アシェア・クラウスの場合
Q:果たして神は存在するか?
『クレイジーだ、アシェア!』
これが、父さんの口癖だった。
車に引かれてもクレイジー。ガムを踏んづけてもクレイジー。皿を割ってもクレイジー。挙げ句の果てにはボールが転がってもクレイジー。
子どもながらに、この人はちゃんと言葉の意味を分かって使用しているんだろうか、と首を傾げた記憶がある。
でも、父さんの言うそれを聞くのが、あたしは大好きだった。
近所の子に意地悪をされて全身泥だらけで帰った時も、父さんはげらげら笑って、クレイジーだ!と言ってくれた。それがなんだかうれしくて、あたしもつられて笑う。父さんの言葉はいつだってまるで魔法だった。
一度、訊いたことがある。クレイジーってなんなの?って。
そうしたら、父さんはにいっと笑って言った。『クレイジーってのはな、最高にかっこいい、ってことなんだよ』と。
ボールが転がるのもかっこいいの?と訊いたら、ああ、最高にクレイジーだな、と父さんがまた笑った。それが可笑しくて、それじゃあ父さんもクレイジーだね、と言うと、そりゃあそうさ!と胸を張ってから、アシェアも俺に匹敵するくらいクレイジーだぜ、とあたしをぎゅうぎゅう抱きしめながら言ってくれた。
クレイジー。
それは、父さんがくれる魔法の言葉。
その言葉さえあれば、あたしはいつでも笑顔になれると信じていた。
あの時までは。
***
「……父さん?」
学校から帰ると、喫茶クレイジーセブンはめずらしくひっそりと静まり返っていた。
ドアには準備中の札が掛かっている。でも、店内に父さんの姿はなかった。
奥の小さなキッチンスペースに進んで、父さん、と呼んでみる。応答はない。
居住スペースになっている二階へ上がり、リビングを覗いた。父さん。また呼ぶ。そこにも、気配はなかった。
ふと、リビングのローテーブルに紙が置いてあるのが目に入った。
不審に思って手を伸ばす。少し角張っていて、大きめの字。父さんの字だった。
そこにはこう書かれていた。
『俺の可愛い娘、アシェアへ
おかえり。学校は楽しかったか?
急な話で悪いが、実は父さんは遠くへ行かなきゃならなくなった。
いつ帰れるかはわからない。明日かもしれないし、十年後かもしれないし、五十年後かもしれない。わからないが、とにかく俺は行かなきゃならない。
一緒に連れて行けなくてごめんな。もっと早くに伝えてやれなくてごめん。謝らなきゃいけない事はごまんとあるが、それは帰ったらいくらでも言うから、今はどうか許してくれ。
お前のことはロジャーに任すつもりだけど、あいつ信用出来ないから、ひとりで何でもできるようになれよ。
ちゃんとメシも食うんだぞ。掃除も、洗濯も、忘れちゃ駄目だぞ。ひとりでも泣くなよ。お前ならきっと大丈夫だ。だってお前は、最高にクレイジーな男の、最高にクレイジーな娘なんだから!
アシェア、父さんは必ずお前のところへ帰ってくる。
それまでしばらくさよならだ。どうか元気でな。
じゃあ、いってきます』
ぱさり。紙が手から滑り落ちた。
うそ。声が出なかった。
うそ、うそ。頭がぐちゃぐちゃして、よくわからない。
……でも、行かなきゃ。そう思った。
追いかけなきゃ。
足がもつれそうになりながらも、走り出す。
うるさいくらいに音をたてながら階段を駆け下りた。店内をすり抜けて外へ出る。街をひたすら走って、父さん、と叫んだ。似た後ろ姿のひとは片っ端から捕まえた。父さん。父さん。声の限りに呼んだ。無我夢中だった。
空は、次第に暮れていった。
今、何時だろう。
足が動かなくなった頃、あたしは街はずれの墓地に立っていた。辺りは、もうすっかり夜の闇に包まれていた。
どれだけ捜しても、父さんの姿は見つからない。街の中も、建物の中も、行けるところは全部行った。それでもいない。いなかった。
あの紙には、遠くへ行くと書いてあった。
(遠くって、どこなの)
紙には、いつ帰るかわからない、と書いてあった。
(じゃあせめて、なんで直接言ってくれなかったの)
紙には、ひとりでも泣くなよ、と書いてあった。
(それならどうして、ずっと一緒にいてくれなかったの)
ねえ、父さん。
どうしてあたしを。
「……あたしを、置いていったの。父さん……」
誰でもいい。
たすけてほしかった。
父さんをかえしてほしかった。
ここに連れてきてほしかった。
お願い。神さま。
もしもいるなら、どうか神さま。
あたしから父さんを奪わないで。父さんをかえして。どこにも行かせないで。ひとりはいや。ひとりは怖い。たすけて神さま。たすけて、たすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけ、
ーーー足元の墓標が、目に入った。
そこに刻まれた、ひとつの名前。
「なんで、いつも奪っていくの……!!」
ぽたり、と目から水滴が溢れた。
ふらふらと地面に座り込む。もう立っている気力も、声を出す力もなかった。ぽたり、ぽた。止まらずに、涙はずっと溢れ続ける。
父さん。
読んだはずの声はうまく音にならなかった。父さん。父さん。父さん。呼んだら呼んだ分だけ、頭の中で父さんが笑った。それは、いつもあたしにクレイジーだ!と言ってくれた大好きなあの笑顔だったのに、あたしはもう、このまま一生笑うことなんて出来ないと、思った。
A:「神様なんていない」
(あんなに助けを求めたのに返事すらくれなかった)