婚約破棄をする前に考えること
「前のヤツでクレームか来たぞ!」
「なんて?」
「名前で虐められたらしい」
「えー! そんなの知らないよ」
「『お前、婚約破棄するんだろ』とか『悪女なんだろ』とかなっているらしい」
「そこまで面倒みなきゃいけないんすか?」
「だから、今回はこの名前にする」
「ばい・しょう・きん。で、バインにショウにキン。いしゃ・りょうでイシャーにリョウだ」
「どうしましょう? 名前、足りません!」
「その役は話を聞かない奴らだったな。イヤホンで、イヤーとホォーンにしとけ」
「どうせ、またクレームくるんじゃないんですか?あり得ない名前過ぎると」
「そんときゃそんときだ。ほら、撮るぞ」
「「「イエッサー!」」」
カツン、カツン、カツン
廊下を大きな音を立てて歩いていた男は、ノックもそこそこにドアを開け放った。
「バイン王子、イシャー様、よろしいでしょうか?」
部屋の中でイチャついていた見目の良い男女がパッと距離をとった。
「元婚約者リョウ様に支払いする金額がまとまりました。」
ドンと男はテーブルの端に分厚い資料を置く。
「まず、八年間の王妃教育による拘束時間の換算です」
細かな計算式が書かれた紙をテーブルの中央に広げた。
「まず、学園に入学される前の二年間です。
朝五時に起床して、夜十時に就寝する。十七時間から三時間だけ削っていただけました」
その言葉に部屋にいた男の方、バイン王子が声を上げる。
「三時間だけと! もっとプライベート時間はあるだろう! 食事とか着替えとか入浴とか」
男は、首を横に振り、言い聞かすようにゆっくりしっかり話した。
「食事はマナー教育、同盟国のみならず各国の食事に対するマナーを学んでいただいていました。入浴は婚約者として相応しくあるべき肌の手入れもあり時間をかけて。着替えもそうです、その場に応じた装いが出来るよう練習も兼ねて。はっきり申し上げて、元婚約者様に自由時間など無きに等しい、でした」
十七時間にしましょうか? と視線で聞かれ、バイン王子は慌てて首を横に振る。
「十四時間に城で一番賃金の安い文官の一時間の手当六百リールを掛けまして、八千四百リール。
これに一年からこれまた恩情で十五日間引いた三百五十日を掛けまして、二百九十四万リール。
これを二年間で五百八十八万リール。
これが学園に入られるまでの王妃教育対価です」
紙に書かれた計算を指差しながら、男が説明をしていく。
「休息日が十五日? お茶会や園遊会もあるのだ、もっとあるのだろう」
バイン王子がまたもや口を挟むが、簡単に返り討ちにされてしまう。
「お茶会や園遊会は婚約者として出席されております。病気で完全に休まれた日が五日、ご実家のご用事があったのが十日、合計十五日でございますが、病床の時もご用事の時も数時間は王妃教育をされておられました。それも計算いたしましょうか?」
ブルン、ブルンと音がしそうな勢いでバイン王子は首を横に振っている。金額が加算されるのは避けたい。
男は残念そうに息を吐いている。
「学園に入学されてからですが、十七時間から学園に関係する時間を引きまして八時間、恩情により学園の休日や舞踏会などで遅くなった日も八時間としていただけました」
バイン王子も口出すことを諦めた。金額が嵩めば支払いが多くなるのだ。
「八時間に六百リールをかけまして、四千八百リール。
同じく三百五十日とさせていただき、百六十八万リール。
これを六年間で千八万リール。
先の二年間を足しまして、千五百九十六万リールになります。これが王妃教育に対しての拘束費です」
出てきた金額にバイン王子は天井を見た。支払うのに何年かかるだろう、と。
「もっと低くならないのか?」
「殿下、一番賃金の安い文官も一年経てば時間七百リール、優秀な者なら一年で時間千リールになるのですよ。
リョウ様なら昨年は時間三千リールでは安すぎるほどです。八年間を同じ賃金で了承いただいているのですよ」
これ以上値切れないと男ははっきりと言葉と態度でしめしていた。
「王太子の名で行われる園遊会、孤児院などへの慰問料の未払い分をリョウ様が立て替えていらっしゃいます。その額四百万リール。今年の予算はすでにありませんのでこちらも加算されます」
別の用紙がペラリと二人の前に置かれる。
園遊会や孤児院などへの支払い明細がびっしり書かれている。見ているだけで目が痛くなりそうだ。
「次に再調査費と慰謝料の説明をさせていただきます」
「再調査費? 慰謝料だと?」
バイン王子は、まだあるのかと悲鳴をあげた。
「はい。まず再調査費ですが、イシャー様の証言通りなのか再調査させていただきました。
殿下の側近であるイヤー様、ホォーン様、ショウ様、キン様、それぞれの婚約者様のご実家からのご依頼です。イシャー様の証言のみで断罪をされたので確証がほしいとのことです。
こちらも証言通りリョウ様が悪人ならば、支払いはリョウ様に移りますので。
再調査費が七百万リール。婚約者様たちのご実家が百万リールずつ、残り三百万リールをバイン王子たち六人で割りまして、一人当たり五十万リールです。
再調査の結果、″黒″になりましたので」
バイン王子は隣のイシャーが体を固くしたのに気がついていない。
「そうだろう、″黒″に決まっている」
バイン王子は、胸を撫で下ろした。支払い金額も増えないし、婚約破棄は妥当なものだと証明された、と。
「はい、バイン王子たちが。婚約者様たちもご実家のほうも殿下たちが全く調べていないようだったので、このまま婚約を続けても大丈夫か不安になられていたようで。婚約の解消を申し立てていらっしゃいます」
サラリと言われた言葉にバイン王子はまたまた慌てた。
「ちょっと待て! われらが″黒″だと?」
「はい、教科書の悪戯は違う生徒。
池に入ったのは新婚約者様が躓いて。過去再生魔法で確認してあります。
階段から突き落とされたのは階段を踏み外されて。これも魔法で確認済みでございます。
リョウ様は生徒会の仕事であちらこちらに顔を出しており、足取りを辿ってもその階段を使うことは出来ません。殿下たちが駆けつけた時、偶然近くの教室にいらしただけです。
それにリョウ様は生徒会業務と王妃教育で他者に時間をかけている暇などないこと、殿下たち以外みんな知っておいででした」
「ちょっと待て! 暴言や侮辱はどうなんだ!」
バイン王子は少しでも支払い金額を減らしたかった。
ポリポリと男は頭を掻いた。
「ああ、それですね。言い方がキツかっただけで、貴族の礼儀作法を言われていただけですよ。婚約者でもない男性に不必要に近付くべきでないとか、大声で話さない、大口を開けない、バタバタ音をたてて動かない、常識の範囲ですね」
イシャーはあらぬ方向を見てバイン王子と視線を合わさないようにしている。
「次に慰謝料ですが・・・」
「何故、慰謝料が必要なんだ!」
バイン王子は頭を抱えた。元婚約者に支払う金額が総額幾らになるのかもう想像もしたくない。
「あるに決まっているでしょう。婚約者がいる身でありながら、どうどうと不義理をしていたのですから。浮気はこっそりするか、婚約を解消されてからにするべきでしたね」
男に言われて、バイン王子は自分が取っていた行動が浮気と見なされたことに憤慨した。だが、男の言葉にすぐに口を閉じることになる。
「私は浮気など・・・」
「リョウ様が生徒会の用事で会計の男子生徒と二人っきりになったのを婚約者のいる身で誤解を招くような行動は慎むように注意されていましたよね」
ぐっとバイン王子が口を塞ぐ。
「それなのに殿下は、よく婚約者でもないイシャー様と教室で二人っきりになってみえましたよね? 歩く時も婚約者でもないイシャー様の腰に手を回したり、イシャー様は婚約者でもない殿下の腕に胸を押し付けていたり、ところ構わずベタベタ、イチャイチャと。リョウ様がなんて言われて笑われていたか、殿下は知っているのですか?」
バイン王子は体を小さくして聞いているしかできない。婚約者には許さず、自分は婚約者で無いものと親密な態度を取っていたのは事実だから。
「婚約者に見向きもされなくなった女。婚約者に捨てられた女。魅力のない女。地位だけで婚約者になった女。地位があるだけの空っぽの女。こっちのほうが暴言・侮辱ですよ」
「そんなことを言われていたのか!」
婚約者の尊厳を貶める言葉に驚きしかない。
「浮気するのなら、婚約者が周りからどう見られるか考えられるべきでしたね。学園で一番上の者が冷遇していたら、下の者はそれに倣えですからねー。気付いていらっしゃいませんが、リョウ様への暴言・侮辱を吐くことを皆に許したのは殿下ですよ。
ほんとにイシャー様の悪口ばかり気にされて。婚約者がいる男に節度を保たず接しているのです。注意されても態度を変えず、悪口や嫌がらせされたと殿下に告げ口。悪評がたっても仕方がないでしょう」
ズバズバ言われる言葉に不敬罪と言いたくなるのをバイン王子は必死に堪える。何か反論したら、倍以上で返されるのが分かっていた。
「殿下の婚約者を蔑ろにした態度、そして数々の暴言と侮辱、リョウ様の精神的苦痛と名誉毀損、十分に慰謝料の支払いが必要でございます」
もう年間予算はほとんど残らないだろうとバイン王子は思った。支払いが済むまでの数年間、いや支払いに十年以上かかるかもしれない。自分に遊ぶ金が一リールもないことをバイン王子は痛感していた。
「慰謝料は殿下が約八千万リール、イシャー様が五千万リール。
イヤー様、ホォーン様、ショウ様、キン様が三千万リールずつになります。ご友人の方は支払えませんので、労働で返していただくことになっております。
殿下の金額が高いのは、不義を当たり前としたこと、婚約者への礼儀を忘れ己の正当性のみ主張されたこと、リョウ様の人格を否定し人としての尊厳を傷つけたこと、ろくに調べもせずに断罪したこと。まだまだありますのでこちらの紙を読んでください」
バイン王子の前に書かれた紙には、こと細かに罪状と金額が書かれている。
「イシャー様は婚約者がいるのを知りながら、殿下に近付き人目も関係なくイチャつかれたこと、数々の注意を無視されたことです。
イヤー様、ホォーン様、ショウ様、キン様は、リョウ様への暴言・侮辱に対してです。
公然の場で男五人で女性一人を締め上げるなんて、紳士にあるまじき行為ですけどね! それについては慰謝料には入っておりません」
バイン王子は元婚約者の恩情をようやく有りがたく思った。
「イシャー様、お父上に連絡したところ、支払えないということなので無事王子妃殿下になられたら、その予算から差し引かせていただきます。ちなみにイシャー様の妃教育費もそちらから引くことになります」
男は今度はパラリとイシャーの前に紙を置いた。
「イシャー様の妃教育に一億八千万リール考えております。殿下も成人され、妃同伴の公務も増えてきます。早急に妃教育を終えてもらわねばなりません」
イシャーの前に別の紙が置かれる。びっしり予定がかかれた紙だ。いつ食事? いつ睡眠といいたくなるほどの。
「そんな! これではバインといつ会えるの!」
可愛らしい声でイシャーが抗議するが男はバッサリ切り捨てる。
「リョウ様の忠告を無視して、何も努力されなかったからでしょう。礼儀作法、教養に妃教育です。学園で学ぶ礼儀作法と教養だけでも身についていれば八千万リール、時間は一日三時間ほど削減出来たのですが」
つまり出来るときに出来ることをしておかなかったから、こうなったのだと。
「で、これが支払い予定表です」
びっしり書かれている紙にバイン王子はやっぱりと思った。
二十年、必要経費と支払い額でほとんど予算は消えている。予備費として少額手元に残る金額はあるが、遊ぶ金には使えないだろう。
「ちなみに側妃・愛妾の予算も支払いに回しますので、そういう方を準備されないように」
バイン王子は顔を上げた。その金を当てにしていたのに使えないとは。
「はっきりいって、女性の予算はほとんどが服装に使われます。リメイクしてもそう何回も着れませんからね。
王子妃の予算は大きく支払いや教育費に回せないのですよ。なので、側妃・愛妾の予算を回すことになっています」
バイン王子は、天を仰いだ。ほんとに遊ぶ金が無いのを実感した。
「それから、リョウ様のご実家は殿下の後ろ楯から外れましたので」
「ちょっとまて!」
バイン王子は慌てた。バイン王子の名で始めた事業のほとんどに元婚約者の実家が関わっている。今手を引かれたら、資金不足で失敗するのが目に見えていた。
「娘を傷物にした男に誰が力を貸すのですか。メリットも少ないのに」
「き、きずものにした?」
手は出してないぞ? とバイン王子は思った。
「リョウ様は、王子に捨てられた女と最悪の字を殿下からいただきましたからねー。
無実が分かっていても王族から睨まれているのですから、良縁には恵まれそうにないですし。
可愛い娘をそんな目に遇わせた男を援助できますか?」
バイン王子はそんなつもりはと言いたかったが、ギロリと睨まれて黙りこんだ。
「借金が増えないように気をつけてくださいね」
男は、明細をよく読んで意味が分からなかったら聞きに来てくださいねと残して部屋を出ていった。
高く積み上げられた明細書に部屋に残された二人は深いため息を付くのだった。
「カット!」
「お疲れ様!」
「十リール、食パン一斤ぐらいと字幕忘れるなよ!」
「ちょっと金額細かくないですかー?」
「細かいほうがいいんだよ。円満じゃない婚約破棄はめんどくさいと思わせたらいいんだから」
「今回はセットが楽だったなー」
「ああ、小さな部屋で済んだからな」
「さあ、打ち上げ、打ち上げ」
「これで分かるんですかね?」
「講師がいてな、講義するらしい。(元婚約者に)こんだけ時間と金がかかっていたとか、(新しい婚約者)こんだけ時間がなくて金かかかるとか」
「ふーん。で、おさまるんですかね? 婚約破棄」
「知らん。仕事だから作るだけだ」
「たぶん、また依頼くんぞー」
「「「はい」」」
誤字報告、ありがとうございますm(__)m