第三夜
元暗殺者の話
こんな夢をみた。
けたたましく鳴り響くサイレン。
ドアを隔てた向こう側では、ばたばたと慌てふためく人々の気配がする。
ーーー侵入者というのは貴方ですか
相対した男は、パニックに近い周囲には我関せずといった様子で、妙に落ち着き払っていた。
ーーー暗殺者風情がよくこんな所まで入り込めたものですね。称賛に値しますよ。……で、目的は私の命ですか?
その問いに答えないまま、相棒であるナイフを手に一気に距離を詰める。
いつの間にか男の懐から引き抜かれていた拳銃が、あたしの眉間に照準を合わせるのが見えた。
銃声が響く。
横に跳んで弾を避けたあたしの姿を見て、男は至極厭そうな顔をした。
ーーーああ……あまり派手に動き回らないで下さい。此処には貴重な資料がごまんと保管されているんだ。万が一にも撃ち損じて、それらが破損してしまったらどうするんです
男が嘆いた直後、ダウンしたシステムが復旧したのか、あるいは緊急用の通信なのか、突如として別の人間の声が割り込んだ。
ーーー室長! 実験体達の姿が見えません! この混乱に乗じて脱走した可能性がっ……!
その報告を聞いて、男が徐にこちらを向く。
その狐のような目が射抜くように細められた。
ーーー目的はそれか
苛ついたように溜め息を吐くと、男は構えていた銃を下ろし、背後にあるパネルに手を伸ばす。
ーーーそれなら、貴方に使っている時間はない
暗転。
場面が切り替わる。
体はぼろぼろだった。
全身傷だらけで、かろうじて落ち延びている。
依頼人のグループとは予め落ち合う場所を決めていた。ようやく辿り着けば、そこには大勢の脱出者とおぼしき人々の姿。
ーーーブラックウィドー! 無事だったか
今回の作戦指揮を担っていたメイヨーという男が厳めしい顔付きのまま近付いてくる。
ーーーノーランドはどうなった
首を横に振る。
するとメイヨーは大きく息を吐いて、こめかみに手をやった。
ーーーメイヨーさん!
その彼に、部下らしき若い男が慌てた様子で駆け寄ってくる。
ーーーどうした
ーーーガルシアさんのお孫さんが……!
その若い男が抱えていたのは、10を少し過ぎたくらいの子どもだった。うつろで、死人のような目をしている。
ーーーグランツ老は何処だ? 一緒じゃないのか
ーーーそれが……
言い淀む男の様子だけで察したらしい、メイヨーが尋ねる。
ーーー殺されたのか
若い男は答えなかった。というより、言葉が詰まって答えられない様子だった。
その代わりに、抱えられた子どもが唇を震わせ、低く唸り、呟く。
ーーー……して、やる
それは弱々しくも、どろどろと粘りけのある声だった。
ーーーいつか、絶対に、復讐してやる
握り締められた子どもの小さな拳から、ぽつりぽつりと血が滴り、若い男の衣服に滲んでいく。
メイヨーは眉をひそめると、若い男に子どもを連れていくように言い付けた。おそらく手当てでもさせるのだろう。
連れ出される子どもの後ろ姿を見ながら、メイヨーが独りごちた。
ーーー……絶対に助けると大口を叩いておきながら、これか
声は平坦だったが、視線を下げれば、かたく握った拳があの子どもに負けず劣らず震えている。
聞かせるつもりで言ったのではないだろうと分かっていたので、ただじっと後ろで控えていれば、メイヨーは一度大きく深呼吸してから再びこちらに振り向いた。
ーーー……過ぎた事をどうこう言っても仕方がないな。貴様も早く手当てしてこい、酷い怪我だぞ
それでも動かずにいると、不審に思ったのか、念を押すように告げる。
ーーー安心しろ、金なら後日お前のボスに支払っておく。今回の依頼はあくまで施設内部を混乱させ、仲間の脱出をサポートする事だ。ノーランドの暗殺はついでに過ぎない。貴様が咎められる事もないだろう
それから、どこか決まりの悪そうな表情で。
ーーーファントムはそういう事を嫌がるからな。貴様のボスにもよく言い含めるはずだ
暗転。
再び、場面が切り替わる。
ーーーおかえりなさい、ブラックウィドー……私の可愛いメルティナ
ーーー……ただ今戻りました
ーーー聞いたわよ。ノーランド博士を仕損じたそうね?
きらびやかな細工の施された豪奢なデスクの向こう、艶かしく微笑む女が問うてきた。
この女があたしのボス。あたしを拾い、暗殺者に育て上げた女。
あたしを拾ってからもう随分経つはずなのに、彼女の容貌は未だに若く美しいままだ。
ーーーあなたなら、勿論もう分かっていると思うけれど
ーーーはい
ーーー私は『完璧な仕事』しか認めないの
だから、と紡ぐ唇は真っ赤なルージュで彩られ、その白い歯は時に男の喉笛を噛みちぎることを知っている。
緊張で、喉仏がひやりと震えた。
ーーー二度目はないと思いなさい
思わず、目を見張って女の顔をまじまじと見つめる。
その様子がお気に召したのか、彼女はくすくすと可笑しげに肩を揺らした。
ーーー依頼人のご意向よ。今回は特別にお咎めなし。他に示しがつかないと言ったのだけれど……ああまで言われたら従うしかないものね
任務の失敗は、本来死に直結する。
ノーランドを殺し損ねた事は直接依頼内容に背くことではなかったが、完璧を旨とする彼女には正直消されても仕方がないと思っていた。
が、どうやら、生き延びたらしい。
”ファントムはそういう事を嫌がるからな”
ファントム。あの組織のボスらしき人物。
メイヨーの言う通り、本当に彼女に掛け合ったらしい。この女が自身の完璧主義を脇に置いてまで従うだなんて、一体なにを言ったのか。
どんな奴だろう。
ほんの少しだけ、興味が湧いた。
***
目の前では、眼鏡の男が居住スペースのリビングのソファに腰掛けて、優雅に紅茶を啜りながら読書に勤しんでいる。
「ノーランド」
「何ですかオカマ。今読書中なので話しかけないでください」
「……あんた、ぶっちゃけ覚えてるわけ?」
男はふと視線を上げると、対面のソファに座したあたしを一瞥した。
「何の話です?」
「あたしがあんたを殺そうとしたことよ」
今朝方見た夢のおかげで、あの日の出来事が頭にこびりついて離れない。
夢なので細かいことは憶えていないが、あれは確かにあたし自身の過去の記憶だったように思う。
かつてとある組織の依頼を受け、政府管轄の研究所に侵入した。そしてその責任者を襲撃し、殺し損なったのだ。
目の前のこの男、サイモン・ノーランドを。
「私が? 貴方に?」
男は訝しげにあたしを凝視したまま数秒考えるそぶりを見せ、視線を落としてからまたしばらく思案している様子だった。
「……覚えがありませんね」
「ないのかよ!!」
思わず奴の飲みさしの紅茶をぶっかけそうになった。奴の表情にふざけたりだとかそういう色がなく、本気だったので殊更。
こちらは初めて顔を合わせた時からあの時仕損じた狐目男だと気付いていたというのに、こいつは全く、ちらりとも覚えていなかった訳か。
「自分を殺しに来た人間の顔なんていちいち覚えていませんよ」
「……あんたそんなにしょっちゅう殺されかかってたわけ?」
「そういう訳ではありませんが。というかそもそもあの頃他者の顔や名前を覚えるという習慣がなかったので」
部下も?と問うと、覚える必要あります?と返ってくる。こいつやっぱ死んだ方がいい。
溜め息を吐いて、席を立つ。
この話は終わりだ。夢が見せた記憶につられてこんな話題を出してしまったが、今更聞いたところで詮無いことだった。この男が覚えていようといなかろうと、あの時あたしがこいつを殺せなかったことは事実だし、こいつと圧倒的にそりが合わないことも変わらないのだ。
コーヒーでも飲もう。そしてなんかむかつくこの気持ちと一緒に飲み下してしまおう。
そうしてキッチンへ向かってコーヒーサーバーに手をかけようとしたところで、ふとその手を止めた。
何だろう。
何かを、忘れている気がする。
あの夢の中に、誰かもう一人、どこか見覚えのある人間がいたような……
けれど結局、夢は夢のまま、記憶から霧散していく。