔を引きつらせたままコンビニに飛び込んで胃にカフェインをぶち込んだ。すれ違う自転車は子どもを過積載して保育園へ、車道には憂鬱に行き交う自動車が多数、信号が変わるまで交差点の横断歩道で立ち竦む無数の人々、そのなかに紛れている彼ボーイだけは血色を帯びた顔で信号機を見上げていた。
私たちはその背後に並び立ち、
ちむぽ
すんねぇの?
三度目の問いかけもやっぱ彼ボーイの耳には届いていないみたいで、歩道の信号機が赤から青になると、大人たちと一緒に歩いていっちゃった。
困った私たちは互いに顔を突き合わせ、どうすんの? もしかしてまだ早いのでは、いや甘やかしちゃいけねぇよ、ここは強引にでもちむぽすらせようぜ、新米は黙っておれ、それでは突飛なちむぽすりを覚えてしまう恐れがあるんじゃい、そうだとも、ひよっこどもは黙って後ろで見ていろ、はんっ、黙るのはあんたらの方だね、ジジイどもがいつまでも仕切ってんじゃねぇよ、そうだそうだ、すっ込んでろ、なぁんだと?! あ? やるか? おうおう、やったるぞ、クソガキめが! まあまあ、双方とも冷静になりなさい、ほら、信号が変わりますよ、やべっ、走れ走れ!
と、急いで向かい側の歩道へと滑り込みまして、ふらふらと足を運んでいる人々のなかから彼ボーイを見つけ出してね、未だ方針は固まらないけれど、ひとまずそのあとを追うことにしました。
とりあえず、彼ボーイがこれから向かうのは学校だろうってのが、私たちの共通の見解だ。んなもん、ランドセル持ってんだから当たり前だろ、いや、必ずしもそうと決まったわけじゃないかもよ、ほら、彼ボーイが通学路からそれて脇道に入ってく、おっ、ここでちむぽすりすんのか、そんな野蛮なことは止めるわい、なにか用事があるのでしょうか、彼ボーイは表通りから離れて少し歩いてよ、辺りをきょろきょろ見回しながらさ、ひと気のない公園に立ち寄ったんだ。
砂場、ブランコ、滑り台、最低限の遊具を備えた公園には、少年がひとり立っていた。背丈や肉づき、発散する甘臭い体臭から、その少年がまだちむぽすりと縁がないことは、ふふっ、一目瞭然でしたね。けれどもね、遅かれ早かれ、そう遠くないうちに関わり合いになることは分かり切ってるんで、私たちは品定めするように少年の姿を記憶にすりつけることにしたのですよ。少年も少年で、彼ボーイの後ろにぞろぞろ続いてくる私たちを見て怪訝そうに眉を寄せていたのだが、彼ボーイが間近まで迫ると注目をそちらへと移し、「おそいよー」そう彼ボーイに言ったのです。
それに対して彼ボーイは、「いやぁ、悪い悪い」って、まったく悪びれておらぬ口振りで返答したのだ。その砕けた態度から、彼らが気の合う友人同士だってことは簡単にうかがい知れたね。
彼ボーイの次はよ、うん、きっとこの少年だな、ああ、だろうな、そうなるでしょうね。私たちがそう確認しあっていると、少年が地面に置いていたランドセルを背負いなおして、ふたりはそれを合図にシマウマの縞模様みたいに並んで学校へと歩き出す。あとに着いた私たちは、そのシマウマをつけ狙う肉食の群れのような案配だが、対象との間隔は50センチという狩猟にしてはいささか、えっと、あれよ、あれ、大胆? そう、大胆な距離を維持した。私たちにしてみれば、自らの無害さと親しみを込めてその距離感を選択したわけなのだけれども、相手方にとってはよ、見つかることなど大した痛手ではない、って感じの強者的な姿勢に思えたのかも知れないな、前を行くふたりの背筋は緊張でピピンと伸び切ってまるで新品の針金、余所行きの畏まった歩き方でしばらく道なりに進んでいた。しばらくっつっても、1分くらいのもんよ。子どもってのは堪え性がないもんだからな、ははっ、少年が彼ボーイに顔を向けて「寝不足?」尋ねると、ちょうど道の角から歩行者が現れて、ふたりと私たちの前を左から右に横切っていったのです。彼ボーイはその姿を目で追い、わずかにこちらを振り返りつつ、「いやちょっとね」いっちょ前に含みのある返事をして、口元まで湧き上がってきたあくびを草を食むようにして、ひと噛み、ふた噛み、してから「そうだ、ツメくん」急に声を張って隣にいる少年へと向き「ほらこれ」言いながら左肘を前へと「見てくれよ」突き出した。
「うわ、すごっ!」
傷を目にした少年がそう声を上げますと、その驚きようが思惑通りだったようで嬉しくなった彼ボーイは、まるで勲章かなにかを見せつけているみたいに「だろ?」胸を張っちゃってさ、その希少性を高めるためにヒュッと腕を引っ込めたんだ。
「それさ、なにしてできたの?」
まんまと好奇心をあぶり出された少年が前のめりになって聞いたのだ。彼ボーイはさらに興味を引こうと「これはさ、昨日の放課後」勿体つけながら「サッカーに乱入したときに」そう「できたんだ」言った。
「乱入?」
首を傾げる少年に彼ボーイは大げさにうなずき返し、くっそ意地悪そうな笑みをひろげた。
「校庭でちんたらサッカーしてるやつらがいたからさ、俺が本物のサッカーを教えてやろうと、ボールを奪ってやったんだ」
そこで一旦、話しを止める。そのほんの数秒の瞬間に、彼ボーイは進行方向にある横断歩道で点滅している青信号を確認して歩速を緩めたんだ。急げば色が変わる前に渡り切れるようにも思えたんだがよ、それよりも話しに時間を割くことにしたんだろうね。
「そんで、バシバシとゴール目がけてドリブってたんだけど、弱いやつってのは大抵ズルい手をつかうんだよ」
「手? サッカーなのに?」
少年の問いかけと同時に信号が赤に変わる。
「え、ん? ああ。その手じゃなくて。まぁいいや」
立ち止まったふたりの前を、3台の自動車と1台の原付自転車がたちまち通過していきます。
「そいつら俺にかなわないって分かると、無茶苦茶なスライディングでどうにか止めようとしてくんの」
「わかった! それでコケたんだ!」
あとに残った癇癪みてぇなエンジン音と「いいや、それぐらいで俺が」嗚咽のような排気音「コケるわけないだろ」に聴覚を占められながら青を待つ彼ボーイはさり気なく、ん? 左肘に手をやって、おお? なにすんだ? そこにある傷に触れました。
「じゃあどうやってできたの?」
彼ボーイは指先でカサブタをいじりながら、少し、少しずつ、押し剥がしていき、
「あ。」
わざとらしくそう呟いて、また血が出はじめた肘を少年に見せつけたのでした。
「うわっ、痛くない?」
「ぜんぜん、大丈夫だよ、こんくらい」
心配そうに尋ねた少年を彼ボーイは鼻で笑ったんだ。その話題のそらし方が微笑ましいほどあからさまで、こやつなにか隠しておるな、おう、怪しいですよね。それ以上の詮索を拒むかのように信号が赤から青へと切り替わり、ふたりは横断歩道を歩き出す。白と黒、どちらか一色だけを踏んで喜ぶような年頃ではもうないのだろう、アホか、そんなガキはもう絶滅したんだよ、白も黒もほとんど均等に踏んで対岸へと到着すると、進路の先を見た彼ボーイが「あ。」唐突に立ち止まった。
いるかもしれんだろう! おうおう、急にどうしたジジイ、白か黒だけを踏んで歩く子どもはまだいるかもしれんだろう! なんでそんなことに突っかかってくんだよ、確かめたのか! 確かめたのか! あーあー、うるせうるせ、ついにイカれたか? もう引退しろ、引退、それは言い過ぎだよ、あ? お前はジジイ派か? いや、そうじゃないけど、まぁまぁ、そんなことはいいでしょ、ほら、あちらをご覧なさい。
立ち止まった彼ボーイの視線の先をたどると、そこは商店通りで、まだ早い時間だからだろうね、開いている店なんてないシーンとしたそのなかを、彼ボーイと同年代と思しきものたちが数人歩いていたのだ。私たちは遠くにうかがえるその後ろ姿だけで、彼らがかつて、ちむぽすりの手ほどきをしたものたちであることに気づいたのさ。
あの一番体格の大きいのはシムラだな、あいつは両手のひらで子猫をあやすみたいによ、おっかなびっくりちむぽに触れていましたね、私たちは彼に、ちむぽは決して手放さずに利き手で確りと握りしめ、己の信念に誓いを立てるように上下させることを教えてやったもんだ。その横にいる猫背のタシロはさ、畳にうつ伏せになって腰を激しくすりつけていたよね、ああ、ありゃヒドかったわ、私たちは彼に、ちむぽすりはそのような腹ばいの姿勢で行うのではなく、安定した椅子にどっしりと腰を掛けるものだと正してやったんだ。その猫背のタシロと喋っている癖毛のヨシズミにはもっと驚かされたよ、いきり立ったちむぽを窓から突き出して、ずっと夜風に晒してたんだから、私たちは彼に、ちむぽはすらなければ意味がありませんよって、一晩かけてどうにか説得したのだ。
そんな私たちの熱心な指導のお陰で、今では立派にひとり立ちしている彼らに久々に会ったものだから、よっ、ちむぽすってるか? って、近況でも聞きたかったのだけれども、彼ボーイが「今日はこっちから行こう」そう少年に言いながら、商店通りと隣り合う狭い路地へと進路を変えちまった。
少年は不思議がりながらも彼ボーイのあとに従ったが、その気まぐれが腑に落ちなかったのだろう「なんでこっちなの?」尋ねたが「いや、別に」彼ボーイは素っ気なく応じてはぐらかし、構わず通路の奥へと進んでいく。路地は進めば進むほど道幅が狭くなり、その間隔に合わせて身を縮めなければ思うように進めない、おい、もたもたすんな、あ、ちょっと待って、ほら置いてきますよ、やがてそれもままならない手狭さになると、彼ボーイたちは正面に向けていた身体を斜めにして横歩きになる。目の荒いヤスリのような石塀に胸と背を擦りつけながら進んで進んで突き進んで、いくつかの犬声とその縄張りを越えると、長らく続いていた塀がやっとこさ途切れて、その奥の開けた道に飛び出る。
そこでようやく彼ボーイは少年の方を振り向く。
「ツメくん、大丈夫か?」
そう口にした彼ボーイの手や頬には多くの擦り傷ができていたんだがよ、小柄な少年はほとんど無傷でさ、精々摩擦で赤らんだところが数カ所ある程度だったんだ。それを見て取った彼ボーイは、心配する自分の方が手負いであったことに気恥ずかしさを覚えたんだね、少年の返事を待たずに行っちまった。
しかしそこは、ああ、ここは、この街きっての極悪路として名を馳せている往来で、日当たり不良に猥褻絵画、嘔吐残痕、タール染み、悪という悪が跋扈する危険な通りだから、うぉ危ない! そこにガラス片がありますよ! 用心してすり足しろよ! そっちには鉄パイプが落ちているぞ! 気をつけて! 気をつけるんだぞ! と彼ボーイたちにも注意を促しながら恐喝的に鋭利な角を曲がり、物騒な眼光がたむろするコインランドリーの前を抜け、暗がりで待ち伏せていた郵便ポストを通り過ぎたところで、対面から自転車に乗った若者がやって来る。
あっ、私たちはその顔を見て、こいつは、瞬時にその名を、ニシムラ、思い出す。
ニシムラだ、ニシムラだな、ニシムラですね、ニシムラか、ニシムラは、この世に生を受けてから未だかつてちむぽすりをしたことがないと豪語していた人物で、数年前、その嘘をどうにかして暴き立ててほしいと、彼の父親から直々に依頼を受けたことがあったのだ。
彼ボーイたちはそのニシムラを見るなり「あ、ニシムラ先生!」そう声を揃えた。先生? 先生ってあの? あのだよな、しかないよね、しかないでしょうね、そのニシムラはなにやら気色ばんだ様子で自転車から降り、彼ボーイたちを見て「ああ、よかった」胸をなで下ろした。
「よかった?」
ニシムラは「あ、いや」言い濁しながら「ちょうどタイミングが」視線を泳がせ「よかったってこと」そのときになってようやく私たちの存在を察したようで、金魚みたいな面食らった顔をして彼ボーイたちに顔を戻した。
「折角だから一緒に学校、行こうか」
そう言って自転車を押していくニシムラの横に彼ボーイたちが並んだ。私たちはそのすぐ後ろを歩きながら、よっニシムラッ、元気してたか! そう呼びかけると、ニシムラは当時のように恐る恐るこちらをうかがってきやがんの、久方ぶりじゃの、お前、ちゃんとちむぽすってるんか? まさかすってないなんて言わせませんよ、あなたには散々苦労をかけられたのだから、忘れようとも忘れぬわ、ははっ、懐かしいな! あのときは四六時中こいつの動向を監視してたよな! でもさ、なかなか尻尾を出さなくてね、そうだった、そうだったな! 在宅時はもちろんだが、登校中の電車内、講義中に雑談中、ランチタイムにバイトのときまで見張ったよな! おい、ニシムラッ! そうだよな! 就寝時の布団のなかにまで潜り込んだんだからな! おいニシムラ、無視すんな! しかし、こやつもよく辛抱したもんだ、ああ、アッパレもんだ、まあ結局は、私たちの執念が優ったのですけどね、そうあれは確か追跡25日目のことだった、いや、26日、27日目だったか? 25日であってるよ、おい、ニシムラッ! あってるよな! ああ、思い出してきた、焼けただれるくらいの日差しが降り注いでいた日だ、バイト帰りのニシムラが、それまで頑なに無視をしていた私たちに、おい、ニシムラッ! 藪から棒に話しかけてきたのだ。
「どうして俺たちは、ちむぽすりをしなければ、ならないのだろう?」
一体どんな心境の変化があったのか、その兆候がほとんどなかったので私たちは不覚にも狼狽しましたが、この機を逃しちゃならんと、すぐに気を取り直して応じたのだ。
しなければならない、ということはないんだよ、ちむぽすりは強制されるものじゃないし、反対に抑制するものでもない、したいと思ったときにすべきだし、したくないのなら無理にしなくてもいいのです、ふふっ、じゃあどうして俺につきまとうんだ、放っておいてくれればいいじゃないか、という顔をしているね、確かにそうです、しかしね、ニシムラくん、きみは未だかつてちむぽすりをしたことがない、そう口にしているらしいじゃねぇか、私たちはね、したくない人たちに無理じいはしないけれど、したことがない人たちに対してはそうじゃないのさ、もちろん、その歳で未だかつてちむぽすりをしたことがない、なんて言葉が嘘っぱちだってことはお見通しさ、おいおい、そんな顔したって無駄だよ、そもそも私たちは、きみが初めてちむぽすりをした瞬間だって知ってるんだぜ、なあそうだろ? ええ、あれは昭和62年の夏のことだ、もっと正確に言ってほしいのなら8月12日、17時36分だ、もうきみですら覚えていないその瞬間を、私たちはここまで正確に把握しているのだよ、なんならそのときの状況を語ってやろうか、語ってやるよ、母方の実家に帰省していたきみは、朝っぱらから親戚連中にプールに連れていかれたのさ、プールっても片田舎の市民プールだ、流れもしなけりゃ、泡立ちもしない、ただただカルキ臭さだけを売りにした、25メートルの簡素な水溜めさ、そこでへっとへとになるまで泳ぎ倒して帰ってきたのは夕暮れ時だ、きみはそのまま奥座敷で寝入っていたのです、そして17時36分だ、きみは突然、なんの前触れもなく飛び起きる、ぼうっとした目つきで室内を見回しちゃってさ、そこが自宅ではないことを馴染みのうすい家具で思い返しながら、最後に自分のちむぽを見下ろしましたよね、お前さんのちむぽは元気だったぜぇ、元気すぎて穿きっぱなしの海水パンツの上から顔をのぞかせていたほどだ、きみはまだ寝ぼけていたから、とっさにちむぽに挨拶をしたのです、もうじき日が暮れるっていうのに、こんにちは! はじめまして! ってね、そうして初対面の挨拶を交わしたきみたちだけれど、次になにをすればいいのか分からない、すればいいのに! すればいいだけなのに! 私たちはヤキモキしながら見守っていたんだけどね、お前らは見つめ合ったままなんもしねぇの、そうやって時間ばかりが経過してさ、見るに見かねた私たちは、きみにちむぽすりを教えてやったんだ、一から十、十から千まで徹底的にね、そんなきみがまさか将来、先生になるんなんてねぇ。
「俺は将来、先生になるのか?」
そうみたいだよ、随分と生徒たちに慕われているみたいだぜ、ニシムラくんよ。
「そうか、俺は先生になるのか」
ああ、きっと教えるのは勉強だけじゃねぇはずだぜ、おいおい、なに戸惑ってんだ、当たり前じゃないか、先生ってのはただ勉強を教えていればいいんじゃないんだよ、おいっ、いろんな物事の見方や考え方、言い方、噛み方、しごき方、生徒たちは知識に貪欲だぜ、ニシムラッ! きっとちむぽすりについても、いずれ聞かれるぜ、おい、ニシムラッ! ニシムラッ!
「ニシムラ先生!」
彼ボーイに呼びかけられたニシムラは動転した調子で、「ど、どうした?」そう言い返した。
「なにボーとしてんだよ、先生。もう学校着いてるぞ」
彼ボーイにそう告げられ、ニシムラは慌てて周囲を見渡し、校門どころか昇降口の前まで来ていることを見知って、急いで駐輪場へと自転車を押して行く。そんな鈍くせぇニシムラの姿を見送ってから、彼ボーイたちは校内へと向かったのさ。
靴箱の周辺には私たちも知っている顔がちらほら見受けられました。最初に顔を合わせたのはタカハシ、その隣にいたのはマキタ。靴箱にやって来た彼ボーイたちを見つけて声を潜めた彼らは、すぐ近くにいたマツモトとジェイコブに小声でなんか合図を送ってた。
彼ボーイたちは彼らを素通りして上履きへと履き替え、階段の踊り場でオオクボとすれ違い、自分たちの教室に向かう途中の廊下で、キムラ、セシタ、シカダと出くわしたけど、仲が良くないのか彼ら同士に挨拶らしきものはありませんでした。
一方私たちは、面識のある彼らの表情や立ち姿、声音から些細な動作にまで目を配り、直近のちむぽすり事情を推察する。キムラは顔色が悪いな、オーバーペース気味かもしれん、ジェイコブとシカダは花丸ちゃんだ、きっと充実しているに違いない、マツモトの声が少し枯れていたぞ、また大声を上げてやってんのかもな、それはいかん、厳重注意だ、というふうに気掛かりな点を見出だせたものに目星をつけ、今後の訪問予定を組み立ているうちに彼ボーイたちが教室に入っていく。
室内でまず目についたのは、商店街で見かけたシムラ、タシロ、ヨシズミの三人でした。三人は教室にやって来た彼ボーイたちの姿を見ると、ヒソヒソと言葉を交わしてからゆっくりと近寄ってこようとしたが、その背後にいる私たちを見て動きを止め、無言で顔を見合わせてからそれぞれの座席へと解散していった。その他にも、幾人かが自席に向かう彼ボーイのことを目で追って腰を浮かしかけたけど、まるで授業参観のように教室の後方に立ち並ぶ私たちを目の当たりにして席に座り直したんだ。
実際、私たちも授業参観のような心持ちだった。過去に面倒を見たものたちの日常を垣間見る機会なんぞそうないので、興味深く彼らを眺めることにしたのさ。ねぇあれ、見ろよ、パンツの脱ぎ方も覚束なかったあのノザワが、黒板にあんな卑猥な落書きしてる、スケベになったなぁ、おいおい、あそこにゃキヨミヤが取りすました顔で座ってやがる、夜はネジが外れたみてぇにしごき倒すくせしてよ、まぁまぁいいじゃないですか、おっ、意外だな、セキグチとタハラは仲がいいのか、シムラは思ったとおりの仕切りたがりだね、話題の中心になろうと必死だ、タシロとヨシズミはさっきからバタバタ騒がしいな、なにやってんだあいつら、タシロがヨシズミの教科書を奪ったみたいだぜ、よほどスケベなことでも書いたんだろうな、取り戻そうとマジで走り回っちゃって、おいおい、夜のために体力を残しておかなきゃ駄目じゃないか、お、ヨシズミがタシロを突き飛ばしたぜ、あーあ、机が無茶苦茶だ、タシロ、泣いてるのか? いや、ぶち切れてる! 泣きながらぶち切れてるぞ! おっケンカ! ケンカだ! ヒューヒュー! やっちゃえ! おい、はやし立てるな! 夜のために体力を、ジジイはさっきからそればっかだな! 若者はてめぇと違って体力があり余ってんだよ! なんだと?! お? やる気か? おいおい、こっちでもケンカか! ヒューヒュー! やっちゃえやっちゃえ!
と、教室中の喧騒がピークに達しようとしたとき、
「ほらー、ホームルームはじめるぞー!」
声とともにニシムラが教室に現れた。
教室中に散らばっていた生徒たちが慌ただしく席に着く間、ニシムラは黒板に書かれた卑猥なラクガキを発見して律儀にそれを消し出す。よっぽど急いできたんだろうね、こちらに向けたワイシャツの背にじわじわと汗が染み出してきて、徐々に透けてくる肌を「センセーの背中、スッケスケぇ!」シムラが大声で茶化すと、室内はどっと笑い声に包まれたのです。が、それにも動じずに淡々とラクガキを消し続けるニシムラが、「センセー?」期待する反応と異なったみたいで「スケスケだょー」ひろがった声は急速に萎んでいった。
これはただならぬことが起きるぞ、と生徒たちは思ったんか、互いを指さし合って責任の押しつけをはじめる。しかし、ラクガキを消し終わってこちらに向き直ったニシムラが予想外の笑顔で、戸惑った生徒たちは首を回して教室後方にいる私たちへと向いた、いやいや、そんな頼られてもさ、私たちはなにもできませんよ、前向け、前! 生徒たちは渋々ひねっていた体を戻し、笑顔のニシムラに改めて対面する。
しばし沈黙が流れる。それはほんの二、三秒のことだったが、時間ってのがその時々によって変化する体感的な尺度である以上、ニシムラが喋り出すまでの間隔をさ、十秒にも、二十秒にも、はたまた永遠のように感じる生徒もいればよ、瞬きの出来事に思えた生徒もいるだろうな。その秒数は各々にゆだねるとしまして、教室中を満たしていた静寂に向けて発せられたニシムラの言葉は、そこにいる誰の耳にも同質に届いたのだ。
「今日のホームルームは、みんなの質問に答えたいと思う」
あまりにも脈絡がなく漠然としたその言葉に、生徒たちの困惑はなお続くのだけれども、大半の生徒は案じていた説教ではなかったことに安堵し、垂直に築いていた背筋を背もたれに預ける。ちょっとだけ開いていた窓から吹き込んだちょっとだけの風、それはなにものも経由することなく直ちに生徒たちの体内へと取り込まれ、口内、気道、肺、肺胞、凝り固まった細胞の間を吹き抜け、ちょっとだけその幅をひろげて身を弛緩させる。
「センセー、ほんとにどんな質問でもいいのー?」
「ああ、なんでも」
「センセーは彼女いないんですかー?」
「そういった質問には答えない」
「なんでも答えるっていったじゃーん」
「そういうことじゃなくて、もっと大切な、悩みとか将来のこととか」
ニシムラは私たちに目をやってから、その視線を窓際の席にいる彼ボーイへと向けた。
「ちむぽすり、の、こととか」
そう、あからさまに強調して締めくくると、ニシムラの目線に便乗した生徒たちの瞳が一斉に彼ボーイに照準を合わせる。沈黙に沈黙が装填され、沈々黙々とした無言の集中砲火に晒される彼ボーイは、同じく沈黙で抵抗していたのだけど、刻々と刻みつけられる秒針に身を削られ、ついに耐え切れなくなったんだね、救援を求めるかのように窓の外に顔を向け、うす曇りの空のどこにも寄りどころがないと分かると、その下にひろがる校庭に目を伏せちまった。
あ、なんかあるよ、なんですか? ほら校庭に、ん? なにかを引きずり回したかのような跡だな、ほら、あれがおそらく、登校の際に彼ボーイが話していました、ああサッカーの、おう、その痕跡なんだろ、彼ボーイは昨日から消えずに残っているその跡をぼんやりと見下ろし、ため息を吐きながら肘に触れたのを、私たちは見逃さない、きっと昨夜、彼ボーイにちむぽすりを思いとどまらせた理由に繋がるものがその校庭にあると踏んだ私たちは、ねぇちょっと、どうなってるか、よく、見てみようぜ、おう、校庭自体には、おうおう、取り立てて物珍しいところはなにもないね、200メートル程度のトラックが白線で引かれていて、その楕円の両脇にサッカーゴールが配置されているごくごく一般的な外観だ、隅の方には、述べるまでもねぇちゃちな遊具がごちゃごちゃ置かれてんな、ああ、休み時間や放課後ともなれば、そこで生徒たちが遊具の思惑通りの遊び方で、時間も忘れて、汗とヨダレと汚れと嘘を振り乱して遊び倒すんだろうね、そんなことはいいから、問題のサッカー跡は? はいはい、でもまず、そこへ至る前に中央からはじまる足跡に注目すべきだね、どこから現れたのかも分からない一足の足跡が、降ってきたのか湧いてきたのか、忽然と校庭の中心に踏み込まれてるんだ、なんじゃそりゃ、そうなんだから仕方ないよ、で、初めての地の感触を確かめるように数度の足踏みをして、違和感がなくなるまで踏み固めてから動き出したみたいだ「え? 本当か?」うん、その始発点からサッカーゴールへと向かう数メートルは、靴裏の溝跡が鮮明に見えるほど力強く踏み締められているんだ「そうかそうか」恐れ知らずに突き出されるつま先「ようやく覚悟を」鮮やかに地面を捉える足底「決めたのか」かかとから勢いよく蹴り出された砂が後方へと棘模様に飛んでいく「そうか、じゃあここじゃなんだし」でも、その威勢は進むにつれ「トイレ、行くか」まるで溺れているかのようにおかしな挙動を取っていくんだ、右に左に跳ね回り、かと思えば立ち止まり、急速旋回、回れ右、偶に斜めに流されて、心もとない蛇行に次ぐ蛇行、そんな不可思議な軌道に陥ってしまった原因は全方位から襲い来るスライディングで、刃のような切れ込みがゴールへの道筋を鋭く断ち切り進行を妨げて校庭の隅へ隅へと追い詰めていくんだ、その度に奮闘していた結果が点々と校庭に残されているんだけど、滑り台の手前でついに陥落したみたいで、クレーターのような残痕を最後に痕跡は断たれて、そしてそれも、今まさしく鳴り響いているチャイムと同時に現れた肉々しい教師の無慈悲なトンボ掛けで、何事もなかったみたいに平坦に均されてしまったようだね。
と、そこまで語り終えて教室へと振り返ると、教室には生徒もニシムラも、他のちむぽすり師もいなくなっていた。
「え? あれ?」
まるで脱ぎたての抜け殻のように机と椅子が並ぶなか、語りに夢中になっている間に置いていかれてしまったことを知った私た、いや、ぼくは、寂しくなったあとに突沸のように腹が立ち、再び寂しさが襲いかかってくる前に近くの椅子に触れた。
そこに残っているわずかな温もりから、自分がまだ事態からそれほど遅れていないことを悟り、いなくなった他のちむぽすり師に合流するため教室を飛び出した。
授業中なので廊下は閑散としていた。そのなかをすり足で移動しながら各教室を覗いてちむぽすり師の姿を探すがまったくもって見当たらない。同階の教室を片っ端から確認し終え、下の階に降りて同様のことを繰り返したが、ちむぽすり師の所在は一向につかめない。耳を凝らせばどこかからすり足が聞こえてくるかもしれないと思い、動きを止めて聴覚に意識を集めたが、静けさに吐き出される自らの荒い息が浮き彫りになるだけ、もしかしたらこのまま見つからないんじゃ、ぼくは不安に駆られ、半ばやけくそになりながらとにかく目についた部屋を巡っていく。
保健室。いない。図書室。いない。職員室。いな、あ、鉢合わせた教職員は、突然駆け込んできたぼくを見て驚愕の表情を浮かべ、「何者だ!」と言いながら壁に立てかけてあった刺股を手に取った。ぼくがオタオタしていると、「セイヤー!」の掛け声とともにU字型の先端に挟まれ、問答無用で廊下の壁際まで追い込まれ身動きを封じられる。ぼくは慌てふためきながら自分を指さし「ちむぽすり師! ちむぽすり師!」と自らがちむぽすり師の一員であることを告げ、まだ警戒を解かない教職員に「はぐれて、他のちむぽすり師とはぐれてしまっ、探してるんです、彼らを、どこかで、彼らをどこかで、見かけせんでしたか?」しどろもどろに現状を伝えると、ようやく教職員は納得してくれたようで、刺股を下ろしてぼくを解放した。
「先ほどあちらから、すり足が聞こえてきましたよ」
教職員は無礼の詫びとばかりにそんな情報を寄越し、そそくさと職員室へ引き返していく。その取ってつけたかのような対応に反感を覚えたが、ここで時間を食っている暇はないと、彼が示したあちらを目指して移動を開始した途端にまた別の教職員に遭遇し、先ほどとそっくりの驚愕顔を浮かべ、刺股がないので今度はタックルで突っ込んできた。
先の二の舞いにならないよう「ちむぽすり師! ちむぽすり師!」と先手を打つと、「先ほどあちらの先から、すり足が聞こえてきたよ」また新しい情報をくれはしたが、その言う通りに進むとまた別の教職員に出会い、「先ほどあちらの先の奥から、すり足が聞こえてきたぞ」その度に捕縛の危機に遭っては、「先ほどあちらの先の奥の奥から、すり足が聞こえてきたんだ」自己証明と現状報告「先ほどあちらの先の奥の奥のトイレから、すり足が聞こえてきたのさ」詫び情報の獲得を繰り返す。
そうしてやっとのことで、あちらの先の奥の奥、そこにあるトイレにたどり着くと、ちょうどちむぽすり師たちがそこから出てくるところだった。
ようやく合流することができて、ぼくの口から安堵の息が自然とこぼれる。しかしそのあとから、シムラタシロヨシズミタカハシマキタマツモトジェイコブオオクボキムラセシタシカダノザワキヨミヤセキグチタハラニシムラと立て続けに現れ、最後に現れた彼ボーイの、不自然なほど混じりっ気のない晴れやかな顔つきを目にしたぼくは、そのトイレのなかで一体なにが行われてしまったのか、一瞬で理解した。
ぼくは吐いたばかりの息をのみ返し、「ちむぽ、すったの?」ゆっくりと彼らに言い寄る。彼らはなにを当たり前のことを言っているんだというような顔をして、
なにを
当たり前のことを
言っているんだ
実際にそう口にした。
今まですべての、ありとあらゆる少年たちのちむぽすりを、彼らとともに目にしてきたぼくだったが、自分だけが見逃してしまった事実を驚くほどあっさり受け入れられた。悔しさもなければ無念も湧かない。見ず知らずの団体の功績を聞かされたかのような無感動が、「へぇ、そうなんだ」ぼくの口を呼吸として出入りした。だからだろうか、ひと仕事終えて満足げに談笑をする彼らの輪に入ることがなかなかできず、次の現場へと向かう彼らが、校舎を出て、校門を出て、学校の敷地から出たときには、ぼくは彼らとは大分距離を隔てた位置を歩いていた。
彼らも彼らで、ぼくの不在など気づきもしない様子で、お馴染みのすり足でどんどん先に進んでいく。
ぼくは静かに足を止め、道の先へと消えていく彼らのことを、いつの間にか暮れはじめた日の陰りにひとり突っ立って見届け、そのすり足が街の雑音と聞き分けられなくなるまで耳を澄ませる。
激しく吠える犬。まだ聞こえる。鳥の一斉の羽音。まだ聞こえる。自販機のコンプレッサー。まだ。警笛。まだ。タイヤ。もう。ぼくのそばを女子高生が通り過ぎていく。翻るスカートの波打つヒダに残る数々の視線がぼくを同時に見返す。ぼくは顔をそむけ、まだ顔の周囲に漂う香りを少しだけ吸い込んでむせる。近くのバス停にいる母親に手を繋がれた子どもがぼくを見て首を傾げる。ぼくも同じ方向に首を傾げ、うすく笑う。子どもは笑い返すことなく手を引かれてバスに乗り込む。ぼくは顔に浮かべていた笑みを消し、バスのなかから見下ろしてくる乗客を無表情で見送った。
近隣の家々にぽつぽつと明かりが灯り出す。急な送電に揺れる電線の、その不安定な縄梯子のような影の上をぼくは歩き出す。もういつ聞いたのかも覚えていない、すり足ではない自らの足音は、なんともぎこちなく弱々しい。それを一歩ずつ足腰になじませていく。行き当たる信号はすべて赤色の赤で、昼間よりも強く停止を喚起するその色に思わずため息、青に変わるのをひたすらに待つ、待った、待っている間の空白を埋めるためになにか語ろうかと思った。けれど語りたいことなんてなに一つないことに気づいてしまった。気づかなければよかったと思ったが、気づけてよかったとも思った。赤が青になり、白黒の上を渡るその合間、ほとんど一瞬のような心地良い静寂が辺りに満ち、冷めた風が一頻り吹き去ったあと、急激に影の濃度が増していく。
それが夜だと察したときには、もうぼくは街灯に切り出された明かりの下に佇んでおり、徐々に夜と同化していく影に取り残されないよう足を早めた。影の順応は早く、道や壁の凹凸に合わせてその形状を巧みに変えるのに対し、ぼくはどの表面にもなじむことができず、ただつまずき、ぶつかり、浅はかな傷や鈍い痛みを作りながらも愚かしく進むことしかできない。この微小な蓄積の果てに待ち受けるものと時折夜闇ですれ違う。もの言いたげな顔で酒とタバコを手渡されたが、ぼくはそれをすべて断る。それならと差し出された鉄パイプも、ぼくは受け取らない。ぼくはなにも持たず、なにものも持たないまま、これからなにをしよう。そしてそれからなにものになろう。何遍も呟いたが答えてくれるものなどいない。それでもぼくは執拗に繰り返す。
ぼくは
これから
なにをしよう
そして
それから
なにになろう
その答えに至るには遠く及びもしないほどの道行きの片端、歩き疲れてしまったぼくは公園に立ち寄る。砂場、ブランコ、滑り台、必要最低限の遊具が揃っているのだから、ぼくがここで担う役割などない。それを知りながらもなにかないかと探してしまう心弱さが、はぐれものの性分だというのなら、ぼくはこの弱性と一生つき合う覚悟を決めなければならない。それができないのなら、また彼らと徒党を組み、世界各地の性管理に精を出していた方がよっぽど良い人生のはずだ。
しかし、もうその道を選択する気がないことは、ぼく自身がよく分かっている。鈍い羽音を立て、暗い鳥が一羽、近くの木立から飛び立った。まるで千切れた夕闇のように空の奥、わずかに残る夕焼けを目掛け、もう痛みも感じないのか、潰れる、潰れた、消える、消えた。
その最後を見届けてから目を閉じ、濁流のように周囲を流れ去る暗闇に肩まで浸っていると、目を凝らさなければ分からないほどの小さな明かりが遠くに灯った。捨て置かれた夕日の粒か、それとももっと違う輝きか。目を開ければ分かるだろうか。開けなければ一生分からない。分からないままでもいいと思った。どうせ分かったとしてもロウソクのような碌でもないもので、待っているのは失望だ。ぼくはさらに固く目をつむり、さらに深い暗闇のなかで息を吸い、吐いて、吐いて吸って生きていた。しかしその輝きは、吸気の度に吸い寄せられるようにして暗闇をまっすぐこちらへと突き進み、数え切れないほどの呼吸の間に、途轍もなく明るい光となって面前で揺れはじめた。
そうなってしまうとぼくは気になってしまい、まぶたの裏で揺れているそれを、薄目を開けて確認した。
靴一足に影一つ、少年ひとりに名前は確か。
「ツメくん?」
そう呼びかけると、心配そうにこちらを見ていた少年の顔に驚きが浮かび、それが徐々に恐怖へと塗り変わっていく。眼球を覆い、目元からこぼれて頬へ、そこから口元へと流れ落ちて顔中にひろがってしまうその前に、ぼくはとっさに言葉を続けた。
「ひとり? こんな時間なのに」
そう口にしてから、今の時刻を正確に把握していない自分がなにを聞いているんだと思い、自嘲に顔をつられかけたが、自らが認知していないからといって、それを尋ねてはならない道理はないはずだと思い直す。しかし、一度でも顔に生じた嘲りはそう簡単に拭えない。不自然に歪んだ表情がぼくの不気味さに拍車をかけたのだろう、ツメくんはじりじりと後退し、いつでも逃走できるように距離を取りはじめた。
彼をこの場に繋ぎ止めておく理由などなく、ぼくはこのままはぐれ者らしく、気狂なふるまいをあえて取り、ツメくんを追っ払ってもよかったのだ。よかったのだが、理屈めかしたぼくの、ぼく以外の何者かが、それを拒んで言葉を継いだ。
「あの友だちは? 一緒じゃないの?」
思い掛けない言葉にまたもやツメくんは驚きを浮かべる。ぼくは今度こそ手順を間違えないよう、顔のみならず全身からあらゆるほの暗い思惑を排していき、彼の警戒心を解いていく。
「あのって誰のこと?」
「朝、一緒にいた子だよ」
「ああ。あの子はもう、一緒じゃないよ」
「もう?」
「そう。もう」
遠い星へ引っ越したのだという。猫型の宇宙船に乗って。
「ツメくんは一緒に行かなかったの? きみだって本当はもう」
「ぼくはいいよって断ったよ」
「どうして?」
「うーん、なんとなく」
「なんとなく?」
「うん、なんとなく。みんなが行くなら、ぼくは別にそこへ行かなくてもいいんじゃないかって」
そう、ツメくんは思ったんだ。
「でも、みんなと一緒の方が楽しくない?」
「楽しいよ。楽しいけど、その楽しいことを、みんなが楽しんでくれているのなら、ぼくはそれでいいと」
ツメくんは思ったんだ。
「寂しくない?」
「まだ、よく分かんないけど、ぼくが寂しくなったとしても、どこか遠くで楽しんでるみんなのことを思うと、それもそんなに悪くないような気がする」
そう、思ったんだ。
夜空のとおく、遠く遠くの底の方から身を擦るような燃焼音、シュ、それは望遠する夜空の腹を摩擦する流星群のように、シュッシュッ、一音ごとにこちらへと迫ってくる。
「ツメくん。きみは、きみはぼくの」
言い切るのを待たずにツメくんは、
「もうそろそろ行かなくちゃ」
きっぱりとした口調でそう言い、止める間もなく公園から走り去っていく。見る見るうちに夜に紛れ、街灯の明かりでたまに現れ、また消え、現れてはまた消えて、点滅するようにして溶け切って夜になってしまっても、その存在を足音が教えてくれた。まだ彼が走り続けていることを確かに教えてくれていた。
その足音が消えるか消えないかのうちに、先ほどまでツメくんがいた場所に流星の群れが、シュ、シュ、シュシュシュッ、飛来する。
彼らは公園にひとり佇んだぼくを見つけ、ぼく以外の何者もいないことを見取って、ニヤニヤ笑ってこの場を離れようとした。ぼくはそれが無性に気に障る。ぼくは、それが、無性に気に障った。
たとえばぼくが、自らを突き動かすこの感情に従ってしまえば、どれだけの少年たちの今後を左右してしまうのかなんて、当然ぼくは分かっていたけど、ぼくはぼくを押し止めることができず、息苦しく冷めた夜を突っ切り、彼らのひとりを捕まえ、殴りつけた。
なにかを殴ったことなんてないから、殴打は不格好に相手の頬に当たっただけだ。それでもその感触は、常に擦ることしか頭にない彼らの反撃よりも的確で、次々に襲いくる彼らの報復なんて避けるまでもなく、ぼくは肌をかすめる拳を物ともせずに、彼らひとりひとりを確実に打ち倒し、殴り、殴って、そのすべてが粉々になるまで拳をふるう。
辺りには粉微塵になった彼らが散らばっていった。とてもきれいで汚らしいそれを、ぼくは怒り任せに蹴散らしたが、彼らは夜風に舞い上がりながら緊密に結びつき、ちむぽすり師座として夜空に居ついて、ニヤニヤとした光でぼくを見下ろした。
今日は夜も静かで、静かすぎてぼくはおかしくて、おかしくなっちゃって、もう全然、聞こえもしない足音が聞こえてくるような気がしちゃってさ。
でもそれは、確かに聞こえていた。
決して目に見えなくても、
たとえ聞こえなかったとしても、
ぼくが、
ぼくがちゃんと目を開き、
できるだけ大きな足音を立てながら、
できるだけ大きな嘘をつきながら、
魂のようにひんやりとした夜を、
できるだけ変わらないように願いながら駆け抜けていられれば、
それは、
それはずっと
聞こえているのだ。
たぶん。