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私の警察人生は、本日をもって詰みました。  作者: 小森日和
第二章 逮捕の瞬間は誰を想う?
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2-6 壮絶な逮捕現場

 全員配置に着いたところで、Nの部屋の呼び鈴を東田が押した。と同時に、今から起こる惨劇とはかけはなれた爽やかな声で挨拶しながらNの名前を呼んだ。


 しばらくして聞こえてきたのは、駆け寄る足音と子供の笑い声だった。母親と競争でもしているのかと思うと、脈打つ音が聞こえる胸に小さな痛みが走った。


 ドアが開くと同時に、林巡査部長がドアに手をかける。更に開いたドアの先では、突然のことに驚いて固まるNの家族である奥さんと女の子がいた。


「嶋中島署です。Nさんいますよね?」


 生田係長が玄関に目をやり、続けて奥さんに確認を取る。玄関には証拠品となるクロックスがあった。


「え? 警察って、何を――」


 混乱した奥さんが忙しなく周囲に視線を向ける中、林巡査部長がメロリン越しに捜索差押許可状を奥さんにつきつけた。


「これは、裁判所の許可状。おたくの家をガサしていいと書いてあるやつ。ということで、今からガサに着手しますんで」


 全く状況を把握できていない奥さんを気遣うことなく、林巡査部長は一方的に捜索差押許可状を見せつけると、奥さんを払いのけるように数人の捜査員と共に部屋の中に入っていった。


「ちょっと、何してるんですか!」


 騒ぎに気づいたのか、作業着姿のNが慌て奥から出てきた。


「何してるじゃねぇよ! 何で俺たちが来たのかは、お前が一番わかってるだろうが!」


 Nの姿を見た途端に、生田係長が怒声を上げた。そのせいで、奥さんの顔が一瞬で青くなり、女の子の瞳には大粒の涙が溜まり始めた。


「ちょっと、朝から大声は――」


「うるせえ、のんきなこと言ってる場合と違うぞ!」


 怯んだNの弱った声に、更に生田係長が追い込みをかける。その怒声を皮切りに、女の子が声を上げて泣き出した。


「ちょっと、子供がいますからまずは別の場所で話を――」


「うるせえ! お前は黙ってろ!」


 女の子の怯えた瞳に耐えきれなくなった私は、生田係長を制止しようとした。けど、怒りを露にした生田係長の迫力に圧倒されて続く言葉を失った。


「家族がいる? お前にそんな寝言は許されないからな。なあN、自分が何をやったかわかってんのかよ!」


 今にも掴みかかりそうな勢いで、更に怒声を浴びせる生田係長。その姿には、エロ馬鹿な雰囲気は欠片もなかった。


「ちょっと待ってください」


 青ざめて固まっていた奥さんが、一変して女の子を抱きしめながら鋭い視線を向けてきた。


「主人が何をしたかはわかりませんが、いくらなんでもあんまりじゃないですか。いきなり押しかけてきて、子供もいるんですよ!」


 恐怖から一変して怒りに変わった奥さんが、泣き叫ぶかのように怒り声を上げた。


「あんたの旦那は、人としてやってはいけないことをしたんだから、当然の報いだろうが。おい浅倉、逮捕状を見せてやれ」


 涼しい顔をした生田係長が奥さんを払いのけると、私に逮捕の指示を出してきた。


 ――え? この状況で逮捕するの?


 泣き喚く女の子が、母親の腕の隙間から私を睨んでいた。奥さんも逮捕の言葉に気力を失ったみたいに、呆然と私を見ていた。


「何してんだ! 早くしろ!」


 鞄を持つ手が固まっていた私に、生田係長が怒声を上げる。もう何が何だかわからなくなった、まさにその時だった。


「パパをいじめないで。ママをいじめないで」


 母親の腕から出てきた女の子が、よろよろと私の前に立つと、その小さな両腕を広げて泣き声を上げた。


「係長――」


「いいからやれ!」


 目を背けたくなる光景に、弱音がもれる。そんな私に、生田係長は容赦なく怒声を浴びせてきた。


 想像以上の修羅場だった。そして、想像以上に、何の意味があるのかと生田係長に怒鳴りつけてやりたかった。


 看板を背負う覚悟を試される。東田の言葉が遠くに聞こえた。女性と子供を守る為に、罪のない家族を犠牲にしてでも私がやるべきことが、本当にこの状況なんだろうか。


 目頭が熱くなっていた。泣いてはいけないと言い聞かせ、下唇をかんだ。


 みんなが、私を見ていた。睨みつける目。泣きながら懇願する目。そして、罪を犯したことの意味を思い知らされて、恐怖で怯える憎たらしい目――。


 私は震える手で逮捕状と手錠を取り出した。黒く鈍い光を放つ手錠を、初めて冷たいと感じた。


「逮捕状――」


 声を出した途端、涙が頬を流れ落ちた。胸に蠢く感情の渦が、口を開いたことで飛び出しそうになり、私は下唇をかんで必死に堪えた。


「逮捕の容疑に間違いないですか?」


 逮捕状の文面は読み上げきれなかった。代わりにNに見せつけたけど、難解な文面はNも奥さんも理解できなかったと思う。ただ、罪を犯したNだけは、硬直した後に無言で頷いた。


「午前七時三十八分、貴方を通常逮捕します」


 そう言うだけで精一杯だった。


 私は、泣き止まない女の子を前にして、涙を堪えてNに手錠をかけた。




 家宅捜索も一通り終わり、証拠品となるスマホ等が押収されていった。Nの身柄は別の捜査員によって警察署に連行され、修羅場だった現場も静けさを取り戻していた。


「おつかれさま」


 アパートの前に佇んでいた私に、東田が声をかけてきた。


「東田さん、こんなこと、本当に許されるんですか」


 東田の何も感じていない顔が妙に頭にきて、私は八つ当たりするように声を荒げた。


「さあね。でも、そのおかげで救われる未来があるのは確かかな」


「救われる未来?」


「そう。生田班が逮捕した被疑者の再犯率は、他の班に比べて物凄く低いの。ただでさえ、性犯罪は高い再犯率なのに、この低さは異常だって言われてる」


「でも、だからと言って関係ない家族を巻き込むのは――」


「浅倉、よく聞いて」


 拳を握りしめて東田に想いをぶつけようとした矢先に、東田が真顔になって声のトーンを落としてきた。


「係長もね、好きでやってるわけじゃないのよ。それにね、一番苦しんでるのは係長だと思うよ」


 東田が意味ありげに私を諭し始めたところで、東田を呼ぶ声がした。東田は何か言いたげな表情をしていたけど、何も言わずに呼ばれた方に去っていった。


 ――生田係長が苦しんでる?


 東田の言葉が虚しく響いた。そんな様子を一度も見せなかった生田係長が、苦しんでるとは思えなかった。


 捜査車両に目を向けると、スマホを手にした生田係長の姿が見えた。


 その姿に、私の怒りが再燃した。どうせまた、例のラインのやりとりをしているんだろう。エロくて馬鹿なやりとりをして、結果的に楽しんでるんだろうと思った瞬間、私は走り出していた。


「係長!」


 運転席側のドアに寄りかかっていた生田係長に近づくと、手にしていたスマホを奪い取った。


「また、何やって――」


 怒りに声が荒れる中、スマホの画面を見る。足下に生田係長が脇に挟んでいた書類が落ちてきたと同時に、私の思考はスマホの画面に映ったものを見て吹き飛んだ。


 画面には、まだ幼い子供を抱いた若い女性が映っていた。二人ともカメラ目線で笑顔を見せていて、幸せな雰囲気が一目で伝わってきた。


 言葉を失った私の手から、生田係長が無言でスマホを取り返す。その表情には覇気がなく、生気を失った瞳は真っ赤に腫れ上がっていた。


 生田係長はそのまま運転席に乗り込んだ。その姿を見届けながら、足下に落ちた書類を拾い上げた。書類には、逮捕状の文字が並び、私が持っていたものと違って、はっきりと盗撮だとわかる内容が記されていた。


 その瞬間、いくつかのキーワードが私の頭の中で弾けた。そして、一つの可能性を導き出した時には、私は助手席に座っていた。


「係長、奥さんと子供さんがいたんですね」


 脳裏に広がったのは、生田係長と東田のやりとりだった。東田は、生田係長のことを今は独身と言った。それはすなわち、かつて既婚者であって、スマホの画面に映る二人は生田係長の家族を意味してると思えた。


 そして、用意された二枚の逮捕状。多分、簡単に盗撮だとわかる内容の方が正式なもので、私に渡したのが生田係長が作った偽物なんだろう。


 家族の前で手錠をかける。その鬼のような仕打ちの裏には、女性と子供を守る為に心を捨てた生田係長と、鬼になりきれなかった生田係長の優しさが見えた気がした。


「浅倉、俺のやり方は間違っているか?」


 今にも零れ落ちそうな涙を携えた瞳が、私に向けられた。


 私には、正しいのか間違っているのかはわからなかった。ただ、一つだけ言えることは、あの修羅場の中で最も苦しんでいたのは、子を持つ親だった生田係長だと思った。


 私は、答える代わりにスーツの上着を脱いで、生田係長の頭に被せた。


「逮捕の瞬間、誰を想いましたか?」


 返事など期待できない質問をぶつけて、私は生田係長を呼び出す無線を切った。


 静まり返った車内には、ハンドルにもたれてすすり泣く生田係長の声だけが、いつまでも響いていた。


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