ロジャー・ハンプトンの場合
Q:果たして神は存在するか?
墓石の前でうずくまる小さな背中を見た瞬間に、ああ、死ぬのだなと、漠然と感じた。
ロジャーにとって悪友と言って差し支えないとある男が姿を消した日、その娘であるアシェアは日が暮れても自宅には帰ってこなかった。
同じく悪友の一人であるヒューイは残された置き手紙を読んで男の失踪を知るや否や、近所の人間に呼びかけておそらく父親を探し歩いているであろうアシェアを探しに出かけて行った。男の方は探す素振りも見せなかったあたり、ロジャーよりも付き合いの長い彼らの関係性が透けて見えるというものだ。それは諦めと言うには優しすぎたし、信頼と言うには辛すぎた。けれどもヒューイは、ただ黙って男の決断を肯定することを選んだのだろう。
その決して易くない覚悟を、あの男はいとも軽やかに周囲に強要する。気まぐれにいろんなものをすくい上げていくくせに、一方でこんなにも平気でいろんなものを放り捨てていくのだ。本人にそのつもりがないのだとしても置いて行かれた方は堪ったものではない。男がたとえ、そこに置いただけだ、捨てていないと主張しようが、たった一人取り残されて背中を見送るしかできない者にとっては、必要ないと宣告されたも同然だということを、あれはいつまで経っても理解しない。できない。
そしておそらくはその最たる被害者となってしまった娘を探すために、ロジャーもまた、重い腰を上げた。
***
結論から言えば、アシェアはちゃんと見つかった。
ただしあまり無事ではなかったが。
見つけたのはロジャーだ。
アシェアの姿は街はずれの墓地にあった。より正確に言えば、彼女が2歳の頃に亡くなった母親の墓石の前でうずくまっていたのだ。
暗闇の中、まだ生きている気配を感じた時の感慨をどう言い表せばよいのか分からない。やはり此処に来ていたか、と思ったし、どうして此処なんだ、とも思った。彼女の中で父親の失踪が母親の存在とイコールになっているというその事実が、彼女たち親子からすれば所詮部外者でしかないロジャーには、なんだか途方もなく悲劇に思えた。
ーーなァ、悪友よ。お前は本当にどうしようもないヤツだ。お前がやりたい放題するせいで、お前の娘やたらとややこしい事になってんぞ。
そしてさらにややこしい事に、見つけたアシェアは父親に置いていかれたショックのあまり、完全に心を閉ざしてしまっていた。
それはもう見事に、うんともすんとも言わない。何があったか、どうしてあそこに居たのか、誰がなにを呼びかけようがひとつも答えず、飯も食わず、水も飲まず、唯一自発的にすることと言えば涙を流すことくらい、という徹底ぶりだ。それはもはや泣いているというより、本当に、ただただ涙を排出するだけの機械のようだった。
そんな状態で数日。ヒューイが心配のあまり胃の痛みを訴え出した頃、あまりに泣きすぎたのか、今度はぱたりと泣かなくなった。
そうするといよいよ何もしない、動かない。ベッドの上で毛布に包まりながら、虚空を見つめていつも何かを探していた。時折動く唇は父さん、とかすかに紡ぐけれど、音にはならない。何か食べろと言っても、飲めと言っても、微塵とて反応は返らなかった。
壊れてしまったのかもしれない、とも思う。父親の置き手紙にどう書いてあろうと、アシェアは今父親から置いて行かれたという事実を『捨てられた』と認識しているだろう。だからこそ真っ先に母親の墓へ向かい、父親を奪った相手に憎悪を吐き出していたのだ。
その思考回路の、どこが正常だ。アシェアは壊れている。ずっと前から掛け違えていた歯車が、ここに来て決定的に歪んでしまった。今あの子どもにとって必要なのは、父親が今どこで何をしていて、いつ帰ってくるか、そして父親が向けてくれる言葉と笑顔、そういうものだけだ。それを与えてくれない世界なんてきっと不要なのだろう。だから何も応えない。口にしない。
その姿はさながら、神という絶対的な信仰の対象を失った、宗教家のようにも見えた。
神の消失は言わばアイデンティティの消失と言っても過言ではない。父親という神が居なくなってしまったアシェアは、今まさに自分を構成する柱を失って揺らいでいるのだ。
そして改めて思う。
ああ、死ぬのだなと。
このまま行けばそう遠くない内に、アシェアは弱って死ぬだろう。
今でこそまだ生きてはいるが、体は生きていても心が死に体だ。心が死ねば、やがて体が腐り、存在が死ぬ。そうやってただ死んでいくだけの少女を、ロジャーは見守ることしかできない。
ーーーいや、果たして本当にそうか?
ベッドの上で丸くなるその小さな背中を凝視する。
少し本気を出せば拳ひとつで粉々に砕けそうな華奢な体が、なぜかその時、似ても似つかないあの男の背中と重なった気がした。
「……アシェア」
呼びかけに応えはない。
この親子は全く、揃いも揃って。
「父親に、会いてェか」
人を振り回すだけ振り回して、結局突き放す悪癖ばかり似やがって。
そう思いながらも付き合い続けてきた年月が、何を言えばアシェアが息を吹き返すのかを囁いてくる。それが正しいのか、間違っているのか、問い掛ける声も聞こえなくはないけれど、ああ、そんなもの、もうどうだっていい。
「ーーー探す方法なら、あるぜ」
***
あれから、10年。
当時ロジャーの腰元あたりまでしかなかったアシェアの背は、今は肩くらいまでには成長した。最近ますます母親に似てきた、とヒューイがよく眦を下げているのを見るが、ロジャーとしてはあのやたらとぐりぐりしたつり目気味の双眸が父親を思い起こさせるので、早いところシワシワの婆さんになって目の印象を潰してもらいたいと思っている。
アシェアは現在、父親の残した喫茶店を運営する傍ら、何でも屋をやっている。
それと言うのも、ロジャーが教えた父親を探す方法というのが他でもない、『何でも屋になること』だったからだ。
普通のどこにでもいる男なら何でも屋になったところで探すためのアドバンテージにはならないだろうが、アシェアの父親は普通ではない。少なくとも、喫茶店の店主をやりながら趣味で何でも屋を自称してありとあらゆる事に頭を突っ込み、オモテの人間からウラ社会のやばいやつまでいろんな”オトモダチ”がいる男を世間一般では普通とは呼ばない。
そんな普通ではない男を探すためには、探す方もまた普通ではない領域に足を踏み入れる必要がある。仕事さえ選ばなければどんな奴とでも関わることができる何でも屋という職業は、父親の足跡を辿るのにうってつけだった。
アシェアは、恐らく必死だっただろう。
学校に通っていた頃から喫茶店を切り盛りし、卒業とともに何でも屋を始め、あの小さく細い体でもう10年も踏ん張り続けている。
何でも屋の仕事は近所の猫探しなどの平和なものばかりではない。中には正直真っ黒な依頼もある。ただそういう真っ黒な依頼人ほど、父親の情報を持っていそうなのだからろくでもない。
所詮は仮初めにしか過ぎない偶像崇拝だと分かっている。18の少女をこんな危険に晒し、それで本当に父親の行方を明らかに出来るのか、知れたものではない。現にアシェアが何でも屋を始めてから三年ほど経つが、集まった父親の情報は僅かばかりだ。
しかし、今はそれだけがアシェアにとって生きる希望なのだという事もまた、間違いではなかった。
父親を捜し、もう一度会う。神の不在が続く世界で、それだけが生命活動を維持する理由で、意味なのだろう。
分かっていた。だから、与えた。
あの弱い子どもが生きていくために、決して揺らがぬ信仰の対象を。
ーーーこれは、果たして罪だろうか。
しかしこれ以外にあの時アシェアを生かす方法があったのなら、どうか教えてくれやしないかと、今日も酒を煽りながらロジャーは思う。
A:「神はいない」
(神は人間の創造物)