回答者たちの現在
とある国の中央都市、通称セントラル。
その下町のとある一角に、小さな喫茶店が存在する。
一人の少女が切り盛りするその店には、裏で何でも屋という怪しげな商売をしているせいかやたらと訳ありの変人が集うらしいという噂があった。
その店の名は、『クレイジーセブン』と云う。
AM8:00。
ロジャー・ハンプトンは死んでいた。
もとい、正確には生きながらにして死人の様相を呈していた。
カーテンが閉め切られ未だ薄暗いままの喫茶クレイジーセブン、その店内に充満するアルコールの匂いの発生源として、ロジャーは顔面を土気色に染めながらソファー席に横たわりそのシート部分と現在熱烈な接吻を交わしている。何故ならそうでもして口を塞いでいないと、今にも胃の中のものが噴出してしまいそうだったので。
詰まるところ、凄まじい二日酔いである。
そこにカツカツとヒールを踏み鳴らす音が響き渡った。
フロアに顔を覗かせたのは美女ーーではなく、女に見紛うほどの美青年、メルティナ・ロバーツ。
彼は立ち込めるアルコール臭にその美貌を惜しげもなく顰め、ソファーに突っ伏したまま動かないロジャーを見て更に顔を歪めた。
断りを入れることもなく、それ以前に相手が返答出来る状態になかったので、ずかずかとロジャーに歩み寄る。ソファーのすぐ傍らに立つと、あからさまに不愉快さを前面に押し出した声で声を掛けた。
「……ちょっとあんた、ここ何処だと思ってんのよ」
「………」
「聞いてんのオッサン。もう一度言うわよ。ここ、何処だと、思ってんの」
「………」
「……ええ、そう、そうよ、ここはアシェアちゃんの店。御名答! そして今はまさしく開店1時間前!」
「………」
「わかる? あと1時間でお客さんが入ってくるって事よ。だからそんな所に居られると邪魔なの。いい? ちゃんと聞いてんのあんた!」
「………」
ぴくりとも反応しないロジャーに、苛立ちを隠しもせずメルティナは盛大に舌を打つ。
それとほぼ同時に、店先のドアががちゃりと開かれた。
からんころん、
ドアのベルが揺れる。
「るっさいわね今はまだ準備中よ!! ……って、なんだ。アスターじゃないの」
凄まじい剣幕で振り向いたメルティナは、ドアから顔を覗かせた相手を見て拍子抜けしたように言った。
対する相手は、出会い頭に猛然と怒鳴りつけられたにもかかわらずぱちりと驚いたように瞬いただけで、直ぐに困ったように笑ってみせる。
その訪問者は、穏やかな雰囲気の青年、アスター・レングスだった。
「お早う御座います、メルティナさん。……お酒の臭いがするという事は、ハンプトン殿もいらっしゃるんですか?」
「やっぱり臭いキツいわよねえ、ったく……オッサンならここよ」
乱雑に指差された先を追って店内に足を踏み入れたアスターを、ソファーの背に隠れていたらしい死に体のロジャーが迎える。
メルティナの怒声にはぴくりとも反応しなかった男は、座面で栓をしていた口元を手で覆いながら、気怠そうに視線をくれた。
「お早う御座います。ハンプトン殿」
「こんな自堕落人間にわざわざ挨拶しなくていいのよ、アスター。どうせ今が朝か夜かも分かってないわ」
「はは……そうかもしれませんね」
「ていうか、丁度良いところに来てくれたわ。ちょっとこのオッサンどっかに捨ててきてくれない?」
「え」
「いい機会だから処分するのよ、処分」
まるで大型家具を粗大ゴミに出すかのようなテンションだが、アスターが視線を落とせばそこに転がっているのはもちろん成人男性である。しかし、メルティナの眉間に寄せられた皺がその不機嫌さと本気さをありありと表していた。
さて困った、とアスターは眉尻を下げる。生きている状態ならまだしも、この調子だと「さっくり殺してから」とでも言い出しそうだ。職務外の殺人は罪になるし、死体遺棄に加担するのももちろん罪である。どうにかして生きたまま捨てさせる方向に持っていかないと……とアスターが思案する傍らで、その若干ずれた思考をなんとなく読み取った遺棄対象がとくに何を言うでもなく、というか現状言える状態にないので、ただただおえっと嘔吐いた。
「メル!」
そこに割って入ったのは、少女の声だった。
少女は店の奥にある階段からひょいと顔を出し、アルコール臭など物ともせずフロアに降り立つ。
そこでふと、メルティナの隣に立つアスターに気がつき、破顔した。つられてアスターが笑う。
「あ、おはようアスター! 来てたんだ」
「お早う御座います、アシェアさん。今日は別段用事がなかったので、何かお手伝い出来る事はないかと思って」
「……あんた、確かこの間もそう言って来てたわよ」
「えっ。そ、そうでしたか……?」
「いいって、どんな理由でも。来てくれるだけで嬉しいし。でもそういうことなら、アスターにも手伝ってもらおうかな」
「……何かあったんですか?」
「もしかして依頼かしら」
「うん、しかも緊急かつちょっと面倒な、ね。だからお店の方は臨時休業にするつもり」
そこで、少女はようやくソファーに横たわる男に視線を向けた。
「だから、もうちょっとだけそこで寝てていいよ。ロジャー」
そう告げて、すたすたとドアの方へ歩いていく。
それにメルティナとアスターが続いた。
「場所と内容は道すがら話すから。サイモンは外出してたみたいだけど、さっき連絡して留守はお願いしてあるし……あ、そうだ。ロジャー!」
「……」
「いってきます」
振り返った少女ーーアシェア・クラウスが笑う。
ソファーの影からひらりと手のひらが動いたのを確認して、ドアを開いた。
からんころん、
ベルが鳴って、また静寂に戻る。
***
AM10:00。
未だにソファーに突っ伏しているロジャーの側で、リヴリー・ドーラがぽつんと立っていた。腰まで伸びた銀の髪を無造作に垂らしながら、眠たげに目を擦る仕草は外見よりもずっと幼い。
一方のロジャーは漂うアルコール臭は相変わらずで、先程と僅かばかり違うのは、多少口が利ける程度に回復している事くらいだった。
「……ロジャー」
「……あ?」
「アシェアは?」
「居ねェ」
「どこいったの」
「知らねェ」
「なにしにいったの」
「仕事だ」
「なんの?」
「知らねェ」
ごく短いセンテンスしか返さない死にかけのロジャーをとくに気に留めた様子もなく、ふうん、とリヴリーは相槌を打つ。
からんころん、
その背後で、不意にベルが鳴った。
リヴリーが振り返ると、長身痩躯の眼鏡の男、サイモン・ノーランドがドアを押し開けて入ってくるところだった。狐のような切れ長の目が、すうと細められる。
「サイモン」
「何をしているんです、リヴリー。そんな頭で」
「……あ、」
今気が付いたと言うように、少年はばらばらと背中に散った長い髪を手にとって眺める。いつもなら三つ編みに結われているはずのその髪が、今日は起き抜けの状態のまま櫛さえ通されていなかった。
「……そういえば、アシェアにむすんでもらうの、わすれてた」
「全く……。そんなに長くて邪魔そうだと言うのに、よく忘れられますね」
「でも、どうしよう。アシェアいないよ」
「ああ、聞いていますよ。緊急の仕事が入ったんでしょう」
そのサイモンの言葉に、すかさず死に体が口を挟む。
「……その緊急時に、あんたは何処に行ってたんだろうなァ。ノーランド博士」
「……貴方には関係ありませんよ。ハンプトン卿」
「また例の死体置き場にでも行ってらっしゃったのかねェ」
「死体置き場ではなく、コレクションルームです」
「……そいつァ失礼」
半分以上死んでいるくせにわざわざ人を揶揄してくるな、と言外に込めて、サイモンは不愉快げに眉をひそめた。
そして無理矢理視線を引き剥がしてリヴリーへと向き直ると、しかめた表情はそのままに、言い聞かせるような声色で告げる。
「リヴリー、髪はお友達にやってもらいなさい。先程道すがらに何人か子供の姿を見ましたから、貴方の知り合いも居るはずです」
「……ミリー? トム?」
「名前までは知りませんよ。ついでに遊んでもらってきなさい。髪を纏めるものは自分で持って行くんですよ」
「……うん。わかった」
頷くや否や、ぺたぺたと早速2階に上がっていった少年の背中を見送って、ソファーに埋もれたままの男はにやにやと笑う。それに気付いたサイモンの目がいっそう厳しさを増した。
「……何です」
「いや? 随分とまあ、父親っぷりが板に付いてきたなァと思っただけさ」
射殺さんばかりに睨み付けてくるその切れ長の目は、しかし直ぐに力を失って逸らされてしまう。
「……まあ、これは償いのようなものですからね」
独り言のように零された言葉には、もちろんロジャーは聞こえぬ振りをした。
「ところで博士。坊主は今いくつだ?」
「……確か16歳だったと思いますが」
「じゃあ、奴のお友達とやらは?」
「正確には知りませんが……7、8歳じゃないですか」
「それはまた、可愛らしいお友達なこって」
「精神年齢が近いんでしょう」
からんころん、
ドアのベルが鳴って、長い銀髪が飛び出していくのは、それから数分後のこと。
***
PM13:00。
『……―――緊急速報です。先程、反政府組織“ゲルニカ”による爆破テロが発生しました。詳しい情報はまだ入ってきていませんが、政府要人を狙ったものと見られ、既に死者も数名出ている模様です。政府は本日未明にも声明を発表すると思われますが、宿敵とも言える“ゲルニカ”に対し、どのような行動に出るかが焦点となっています。……繰り返します。先程、反政府組織“ゲルニカ”による爆破テロが――……』
からんころん、
ラジオに割って入ったのはベルの音だった。
死に物狂いで二日酔いの薬を引っ張り出して摂取したおかげで、もう大分真人間に近付いたロジャーの元に、外の光とともに現れた青年が歩み寄ってくる。小脇には、ここいらでは珍しいノートパソコンを抱えていた。
「……よォ、生きてたのか。カーマイン」
「当たり前だろ。……つーか酒くせえ」
「てっきりお前もさっきのテロに関わって死んだかと思ってたぜ」
「お生憎様。俺の専門は頭脳労働なんでね。ああいう馬鹿でもやれる事はしねーの」
「ゲルニカに被害は?」
「死者はいない。ただ、逃げ遅れた奴が数人捕まった」
「ハッ! 逃げ遅れたってか。間抜けな奴らだなァ」
「全くだね。下っ端共が先走ったおかげで、俺まで後始末に駆り出されなきゃならなくなった。こっちからすればいい迷惑だっての」
そう言って、カーマイン・グランツはロジャーが横たわるソファーから敢えて離れたカウンター席に腰掛けた。
そして早速持っていたノートパソコンを立ち上げると、指をバキバキと鳴らしながら前のめりに座り直す。
「どうするつもりだ?」
ロジャーが尋ねると、これから悪戯を仕掛けようとする少年のような笑みで、カーマインが答える。
「もちろん、クラッキングだよ」
運動をする訳でもないというのに、伸びをしたり首を回してみたりとストレッチを始めた青年を眺めながら、ロジャーは傍らの酒瓶に手を伸ばした。持ち上げるとさして重くない。じゃあこっちか、とその隣の瓶を取る。
「政府側のサーバを一時的に麻痺させる。あんまり迅速に動かれると、こっちも困るんでね」
「天才ハッカーのお手並み拝見ってところか」
「……ま、この程度なら数分で終わるけど」
言うが早いか、指先が目にも止まらぬ速さでキーボードを叩き出す。羅列される意味不明な数字や文字の数々が、いくつもの剣や槍となってセキュリティに特攻していく。
生き生きと画面に対する背中は、まるでゲームか何かに取り組んでいるかのように楽しげだった。
「……で? お前はこの後どうする」
「なにが」
「捕まった連中が、既に吐いてる可能性もあるだろう。逃げなくていいのか?」
「あー……まあ、考えてない訳じゃないけど。万が一奴らが何かしら吐いたとして、下っ端じゃ持ってる情報なんてたかが知れてるし、俺らまでは辿り着かないよ」
「安全圏って訳か」
「そういうこと。それに、捕まったら即刻死ねっていうのがうちの鉄則だから」
「笑えねえなァ」
そういえば、とカーマインが思い出したように呟く。もちろん何事か入力していく指は止まらない。
瓶の詮を抜きながら、ロジャーはおざなりに返事をした。
「悪いんだけどさ、あいつーーレングス少尉には、今回のことは俺無関係だからって伝えといてよ」
「自分で言やァいいだろう」
「そんなん言い訳する前に殺されるっつーの。あの人、政府の敵相手には見境ねーんだから」
「アシェア盾にすりゃいいんじゃねェか?」
「……それが後見人の言うことかよ」
じとりと呆れたような視線を投げかけて、カーマインは今一度、タンと強くキーボードを叩いた。
「はい、これで終了」
そう独りごちてパソコンを閉じる。
仕事がお早いこって、とロジャーが酒を呷りながら笑った。
「クラウスの奴は、今どこに居んの」
「アシェアか? 少尉達と仕事だ」
「うわ、マジかよ。二重の意味でめんどいな……。仕方ないか、また後で出直すわ」
どうやらあの少女に用があって来たらしいカーマインは、ぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜたあと、早々に椅子から立ち上がった。そして足早にドアへ向かっていく。
ロジャーは飲み干して空になった瓶を放り投げて、カーマインの名を呼んだ。立ち止まらない背中にそのまま言葉をぶつける。
「2階にゃ博士が居るぜ。会ってかねェのか」
ドアノブに手を掛けたカーマインが、首だけを捻ってロジャーを見やる。
その目には、今日会った他の誰よりも、本気の殺意が宿っていた。
「ーーーあんた、分かってて言ってんだろ」
勿論、とは口に出さず、さてどうでしょうと肩を竦めるだけに留める。
心底腹立たしそうに、カーマインは顔を顰めた。
「そんなに言うなら、じゃあ、博士に伝言でも頼むよ」
「何だ?」
「『酔っ払いのボケたおっさん見つけたら殺しといて』って」
カーマインはそのままロジャーを振り返ることもなく、ドアの向こうへと去っていった。
からんころん、
ドアのベルが揺れる。
***
PM18:00。
からんころん、
ようやく帰宅したアシェアは、店内に未だ漂うアルコール臭に溜め息をついた。
ソファーに突っ伏している男の側に屈み込むと、それからすぐに呆れたような、心配しているような、それでいて静かに怒気を湛えた表情で、男に声を掛ける。
「……ただいま、ロジャー。あのあとまたお酒飲んだの?」
「………」
「飲みすぎちゃ駄目だよって、再三言ってるよね。あたし」
「………」
「確かこの間もそんな調子で帰ってきて、やっぱり死にそうになってたよね? その時あたし、体に悪いからお酒は控えてって言ったよね?」
「………」
「ついでにロジャーがうち名義でツケまくってるせいで、返しても返しても借金が無くならないんだけどって話も、したよね?」
「………」
「何なら借金の合計額言おうか? この十年間あたしが返し続けてる分も含めて、締めて3……」
「……アシェア」
再び死人と化していたロジャーが、ようやく言葉を発する。
ぐぐぐ、とぎこちない動きで少しだけ垣間見えた黒い瞳は、ぐらぐらと揺らいでいた。恐らく現在進行形で目眩に見舞われているのだろう。
「……なんか袋、くれ」
吐きそうだ、と土気色のくせに青褪めた顔で呟く男に、アシェアはもう一度だけ深く溜め息をつく。
ちょっと待ってて、と言って一旦カフェスペースを離れてから、あのアルコールの臭いと借金を背負って時折ふらりと帰ってくる己の後見人を想った。正直頭が痛い。
社会的にアウトな感じが否めない人間ではあるが、それでもアシェアの育ての親である事は間違いない(と言うよりほとんど否が応にも育ちざるを得なかった)のだし、とりあえず健康のためにもいい加減どうやったらあの酔っ払いに禁酒させられるのだろうかと幾度目になるとも知れない思案に耽る。というか、もはや幾度とかそんなレベルではないくらいこれまで考えに考えてきたけれども、どれだけ頭を悩ませたところで未だに解決方法は見つかっていない。
思考開始三秒余りで、アシェアは再び溜め息を押し出すとともに問題をそのへんに放り投げた。結局ロジャーという男は、こちらが更生させようとしても無駄なのだ。
あとはもう、苦笑いを零すばかり。
Only god knows it/完