壱・慶長十九年十二月一日之事
慶長十九年(1614年)十二月一日 摂津国大坂城
木枯らしが、寒い。
師走と書くくらいである。この時季を迎れば世が慌しくなるのは毎年の事。しかし、この年の慌しさは何も年の末を迎えんがためだけではなかった。
大坂冬の陣、後世にはそう呼ばれることとなる戦いが始まっていた。この年、徳川方と豊臣方の政治的対立はついに軍事衝突となり、十一月の中旬にはその火蓋が切って落とされていた。四日前には野田や福島でも衝突があり、少なからず双方に名のある死傷者も出ていた。
「のう。此度の戦ば、大坂に勝ち目はないんと違うんかえ」
昼下がりにも関わらず薄暗い部屋。その中に特徴的な伯耆訛りを響かせたのは豊臣方浪人衆の一人、南条元忠であった。大坂の陣に際して豊臣方は多くの浪人を招致しており、その中には関ヶ原の際に改易となった旧大名格の武将とその旧臣団も多く含まれていた。あの日まで東伯耆に勢力を誇っていた南条元忠は土佐の長宗我部盛親にも次ぐ人数を要する勢力であり、南条派閥は豊臣方の有力勢力の一つでもあった。その頭目が弱気な発言をするのである。
「急に何をおっしゃりはりましょう。殿が左様な弱気では勝てる戦も勝てんだかいや」
同じ伯耆訛りで疑問に疑問をぶつけたのは一門衆の南条宜政だった。宜政と元忠は従兄弟の関係に当たり、宜政の父、小鴨元清は戦国末期の南条氏の舵取りを実質的に担った知将であった。元清と宜政は元忠の家督相続時の政争に敗れて南条家を去っていたが、この大坂の陣に際して再開を果たしていた。一度は袂を分かつもその志は同じく大名南条氏の再興である。元忠と宜政の他には元忠の小姓である佐々木吉高がいるのみである。
「皆の前では左様な発言はされんようお気をつけくだはりませ」
宜政は言葉を続け、元忠の後ろに控える若者に目配せをし、彼は小さくうなずく。
「だども、大坂兵の戦っぷりは目を当てられなんだ。これはもう兵が数の問題ではないぞえ」
佐々木吉高は気まずい顔をしそうになった己に気が付き、無表情を心がける。
(成程、やはりこの男はこの二十年あまりで変わってしまったな)
南条宜政は忠言を退けて愚痴を続ける主君に対してそう感じていた。
南条氏の歴史は長い。
南北朝時代より前には東伯耆に有数の勢力を有しており、足利、山名、尼子、毛利、そして豊臣。様々な大勢力が次々に現れては消える戦国乱世を一国衆として見事に生き残ったのが伯耆南条氏なのである。
しかし、南条元続が家督を都合という頃には御家の内訌があり、御家存続に功のあった一門衆の要、小鴨元清が家を去ることとなる。更に続く関ヶ原の戦いでは西軍に属したために南条家は改易。この時、元忠は未だ二十二歳の若者であり、その意思決定を本人がしていなかったのは父と共に家を離れていた宜政を以ても想像に難くなかった。
故に元続という男は自分で何かを決断したことがなく、その上で他人の選択で正しい勝利を掴んだことがなかった。そしてこの歪のかかった思考法と灰色の感覚は十と余年という浪人時代の間、南条氏を滅ぼした当主という内外からの揶揄やそれに纏わる惨めさを養分にこの男の中で肥大化していたのだった。
「我ら南条も身の振り方を考えねばならんかえや」
少しばかりの沈黙を破ったのは元忠であった。元忠は表情を変えない。いや、そう努めていたのかもしれない。むしろ表情を変えたのは宜政の方であった。
「そ、それ以上は」
「いや、そうはいかんがえ」
宜政を制して元忠は続ける。吉高は顔を強張らせぬように努めているが、まだ若いためか、その努力は努力の程度が見て取れる程度のものであった。
「藤堂殿を知っておるかえ」
「伊勢の藤堂殿ではりますかいや。存じとりますが……、もしや」
宜政は一度止めて、元忠の小姓へと目配せをする。無論、退席せよとの意味である。吉高はこれを察して立ち上がろうとするが、これもまた元続が制した。
「外さんでよい」
吉高は無言で再び腰を下ろす。いや、誰にも聞こえなかっただけで、その実は小さく「はっ」と答えていたかもしれない。再びの少しの沈黙の後、元忠は口を開く。
「伯耆、一国」
宜政の目が大きくなるのが吉高にも分かった。しかし、それは喜びを含んだ驚きのために起きた反応ではなかった。むしろその逆である。確かに憤りもあったが、何より宜政は、哀しかった。
「に、にわかな。左様な虫のいい話、信じんべきかと」
宜政はできるだけ感情を抑えて静かに答えた。
「我が南条は平野橋の守りば任されとるが、ここより徳川方を城内へ入れりゃ、その見返りの安堵とのことじゃ」
元忠は努めて無表情だったが、宜政の目には誇らしげに映った。そんな虫のいい話が……、豊臣を裏切るつもりか……、そもそも藤堂は信用できるのか……、偽書や罠ではないか、この事は誰がどこまで知っているのだ……、宜政の脳裏に疑問や言葉が季節外れの汗と共に浮かんでは言葉のみが消えていく。その間にも元忠は続ける。
「無論、伯耆一国ということはなかろうが、それでも大名へと復帰せばそれでも御の字じゃろう。なぁ、主も伯耆へと帰りたかろう。羽衣石へと帰りたかろう。主は父と共に肥後へと落ちてしもうた故、もう二十年も羽衣石の井の水を飲んでおらぬじゃろう。」
宜政には理解できなかった。それは豊臣を裏切ることや突然の寝返りの話に乗る事でも、ましてや伯耆への愛郷の念についてでもない。この主君が自分の心情に訴えかけてくることが、である。策の利を説かず、これではまるで自分に賛成して欲しいだけのように聞こえる。
「大坂が勝利した暁にも、郷へは帰れましょうや…」
宜政が絞り出した答えはたったそれだけであった。次に元忠が口を開くのに時間はかからなかった。
「儂もそう思うておうた。儂ら伯耆の侍はいつも板挟みやあたな、じゃが叔父上は常々その難局を乗り越えらはったな。確かに南条譜代の者達は家のためによく働いてくれるが、どうも考え方がいかん。周りの情勢ではなく、勝つ者を見定めねばならんのだ」
前述の通り、叔父上とは宜政の父である小鴨元清のことである。そして宜政は気付いた。この男はやはり、自分の賛同が欲しいのだ。いや、正確には自分ではなく小鴨元清の賛同が欲しいのだろう。その父も今はなく、後継の自分がいるのみ。故に自分を説得しようとしている。それも郷愁を揺さぶるという父上のやり方から最もかけ離れたやり方で。無理もない。彼の目的は策を肯定させることになってしまっているのだから。
「つまり、豊臣は勝てん。それは先日の戦ぶりから明らかよ」
元忠はまだ何か言いたそうにしていたが、それを遮って宜政は答える。
「関ヶ原の折のことは存じませぬが、殿がその策を進めるのであれば、幾つか進言させていただきたく存じます」
宜政は迷っていた。我々はこの策に乗るべきか、南条の家のための最善は何か。この献策は自分なりの思案を巡らすための少しばかりの時間稼ぎであった。
「まずこの事は南条の家でも最大の密事とすること。これ以上の藤堂殿とのやり取りはこの場の三人のみが知ることとすること、計画の日までは大坂諸将の眼前は無論、南条家臣の前でも豊臣方の風紋を悪くする発言は慎むこと」
「あい分かった、流石は叔父上の跡取りじゃ、やはり父上の道に叔父上があったように儂にも主が必要じゃ」
元忠はどうやら本心で言っていたようだが、宜政の心には、響かなかった。
しばらく密議を重ね、元忠が部屋を出ると摂津の大地は夕焼けに包まれていた。上方は山陰に位置する伯耆よりも夕暮れの時間が長い。
「今宵はいやに冷える……」
宜政が肥後に過ごした時間は故郷の寒さをも忘れさせていた。
はて、伯耆の寒さもこんな程度のものだっただろうか……。
参考
『難波戦記』
『伯耆民談記』