14_最後の試練(3)
朝日がうっすらと差し込む室内で、クレアは寝不足で重くなったまぶたをこすり、ベッドから下りた。
カーテンを開くと、窓ガラスから見上げる空は、清々しいほどに晴れていた。
いよいよ今日、最後の試練がおこなわれる。
背後を振り返り、室内をぐるりと見回す。
王城に滞在して、もう間もなく三ヶ月を迎える。クレアが心地よいように整えられた部屋は、いまではすっかり馴染んでいた。
視線を前に戻したクレアは、窓ガラスにコツンと頭を押し当てた。
(わたしは、どうしたらいい……?)
昨日、厩舎のそばで、ディルとルカスの会話を偶然立ち聞きしてしまってから、ずっとそのことが頭から離れない。
(この試練が、本当は婚約継続のための試練だったなんて……)
そしてディルが唐突に発した『好き』という言葉も、どう受け止めればいいのか、一晩経っても戸惑うばかりだった。
(ディルがわたしを好き……? 五つも年上なのに? じゃあ、リリアンさまは? 新しい婚約者ではないの……?)
わからない、とクレアは首を横に振る。
『クレア、あなたはディルのことをどう思う?』
つと思い起こされるのは、王太后から最後の試練を告げられた日に尋ねられた言葉だった。
あのとき王太后は、ディルを異性としてどう思うか、それを訊いているのだと感じた。
だから、クレアはすぐに答えられなかった。
『好きか、きらいかで言うと、きらいではないでしょう? だってあなたなら、いやなものはいやとはっきり言うもの』
王太后は、クレアの性格を把握した上で、そう告げた。
(……ディルのことは好きよ、もう家族みたいなものだもの。そして彼なら、いずれ王としてこの国をよりよく導いてくれると思える。でも……)
クレアは視線を遠くに向けた。
(彼自身をどう思うかなんて、いままで考えたことなかった……)
それに、とクレアは思うのだ。
(いやだと思ってもはっきりと言えない場面だってあるはず……。七年前にディルとの婚約話が来たとき、王家からの申し出が断れるものではないというのは、お父さまが苦渋で受け入れた様子からも感じていたもの……)
自然とクレアは過去の自分を思い返していた。
王太子妃教育で、知らないことを学ぶのは楽しかった。でも身の振る舞い方を矯正されるのは苦痛だった。オルディス侯爵令嬢としてのマナーなら、父のため、そして家のために当然のことと思える。
でも未来の王太子妃として、常に周りの目を意識し、淑女の鑑となるよう完璧に自分を装うのは並大抵のことではなかった。
そして何よりも、自分のおこないが、ひいては婚約者であるディルの評価にもつながるのだ。
現王のひとり息子であるディルが次期王になることは約束されているも当然だが、それでも何があるかわからない。
いまは政局が安定しているとはいえ、王太后へ深い忠誠を誓う貴族も多い。盤石だと思っている足元でも、どんな綻びから崩れ落ちるかわからない。確実な未来は誰にも予見できない。だからこそ、クレア自身がその綻びの引き金にならないという理由はどこにもないのだ。
クレアは苦しげに顔をゆがめた。
やるせなさが胸をふさぐ。
「ああ……、わたし、怖いのね……」
はじめてそう思った。
これまで王太子妃という役割を、ただ面倒だから辞退したいのだと思っていた。
でもそうじゃない。
自分の弱さを認めたくなかっただけだ──。
王の采配、そして王妃の身の振り方によって、このサザラテラ王国のすべての民、その人生が幸にも不幸にもなり得る。
貴族は義務を負う、しかしより多くの義務を負うのが王族だ。
王妃は、王のそばで、王を支え、ときには諭し、万が一、王が道を誤ったときには毅然とした態度でそれを諌めなければならない。
とてつもなく重い──。
ガラス越しに映る自分の顔をじっと見つめる。
自信なんてどこにもない。
そこには、紫みを帯びた銀髪に薄紫色の瞳をもつ、頼りない二十歳の自分の姿しか見えなかった。
***
「最後の試練をおこないます」
競技場へと続く石造りの薄暗い通路の途中で、王太后がクレアとディルに向かい、静かに告げる。
「わたくしが選んだ者はすでに待機させてあります。では、健闘を祈ります」
そう言って王太后は、その場をあとにした。
王太后の姿が見えなくなると、ディルはクレアに視線を向け、
「……他人の手には託さない、か」
視線を上下に動かし、彼女の服装を確認する。
クレアが身につけているのは、令嬢らしいドレスではなく、男性が着るような、それも極力簡素な白いシャツと少しだぼついた黒いズボン、そして乗馬用のブーツだけだった。
ディルは吐き出すように、
「クレアが馬に乗るのが得意なことは知っている。だから、誰かに託すよりも、自分で勝負するんじゃないかって思ってはいたけど、でも……」
言い淀むのは、予想はしていたけれど納得するには突然過ぎるということだろうか。
クレアは申し訳なさに、視線をそっとふせる。
昨日の午後、クレアは約束どおり、ディルが選んでくれた馬の扱いに長けた騎士たち数名と顔合わせをした。
でも最終的に誰を選ぶかは、試練の前にさせてほしいといったん保留にさせてもらっていたのだ。
そしてクレアが出した結論は、自ら馬に乗り、試練に参加する──。
そのために昨日は厩舎を訪れ、厩番に頼み、自分でも乗りこなせそうな馬を貸してもらったのだった。
「ディルには優秀な騎士を集めてもらったのに、ごめんなさい……。でもやっぱり自分の手で臨むべきだと思ったの……」
そう言いながら、クレアは胸が重苦しくなる気がした。
昨日は本当にそう思って馬を借りに行ったつもりだった。
(でもいまは……?)
試練の本当の目的を知ってしまった。
それはつまり、自分の気持ち次第で、試練の結果をどちらでも選べるということだ。
そしてクレアの気持ちは、ある方向へと傾いている……。
でもそれをディルは知らない。
だからだろうか、言い訳じみた言葉がやけに白々しく感じてしまうのは、心の中で後ろめたさを感じているせいかもしれない。
「──体調は?」
ふいにディルが尋ねる。
「とくに具合が悪いとかはないんだな?」
クレアは顔を上げて、彼を見返す。
思いのほか、心配する表情が真剣だった。
クレアは戸惑いながらも、
「ええ、問題ないわ」
顔色でも悪く見えただろうかと、思いながら答える。
その後、ディルは考え込むようにじっとしている。
しばらくの沈黙のあと、今後は強めの口調で、
「……それで、それはどうやって手配したんだ?」
彼は眉をひそめ、クレアの服装を再度注視していた。
それ、とは、クレアが着ている服のことを指しているのだと気づく。
レースや刺繍がふんだんにあしらわれたドレスが当たり前である貴族階級の令嬢が、シャツならまだしも、男性が履くようなズボンなど持っているはずがない。それは一般的な令嬢から多少外れているクレアにとっても同じことだ。
シャツやズボンなら、ドレスに比べれば短時間で仕立てるのも可能かもしれないが、それでも王城内にいるクレアが最後の試練の内容を知った一昨日に、すぐに城外の仕立て屋へ注文するのは難しいはずだとわかる。
ではどうやって手配できたのか、ディルが気になるのも当然だった。
クレアは眉を落として、正直に答える。
「これは、あのワインの試練ときの、女性バトラーに借りたの」
乗馬用のブーツは、自分が使っているものを侯爵邸から持ってきてもらうことで間に合ったが、洋服については、どうしても手配できなければ、騎士などに頼み込んで貸してもらうことも視野に入れていた。
でも幸い、ワインの試練のときに男装をした女性バトラーと知り合えたこともあり、彼女にお願いしたのだ。
最初は不審がられて断られたが、最終的には承諾してくれた上、なるべく体の線がでないサイズのものをわざわざ貸してくれた。
まさか服を借りたことをディルが咎めはしないだろうと思いながらも、頼みを聞いてくれたバトラーに迷惑がかかるのは避けなければと、クレアはやや緊張してディルの次の言葉を待つ。
「ああ、彼女か……」
そう言って、ディルは眉間のしわをわずかにゆるめる。
咎めるような口調ではなかったので、クレアはすかさず、
「ええ、さすがにいつものドレス姿では馬を疾走させるのは難しいから。あと厩舎から馬も貸してもらったわ。バトラーも厩番も、わたしの頼みを聞いてくれただけなの、だからどうか責めたりしないでちょうだい」
「わかってる」
そう言ってディルが頷いてくれたので、クレアはようやく胸をなで下ろし、
「そう、ありがとう。……じゃあ、行きましょう」
さりげなく競技場へと促す。
ディルが足を踏み出したので、その横をクレアも並んで歩く。
ふたりはしばらく無言で歩みを進める。
あと数歩で、競技場に足を踏み入れるところまで来たとき、
「クレア」
ディルが呼び止める。
「この試練、結果がどうなっても僕は受け入れるから」
唐突に告げられた言葉に、クレアは足を止める。
「どういう、意味……?」
どきりとして、ディルを見つめ返す。
昨日厩舎で立ち聞きしてしまったことは、ディルは知らないはずだ。
なのに、すべてを見透かされたような気がして、クレアは動揺してしまう。
ディルは、複雑な感情を抑えるように微笑んで、
「そのままの意味だ。だから無理に気負う必要はない。クレアの希望は叶う」
クレアはふいに、少し前に庭師の老人からもらったペンテスの花を思い出した。
白くて小さな五つの花弁をもつ素朴な花。
花言葉は『希望が叶う』と、あの庭師は教えてくれた。
(わたしの、希望……? ディルはなんだと思っているの……?)
わずかな沈黙のあと、
「……ねえ、ディル」
考えるよりも先に、クレアの唇が動いていた。
「あなたは国を背負うことが怖くないの?」
ディルは驚いた顔でクレアを見返す。
当然だろう、いままでのクレアなら、王太子というディルの立場の大変さや重圧は肌で感じていたものの、彼の気持ちを直接尋ねるようなことはしなかった。それどころか、意識的に避けてさえいたのだから……。
ディルはたしかめるように、じっとクレアの薄紫色の瞳を見つめる。
ややあって、
「怖い」
そう一言、苦しげにつぶやく。
「もしも僕が選ぶ道を間違えたら、踏み外したら、それらはすべてこのサザラテラの民に返ってきてしまう。彼らの命を奪い、家族を奪い、ひいては未来をも奪ってしまうかもしれない。でも僕は何があってもそれを背負っていかなければいけない」
ディルの深い森のような濃い緑色の瞳には、確固たる意志が宿っていた。その瞳の奥に炎のようなものが見えたのは気のせいだろうか。
クレアは、何か言わなければ、と思ったが、薄く開いた唇からは言葉を発することはできなかった。
「……行こう」
ディルは、クレアの返事を待つよりも先に、そのまま競技場へと足を進める。
クレアはかろうじて体を動かすと、彼のあとを追うように、最後の試練の場へと足を踏み入れた。
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