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【番外編SS】森での憩い

(ど、どうしてこんなことに──)


 クレアは心の中で声を上げた。


 目の前には、このサザラテラ王国の王太子であり、自身の婚約者であるディルの顔がある。


 ディルは、クレアの背後にある木の幹に片腕を伸ばし、真正面から彼女を閉じ込めるように覆い被さっている。


 ハチミツ酒(ミード)のような輝く黄金色の髪の毛に、吸い込まれそうなほどに深い緑色の瞳、すっと通った鼻筋。整った輪郭は、ここ最近少年らしい丸みが消えて、徐々に引き締まってきている。


 息がかかりそうなほどの至近距離に、クレアの心臓はうるさいくらいに鳴り響き、背中には変な汗がじわりとにじむ。


 見つめ合うことに堪えきれず視線を下げるが、視界に入るのは薄く開いたディルの唇。

 一度だけ口づけた感触がいまでも鮮明によみがえり、否応なしに意識してしまう。


 ディルへの想いを自覚したきっかけにもなった、婚約破棄のために王太后からの試練を受けたのは、去年の秋頃。


 それから数ヶ月が経ち、凍てつく冬が終わり、季節はあたたかな春を迎えていた。


 同じくらいの高さだったふたりの目線は、季節が変わる間に徐々にずれていき、いまではクレアが少し見上げなければいけないくらいになっていた。


(どうしてこんなことに──!)


 クレアはもう一度、心の中で叫んだ。




          ***



 その日、クレアは、ディルとともに、王都近郊にある、王家が管轄する緑豊かな森へ散策に来ていた。


「いいところね」

 馬車を降りながら、クレアはあたりを見回す。


 ディルは手のひらを差し出して、クレアをエスコートしながら、

「ああ、ここは新緑のこの時期が一番きれいなんだ。この先に小さな湖もある。少し歩くけど、大丈夫か?」 


「ええ、平気よ。そのつもりで軽装にしてきたもの」

 クレアは自身のドレスに目をやる。


 前もってディルから森の中を歩くことを聞いていたため、侍女のサリーと相談して、ドレスはなるべく装飾が少なく、スカート部分は膨らみのない丈が短いものを選び、足元は歩きやすいようブーツにしたのだ。どちらかというと簡素な服装を好むクレアにとって、毎日この格好でもいいと思えるくらい快適だった。


 ディルは、クレアの服装に目を向け、

「そういう格好も似合ってる」

 まぶしいくらいの笑みを浮かべて言う。


 その言葉は、クレアを出迎えにオルディス侯爵家に来たとき、そして道中の馬車の中でも、何度も口にしていたはずだった。


 それなのに、ディルはクレアの格好をいまはじめて見たみたいに満面の笑みとともに告げるので、クレアは一瞬固まり、すぐにはっと意識を戻すと、徐々に赤くなる頬を隠そうと、

「あ、ありがとう」

 少しうつむいて答える。


 ディルへの想いを自覚して以来、彼の言葉やしぐさに敏感に反応してしまう。


 それを知ってか知らずか、ディルはいままで以上に、クレアへの想いを表に出している。服装や髪型を褒めるのはいつもだし、熱く見つめるし、手をつなぐのは当たり前になっている。そんなときのディルは妙に大人っぽく見えてしまい、クレアは自分が五つも年上にもかかわらず、どうしたらいいのか戸惑ってしまうのだ。


「じゃあ、行こう」

 ディルは流れるような動作で、エスコートしていたクレアの手をそのままやさしく握りしめ、自然に手をつなぐ。


 手袋越しでも熱が伝わってしまいそうで、クレアはますます落ち着かなかったが、ひとまず促されるまま歩き出す。

 クレアとディルの後ろには、クレアの侍女のサリー、ディルの侍従のルカス、あとは警護の騎士が数名ついてきている。


 森は王家が管轄する土地ということもあり、出入りする人間は木こりくらいなのだろう。道はあるものの、でこぼこしていて、あちこちに小石や小枝が落ちているので歩きやすいとは言いにくかった。


 それでもディルと手をつないでいるからか、よろけそうになっても支えてもらえる安心感があるので、クレアは森の景色を楽しみながら歩くことができた。


 それからしばらくしてたどり着いたのは、少し開けた場所だった。

 木々がぐるりと取り囲むようにぽっかりと開いた場所の中央には、小さな湖がある。

 春の穏やかな日差しが湖面に反射してキラキラ輝いている。


「素敵ね……」

 クレアは、小さく息を漏らして言った。 


 ディルは湖のそばにクレアを導きながら、 

「いつかここにクレアを連れてきたいと思っていたんだ」


 クレアは、横に立つディルに視線を向ける。


 ディルは柔らかく微笑み、

「僕がまだ小さい頃、父上と母上が時々連れてきてくれたんだ。ここでは王も王妃もなく、ただの普通の家族みたいに過ごせた」

 そう言って、湖とその向こうに広がる木々を見つめながら、懐かしそうに目を細める。


 そのディルの視線を追うように、クレアも正面に視線を戻す。

 幼い男の子とその父親と母親、家族三人が楽しそうに語り合う光景が見えそうだった。


 ディルにとって、とても大切な思い出を共有してもらえた気がして、胸がじんとあたたかくなる。

 クレアは無意識に、つないでいるディルの手をきゅっと握りしめていた。


「……連れてきてくれて、ありがとう」 

 隣のディルに視線を向ける。


 気づけば、つないでいないほうのディルの手がクレアの頬に触れていた。


 あ──、と思ったときには、これ以上ないくらいにディルの顔が近づいてきていた。


 クレアは思わず、

「あ! お、お茶の用意ができたみたいよ! ほら!」

 不自然に振り向きながら、さっと後ろを指差す。


 一本の木の下の地面には白い布が敷かれ、その上にはティーカップやお菓子などのお茶の準備が整っていた。


 ディルはクレアの指差すほうに視線を向けたあとで、くすりと笑い、

「そうだな」

 そう言って、クレアの頬に触れていた手をそのまま滑らせ、彼女の薄紫色の柔らかな髪を一房すくうと、そこに軽く口づけた。


 流れるような動作に、クレアは硬直する。


 ディルは艶を含んだ視線を一瞬向けたものの、すぐにからかうような笑みを浮かべ、

「じゃあ、行こうか」


 まるで何事もなかったかのような顔で、つないだままのクレアの手を引いてエスコートするように歩き出す。


(わたしのほうが五つも年上なのに……、焦ってるのはわたしばっかりじゃない)


 なんだかディルばかり余裕があるように感じて、クレアはむっとしてしまう。


「ディルさま、こちらへ」

「クレアお嬢さま、こちらへ」

 侍従のルカスと侍女のサリーが、それぞれ自身のあるじに向かって、着席を促す。


 クレアとディルは、敷かれた白い布の上に並んで腰を下ろす。


 ティーカップに注がれた紅茶からは、湯気とともに柑橘系の爽やかな香りが漂っている。焼き目のついたスコーンが盛られたカゴがあり、クロテッドクリームとイチゴなどの数種類のジャムが入った小さな白い器が添えられている。


 どれもクレアが今日のために準備したものだ。


 とはいえ、クレア自身、料理ができるわけではないので、侯爵家のコックにお願いしたと言ったほうが正しいが……。


「さあ、どうぞ」

 クレアは手のひらを広げて言った。


 ディルはスコーンに手を伸ばすと、手づかみでパクリと食べる。

「うん、おいしい」


「本当? よかった」

 クレアは胸をなで下ろす。


 そして自分も手を伸ばし、スコーンにイチゴのジャムを添えたあとで、口に運ぶ。


 もぐもぐと咀嚼(そしゃく)し終わったあとで、

「こういう自然の中で食べると、一際おいしく感じるものね」

 あたりを見渡しながら、すーっと息を吸い込む。


 耳を澄ませれば、心地よい風が木々の葉を揺らす音と小鳥のさえずりや羽ばたきが聞こえる。


 クレアは、そっとディルに視線を向け、ややあってから、

「あの、ディル──」

 そう口を開きかけたとき、


 ──ガサガサッ!


 あたりに草木をかき分ける音が響いた。


 瞬時にディルがハッと顔を上げて、音がするほうに鋭い視線を向ける。

 つられてクレアも顔を上げる。


 そばに控えていたルカスとサリーが、素早くディルとクレアの前に移動する。


 少し離れていたところに待機していた騎士たちが、音がするほうを向いて一斉に身構え、あたりがピンと張り詰めた空気に覆われる。


「──念のため、気をつけてください」

 ルカスは、音のする方角に視線を向けたまま、背後のディルに小さく告げた。


 そこでクレアは、いまいる場所が無防備な森の中であることを自覚する。


 王都近郊の森に猛獣などはいないはずだが、万が一ということもあり得る。


 それに動物ではなく、王太子であるディルに対して危害を加えようとしている者の可能性も皆無ではないのだ。


(もしディルに何かあったら──)


 安全であることが当たり前に感じていた自分のうかつさをクレアは悔やむ。

 クレアは、ディルが着ているジャケットの裾をぎゅっと握りしめる。


 するとすぐさま、ディルがクレアの肩を抱き寄せた。


 たったそれだけなのに、クレアは無条件に安心感を覚える。それほどまでに、自分にとってディルの存在はかけがえのないものになっている。


 依然として森の中からはガサガサッと、何か大きなものが徐々にこちらに近づいてくる音がする。


 姿の見えないことで、より一層不安が増す。


 音はどんどんと大きくなり、そして──。


 ──ガサッ!


 目の前の草木が左右に揺れた。


 騎士たちが剣を構え、その場にいる全員が息を呑んだ瞬間──。


「え⁉︎ 何、ちょ、ちょっと待って! 切らないでくれ!」

 慌てるような声が響く。


 見れば、草木の間から顔をのぞかせているひとりの男性がいた。


 目の前に剣を構えた騎士の姿が見えたからか、慌てるそぶりを見せている。


 そして、その人物の顔をよく見ると──。


「──マーティおじさま⁉︎」 

 クレアは声を上げた。


 そこにいたのは、クレアの父であるオルディス侯爵の古くからの友人で、画家のマティスだった。


 マティスは、その昔、跡を継ぐはずだった子爵家を飛び出したのち、隣国で画家になった変わり者であり、いまでは彼のほうが客を選ぶとさえ言われているほど有名な画家だ。


 普段は隣国に住んでいるはずなのだが、なぜかいまは目の前にいて、

「……あれ、クレア? なんでこんなところに?」

 さも不思議そうな顔をしている。


「そ、それはこっちのせりふよ! なんでマーティおじさまがこんなところに──?」

 恐怖から一転、思わぬ遭遇に頭がついていかず、クレアは声を張り上げていた。


「なんでって言われても……。ああ、これはディルハルト殿下もご一緒でしたか。サザラテラ王国の王太子殿下にごあいさつ申し上げます」

 そこでディルの存在に気づいたマティスが、悠長にあいさつをする。


 ディルは手を上げて、騎士たちに剣を下ろすよう命じる。


 マティスはおどけた口調で、

「ああ、助かります。僕はしがない画家ですからね。剣など向けられても、あるのは鉛筆と絵筆だけなんで、太刀打ちできませんよ」

 と言って軽く肩をすくめる。


 そして騎士たちの警戒が解かれたことで、ひとまず安心できたのか、ゆっくりとクレアたちのもとへ近づく。


「これは、これは、お邪魔してしまったようですね」

 白い布の上に並んだ紅茶やお菓子を見たマティスは、ディルにちらりと視線を向けて言った。

 しかしその表情には、申し訳なさはあまりない。むしろお腹でも空いているのか、じっスコーンを見つめている。


「……ルカス、彼の分を」

 息を吐き出し、ディルがルカスに命じる。


 ルカスは頷き、手際よくマティスの分の紅茶を用意しはじめる。


「やあ! これは申し訳ない」

 そう言いながら、マティスはさっとクレアの隣に腰を下ろすと、肩に下げていた大きめの布製の袋をわきに置いた。


「……マティス、なぜ、あなたがここに?」

 ディルは訝しむように、クレア越しにマティスへ視線を向ける。


「そうよ! マーティおじさま、ここは王家管轄の森よ! どうしてここに? それに、いつサザラテラに帰ってきたの?」

 クレアも疑問をぶつける。


 出会ったのが王族のディルだったからよかったものの、ほかの誰かだったら間違いなく捕捉(ほそく)されていただろう。


 しかしマティスは、クロテッドクリームをたっぷりとのせたスコーンを頬張りながら、のんびりとした口調で、


「国境を越えたのは、半月ほど前だよ。それからあちこちを見て回って、馬車を乗り継いでようやくここまで来たんだ。そしたらきれいな森があったからね、奥に湖もあると村人に聞いて、それなら見ておこうかなと思って散策してたんだけど、ちょっと道に迷って困ってたんだ。そしたら何やら人の気配がしたから、村人なら助けてもらえないかと思って」


「それならせめて、姿を見せて、声をかけながら近づいてきてくれればよかったのに! びっくりしたじゃない!」

 無駄に怯えてしまった恥ずかしさもあって、クレアはやや八つ当たりぎみに言った。


「いやあ、だって村人じゃなくて、盗賊だったらどうするの。僕の大事な絵を描く道具が盗られたら困る」


 そもそも盗賊なら金目のものを狙うはずだが、画家のマティスにとって、優先して守るべきは絵を描く道具なのだろう。

 それに村人だって、姿が見えないものが近づいてくる音がすれば、怯えて逃げ出してしまい、道を教えてもらうどころではなかったはずだ。 


「はあ……、ともかく無事でよかったわ」

 クレアは、安堵と呆れが混じった息を漏らして言った。


「ああ、そうだな」ディルがうなずき、「ひとまず帰りは馬車で王都まで送らせよう。この国にいる間は、どのみちオルディス侯爵家に滞在するんだろう?」


「ええ、まあ、しかし……」

 さすがのマティスもそこまで手を借りるのは申し訳ないと思ったのか、少し言い淀む。


「わたしも屋敷へ帰るもの。行き先が一緒なら手間じゃないわ。マーティおじさまが帰国したと知ったら、父もよろこぶはずよ」

 マティスが気にしないように、クレアも言葉を添える。


 マティスは、やや思案するそぶりを見せたものの、

「では、ご厚意に感謝いたします、ディルハルト殿下」

 胸に手を当てて、流麗なお辞儀をして礼を述べた。



 その後、マティスを加えて、穏やかなお茶の時間が再開された。


 スコーンは多めに用意しておいたが、かなりの空腹だったらしいマティスがおもに平らげる勢いだった。


 会話は弾み、いつしかマティスが最近手がけはじめた仕事の話になっていた。

 なんでも彼はいま、(ちまた)で流行っている恋愛小説の挿絵を手がけているらしい。


「面白いだろ? 普段僕に絵の依頼をくれる人は上流階級になるけど、小説の挿絵だったらいろんな人に見てもらえる」

 マティスは楽しげに言う。


 読書家のクレアだが、それまで恋愛小説はあまり読んだことがなかった。しかし最近ディルに翻弄されている感じを拭えないこともあり、少し興味をそそられた。


「今度、読んでみようかしら……」

 クレアは、何気なく言葉を発する。


「いいね、ぜひ読んでみてくれ」

 マティスはそう言って笑ったあとで、何かを思いついたように、

「ああ、そうだ! せっかくこんな素敵な森の中にいるんだ、ちょっと手伝ってもらおうかな」


「手伝い?」

 クレアは首を傾げる。


 話を聞いてみると、仕上げなければいけない挿絵があるのだが、そのポーズに困っているという。しかもそれが森の中での場面らしく、ぜひ協力してほしいということだった。

 クレアは、まあ、ポーズをとるくらいなら、と軽く承諾したのだったが──。




(──ああ、もう! なんでこんな状況に──!)


 クレアは、少し前の自分の決断を激しく後悔していた。


 目の前には、自分に覆い被さるような体勢のディルがいる。

 彼の薄く開いた唇が視界に入り、クレアは反射的に顔をそらす。しかし、


「そこ! 動かないで!」


 見逃さないとばかりに、向こう側から強い口調の声が響く。


 そこには、この状況を作り出した張本人であるマティスが、鉛筆とスケッチブックを片手に真剣な表情で立っている。


 先ほどからクレアが少しでも動こうものなら、容赦なくマティスの鋭い声が飛ぶのだ。


「で、でもっ──!」


 クレアはたまらず叫ぶが、再びディルの唇が視界に入り、身動きが取れない代わりにぎゅっと瞳を閉じて、行き場のない視線を強制的に遮断する。


(こんな格好だなんて聞いてないわ──! それに王太子であるディルにこんなことさせてしまうなんて──)


 そんなクレアの心の苦悩を知ってか知らずか、マティスは、

「でもじゃないよ! ほら、目も閉じないで! 言ったとおりのポーズでちゃんと止まっててくれなきゃ!」

 と容赦なく指示を飛ばす。


 仕方なくクレアは、そろりと薄く目を開けたものの、やはり耐えきれず、

「やっぱり、もう無理よ!」

 懇願するように叫んだが、その声は黙殺された。


 クレアは、恥ずかしさのあまり、いまにも逃げ出してしまいそうになるのを必死で堪える。


(お、落ち着くのよ……! ディルに変に思われるわ……! 多少近くても、前ならなんともなかったじゃない……!)


 そのとき、それまで指示どおりじっと動かずにいたディルがわずかに身じろぎして、はあ……、と小さく息を吐き出した。


 彼のそのわずかな声の振動や衣擦れの音でさえ、クレアの耳にはやけに大きく聞こえて、より一層動揺してしまう。


 すると、

「……ごめん、もう限界」

 そう言った瞬間、ディルは木の幹から手を離して、クレアをぎゅっと抱きしめた。


 突然のことに、クレアの頭は真っ白になる。


 ディルの力強い両腕がしっかりと自分の体を包み込み、これ以上ない近さで自分よりも高い体温を感じる。


 離れなければ、と思うが、体は麻痺したようにまったく動かない。


「ディ、ディル……」

 かろうじて彼の名前を呼ぶが、その声はささやくほどに小さい。


 その上、ディルは、クレアを離さないというかのように、さらに腕に力を込める。


「──ちょっと、そこまでは許可していませんよ」


 低い声音とともに、クレアの目の前がスケッチブックで覆われる。


 さきほどまで向こう側から、ああしろ、こうしろと指示を飛ばしていたマティスが、いまはクレアとディルの間に割って入るように、スケッチブックで邪魔をしている。


「……ったく、面白そうだと思っただけだったのに、悪ノリし過ぎたな……」

 マティスは、小さな声でボソリとつぶやく。


 それまでの雰囲気から一転、(うやうや)しい態度を見せて、

「ご協力感謝いたします、ディルハルト殿下」

 と言ってから、クレアに向き直ると、

「クレアも、無理を言ってすまなかったね」

 いつものやさしい笑みを浮かべた。


 しかしディルは、クレアを抱きしめたまま、彼女の細い肩に自分の顔を埋めて、

「いいところなのに……」

 と漏らすが、


「クレアお嬢さま!」

 駆け寄ったサリーによって、クレアはディルから強引に引き離された。


「自重してくださいませ」

 サリーは、ディルにキッと鋭い視線を向けて言い放つ。


 ディルは腕を組んで、やや不貞腐れたように、

「これ以上ないくらいに、してる」

 と漏らす。


 ディルから離れることができたクレアは、ほっと息を吐く。


 けっしてディルに触れられることがいやなわけではない。でもどうしていいのかわからなくなるのだ。


(自分のことなのに、自分で制御できないなんて……)


 そんなクレアの様子を見ていたマティスは、ふっと笑みを漏らすと、

「じゃあ、僕はちょっとそのあたりをデッサンしてくるよ」

 そう言って、スタスタと森のほうへと歩いて行こうとする。


「えっ! また迷子になるんじゃない」


 クレアは慌てて引き止めるが、マティスは軽く振り返り、

「大丈夫、そのへんをブラブラするだけさ。しばらくしたら戻ってくるよ」

 そう言ったあとで、そっとクレアの耳元に顔を寄せて、

「……殿下はかなりお疲れのご様子だね」

 そっとささやくと、何かを合図するように片目を閉じる。


 クレアは、はっと目を見開く。


 それはここ最近ずっと気になっていたことだった。


 ディルは以前にも増して忙しくなっているようで、ふたりでお茶をするどころか、会う時間すらもままならないほどなのだ。


(それなのに……。今日のこの時間を確保するために、ディルはどれだけ無理をしてくれたのかしら……)


 森への散策は、春になったら出かけようと冬の時期からディルが提案してくれていたもので、クレアも楽しみしていたが、それでも彼に無理をさせるくらいなら、どれだけ延期にしたって構わなかった。

 それをさりげなく伝えはしたが、ディルは大丈夫だからと言って譲らなかったのだ。


 しかし今朝、疲れを押し隠しているディルの顔を見たとき、クレアは申し訳なさで胸がいっぱいになった。


 だからこそ、穏やかな森の中でゆっくりと過ごしてもらえたらと思って、あらかじめ疲労効果のある茶葉まで準備していたのだが、マティスの登場と自分が安易に手伝いを引き受けてしまったせいで、ディルは疲れが取れるどころか、余計に疲労を溜め込んでしまったのではないかと心配していた。


「そうなの……」

 クレアは、ややまつ毛を伏せて答える。


 マティスは柔らかく微笑み、

「そうか」

 クレアの肩を数度、ポンポンと叩くと、森の方へと歩いて行った。


「マティスをひとりで行かせてよかったのか?」

 クレアのもとへ近づいたディルが、遠ざかるマティスの背中を見つめながら心配そうに言う。


「ええ、少しデッサンをしたいからって」

「そうか、ならいいが……」

「紅茶、淹れ直すわ。少しゆっくりしましょう」

 クレアは、そっとディルの手をとって、先ほどまでお茶の時間を楽しんでいた木の下に向かって歩き出す。


 木の下に着くと、サリーが素早く紅茶を淹れ直してくれた。

 そして何も言わず、サリーと侍従のルカスは、クレアとディルから少し離れた位置に下がってくれた。


「……最近忙しいんでしょう? いまくらい、ゆっくりしてもいいのよ?」

 クレアは、マティスが現れる前に言いそびれた言葉を伝える。


 ディルはわずかに驚いた表情で、やや言葉に詰まり、しばらくしたあとで、

「……ごめん、でも無理をしてるつもりはないんだ。ああ、でもそれで心配させたら意味がないな」


 クレアは首を振り、

「ううん、心配するのはわたしの勝手だもの。でもあまり無理はしないで」


 王太子という立場上、無理をしないといけない場面は数多くあるだろう。クレアがディルにしてあげられるのは、こうやって心配して、少しばかり疲れの取れる紅茶を用意するくらいだ。


「わたしにできることがあるなら、言ってほしいわ」

 クレアは真剣な表情で、ディルを見つめる。


 ディルは一瞬、虚をつかれたように表情を止め、そのあとで勢いよく顔を伏せた。


「──えっ?」

 クレアはわけがわからず、慌てる。

「何かいけなかった?」


 しかしディルは顔を伏せたまま、

「……ちょっと、待って」

 なぜか深呼吸を繰り返している。


(どうしよう……、何か本当にまずいことでも言ってしまったのかしら……)


 クレアは不安になる。


「ふう……」


 しばらくしてから、深い息とともにディルは顔を上げたが、わずかに顔が赤いのは気のせいだろうか。


 ディルは、ゆっくりとクレアの両手を取ると、

「そばにいてくれるだけでいい。それだけが僕の願いだ」

 そう言って、クレアを熱く見つめる。


 クレアはばっと顔を背けたものの、ややあってなんとかディルのほうへ顔を向けると、おずおずと目線を上げながら、


「……ずっとそばにいるわ、当たり前でしょう」


 精いっぱい自分の気持ちを伝える。

 そう、もう迷いはない。この先何があっても、自分はディルのそばを離れることはないだろう、そう思える。


 クレアの言葉を聞いたディルは、夢でも見ているようにぼんやりしていたが、徐々にその言葉の意味をはっきりと理解すると、とびきりの笑顔を浮かべる。


「うん、ずっとそばにいて」


 そう言って、クレアの両の手をぎゅっと握りしめたあとで、すっと手を離す。


 そして突然、クレアの膝の上に頭をのせる格好で、ごろんと寝そべった。


「ディ、ディル⁉︎ 何してるの⁉︎」

 クレアは驚きのあまり、声を上げる。


 ディルは、人差し指を唇に当て、

「しー、僕のためにできることをしてくれるんだろ? なら、いまはこうしてほしいかな」


 そう言うので、クレアはぐっと言葉に詰まる。


(たしかに、できることがあるなら言ってほしいとは言ったけど! こんな人前で──)


 クレアはあたりを見回す。


 少し離れた位置にはサリーやルカスがいるはずだが、不自然なほどそっぽを向いているルカスが、なぜかサリーの前に立ちふさがっていた。さらに警護に当たってくれている騎士たちは、あからさまに全員が森のほうへと視線を向けていた。


(──見られたわ! 絶対!)


 クレアは恥ずかしさのあまり本当に逃げ出したくなったが、膝の上にはディルがいるため、動けない。


 ディルは、クレアの様子をむしろ楽しんでいるかのように、クレアの長い髪の毛をくるくると指先でもてあそんでいる。


 クレアは小さく息を吐き出し、観念する。


「いいわ……。これでディルの疲れが取れるとは思えないけど」


 ディルは笑って、

「クレアが思っている以上に、効果はあるよ」


「……そう、ならよかったわ」


 本人がそう言うなら、そうなのだろう、と思うことにする。


 クレアは恥ずかしさを堪えるため、なるべくこの状況を考えないよう、視線を遠くに向けた。


 心地よい風が幾度も通り過ぎ、時折小鳥がさえずる声が気持ちを穏やかにする。


 さほど時間が経過したようにも思えなかったが、いつの間にかディルは眠りに落ちていた。


 深い森のような緑色の瞳はまぶたに覆われ、すーすーと小さな寝息を立てている。


 寝ていると、幼い頃に戻ったようだ。


 クレアはそっと手を伸ばし、まぶたにかかるディルの前髪を軽く避けてやる。


 そのまま誘われるように、その黄金色の髪の毛をゆっくりとすいた。


 金糸のように細くてしなやかな指どおりは、クレアの指先にもうすっかり馴染んでいる。


 そのあとは無意識だった。


 気づけば、クレアは静かに体を屈め、ディルの額にそっと口づけていた。




          ***


 ディルは、一瞬何が起こったのかわからなかった。


 気づけば深い眠りに落ちていて、頭をなでる心地よい感触がしているかと思えば、唐突に何かの柔らかな感触が額に触れた。


 その瞬間、ディルは勢いよく目を覚ました。


「──⁉︎」


 至近距離でディルと目があったクレアが、驚きのあまり言葉を失っている。


 ディルは、額に手を当てて状況を確認する。


 クレアの膝に頭をのせたまま、彼女を見上げ、

「もしかして……」

 と言いかけたが、その先はそれ以上尋ねなくても十分だった。


 見る間にクレアの白い頬は真っ赤になり、恥ずかしさのあまりか目が潤んでいたからだ。


 クレアとは、まだ一度しか口づけていない。


 ディルとしては、何度だって触れ合いたいが、現実的には結婚はまだ先で、婚約者の立場でしかない。


 クレアの父、オルディス侯爵からは、何かにつけて自重するようにと暗に釘を刺されている状況の中、ひたすら我慢するしかなかった。それでも時々、我慢の限界を超えてしまうのだったが……。


 それなのに──。


 ディルは、我を忘れそうになるほどの心の高まりを感じた。


(触れ合いたいのは僕ばかりだと思ってたのに……、そうじゃなかったって自惚れてもいいのか)


 ディルはそっと手を伸ばし、クレアの頬に触れる。


 クレアは、びくり、と小さく体を震わせながらも、

「──な、何?」

 と必死に、何事もなかったように装っている。


 そんな年上の婚約者が、ディルは愛おしくて仕方ない。


 もしかしたら、もう手に入らないかもしれないと思っていた。諦めて手放さなければいけない、身を切られる思いで、そう覚悟を決めたときもあった。でもあのとき、何もしないまま諦めなくてよかったと、心の底から思う。


 ディルはすっと上半身を起こすと、クレアのライラックのような薄紫色の瞳をじっと見つめる。


 それまで何度も顔をそらしていたクレアだったが、視線を左右にさまよわせたあと、覚悟を決めたようにぎゅっと瞳を閉じた。


 ディルは、ゆっくりとクレアに顔を近づける。


 クレアのまつ毛が緊張で震えているのがわかる。


 ディルは、クレアの艶やかな唇に触れるか触れないかのぎりぎりをかすめたあとで、そこに触れる代わりに、形のよい額にそっと口づけた。


 ややあって、ぱちりと目を開けたクレアは、いまディルが触れたばかりの額に手を当てて、少しばかりきょとんとしている。


 ディルは、くすりと笑った。


「いまは我慢するよ、まだね」



ここまで閲覧・ブクマなどでご評価いただき、本当にありがとうございます!


久々の番外編です!

SSショートストーリーとするには、かなりボリューム多めになってしまいました。

楽しんでいただけますように(*´▽`*)


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