弐・慶長十九年十二月二日之事
慶長十九年(1614)十二月二日 摂津国大坂城
瀬戸内海の東端に位置する大坂は潮風に恵まれた土地であり、日が良ければ大坂城の高い位置からは淡路島や遠く四国の大地を見ることもできる。取り分け今のような冬の時期は空気も良く澄み、そういった日が多いのだが、この日はそうではなかった。すでに夕刻に差し掛かっているが、一日天気の起源は悪く、と言っても南条宜政にはその海を見渡すような心のゆとりもなかった。
「な、南条殿、今のは某の聞き間違えではありますまいな」
宜政の目前に座している値の張りそうな直垂に身を包んだ男が問いかけた。無論、彼がここで指した南条とは南条宜政のことである。一方、宜政と話を交わすやや尊大な印象の男は渡辺糺と言った。糺は禄高こそ高くはなかったが、豊臣秀頼の槍の指南役を務めたことからこの戦に関しては大野治長らと共に豊臣氏譜代の首脳として浪人衆と共に諸事の決定に携わっていた。
大野治長も渡辺糺も母親が淀殿の近親であったことから、大坂城内で権勢を誇ったと揶揄する浪人が多かったが、宜政から見れば大野治長に関してはそれだけ知恵が回る者であったことには違いなかった。一方でこの渡辺糺という男は自尊心の塊でしかないというのが、宜政の見立てであった。成程、槍師範を務めるほどに武芸に秀でていることには違いなかったが、先の鴫野の戦いでは銃声に驚いて撤退する大失態を犯しており、諸将の失笑を買ったことも記憶に新しい。
しかも巷ではその内蔵助の名に因んで
”渡辺が浮名をながす鴫野川、敵にあふては目はくらの介”
と嘲笑わらわれたという一幕もあり、もとより大して高くなかった渡辺糺の株は大きく下がっていた。そして、そのことは他ならぬ糺自身も敏感に感じ取っていた。
宜政が糺へと接触したのは、渡辺糺のそういった部分に付け込もうと企んだために他ならない。挽回に焦る心持ちを利用することで交渉を引き出そうと考えたのだ。
宜政は先日の主君の告白から、一晩考えた。寝付けなかったのは海辺の寒さのためだけでない。徳4川方の藤堂高虎よりの内応の誘い、そしてこれを呑もうとする主君の南条元忠。宜政が悩んだのはこの内応への賛否ではなかった。南条の家を守るために、どう処理するかであった。
「まずは此方をご確認賜りたく候」
宜政は胸元から一片の紙片を取り出して続ける。
「今朝方、我が南条に届いた文にござれば、ご確認賜りたい」
渡辺糺は文を広げると目を見開く。宜政には何だか滑稽に映ってしまったが、微塵も微笑もうなどという気は起きなかった。宜政はそのまま続ける。
「我が主君、南条中務大輔は徳川方に通じております、次の競り合いの折、おそらく徳川方を平野橋より招き入れる手筈にございましょう」
「ば、馬鹿な。南条殿は、いや、南条中務殿は右府様よりすでに伯耆一国をお約束賜っておるはず、何故にこんなことを」
宜政にはこの渡辺糺という男がいよいよ可笑しくて仕方がなかった。だが、それは破顔するような可笑しさではなく、ただただ滑稽に見えて仕方がないという意味であった。第一にあくまで豊臣が徳川を倒し、伯耆までも奪い返す腹積もりでいること、第二に南条元忠が豊臣を見限ったのは渡辺糺その人が演じた失態にも大きく起因していることであった。宜政は冷静に続けた。ただ、本人にとってもこれは綱渡りであり、その心情は糺を蔑む余裕を持ちつつも、冷静は極めて努めて作り上げた冷静で合った。
「我が主、中務大輔はお味方の勝利を疑っておいでです。主が豊臣にお力添えしているのは南条旧領を回復せんがため。それが成せるのであれば、豊臣でも徳川でも構わんのです」
信じられない。渡辺糺の顔にはそう書いてあった。豊臣家中に育った糺には国衆の生き方がわからなかった。
生き残るために泥でもすする戦国の武士の在り方とは異なり、主君に忠義を貫くことが美学とされる江戸の武士の美学。時代はその転換期に差し掛かっていた。関ヶ原の衝突から十四年が過ぎ、御家の勃興が大きく減った昨今、七度浪人せねば武士にあらずと言われた時代は終わり、忠義に生きることこそ侍の本懐と考える武士が少しずつ増えていた。この渡辺糺という男もそのうちの一人だったのだろう。彼は豊臣家にしか仕えたことがない、故に他の家に仕えることやましてや裏切ることの意味が見いだせなかった。
「さ、左様であるか。ま、国人とあれば御家再興の野望は察するが、それにしても許されることではない」
渡辺糺はその上で分かったようなことを言った。彼が事情を斟酌してくれるかは宜政にとってはさして重要な事柄ではなかった。彼が分かったところで主君の寝返りが認められることなど万に一つもあり得ないからである。
しかし、糺が怒り狂わなかったことには安心した宜政であった。無骨者の印象を持っていたため、話を聞くや否や憤怒して話もろくに聞かなくなるのではと危惧していたが、流石に豊臣秀頼の近臣を務めるだけはある。
「本件はこの渡辺糺にお預けいただきたい。修理殿とも相談したうえで評定で議論し、沙汰を下そう」
渡辺糺は続けた。尚、修理殿とは大野治長のことである。大坂城浪人衆のうちの大勢力の一つである南条家の寝返りは問題として極めて大きい。流石の糺であっても一人で沙汰を下して良い問題ではない。
「一つ、申しあげて起きたい義がございます」
宜政は話を終えようとする渡辺糺に対して口を開いた。糺は聞く姿勢を示す。
「なんであろうか」
「我が南条勢でございますが、もとは二つの南条がこの戦乱に際して一つに合わさったものにございます」
「うむ、聞いたことがあるな」
「一つは主君、南条中務大輔の南条宗家にございます。関ヶ原の折に改易され、御家再興の為に大坂に入りました。もう一つは我が小鴨南条家にございます。父の小鴨伯耆守は南条一門にして南条家のために尽くす筆頭家老でしたが、御家の争いに敗れると太閤殿下のご指図で南条家を離れました」
「うむ、その伯耆守殿のご嫡男がお主であったな」
「いかにも。そして我らもまた関ヶ原の折には小西殿の下で働き、浪人と相成り申した」
宜政は一息ついて続けた。
「して、我らは我らで宗家同様に南条家復興のため大坂城に馳せ参じた次第にございます、しかし我ら小鴨の南条と宗家の間にはこの二十年の間に溝ができており、此度も我ら小鴨衆には寝返りの通知もありませなんだ」
小鴨衆。そのような言葉はない。宜政が作り上げた言葉であるが、意図が通じれば問題はない。
「右府様のご指図に従って、宗家と共に平野橋の防衛に努めておりますが、本来であれば我ら小鴨衆は南条であって南条にあらず。ましてや右府様を裏切るような中務大輔はよもや主君でもありませぬ」
先ほどまでは糺との会話でも南条元続を主君と指しておき、ここで主君と仰いでいないことを伝える。これはこの交渉における宜政が考えた一つの技であった。
「いえ、少し出過ぎました。右府様の下では南条は南条。もしも御家が再興されれば、我ら小鴨衆も南条家の与力となります、その際に火種となる発言でございました。どうかお忘れ下さりませ」
「いや、だがもうその夢は叶うまい。つまり、お主ら小鴨衆が今回の返り忠には与していないということであろう。南条は一枚岩ではなかったということだが、それでも南条の兵は惜しい。含めて評議するとしよう」
「誠に忝く存じます」
宜政は平伏して頭を下げた。もともと演技として大袈裟に低頭しようとは思っていたが、演技以上に迫真の平伏となったことには本人も気が付いてはいなかった。
その夜、豊臣方では首脳部による評定が行われた。