第二夜
ハッカーの青年の話
こんな夢をみた。
俺は、べたべたする頬をこすりながら俯いている。
目の前には真っ赤に揺らめく水溜まりと、その中央に浮かぶなにか。
小さなそのなにかには頭部があり、胴体があり、手足のようなものがあったので、おそらく人形かなにかなのだろう。腹のあたりにぽっかりと穴が開き、水面が風に揺れるのにあわせて、赤い水がその穴から出たり入ったりしている。
ふと、頭上がいやに眩しくなったので妙に思って顔を上げれば、そこには太陽が立っていた。
ーーーまーためそめそしてやがんのか、カーマイン!
太陽は、頭らしきものがぴかぴかと眩しいだけで、首から下は普通の人間だった。均整の取れた健康的な体つきをしている。声色も含めて、おそらく男。
その太陽はよっこらせ、と年寄りくさく呟くと、勝手に俺の隣に腰を下ろして、ぐっと人の顔を無粋に覗き込んできた。ぴかぴか光が目に刺さってまぶしい。
ーーーめそめそなんか、してねーよ
ーーーそうか? ならいいけど
太陽は存外あっさり引き下がって、思い出したように自らの全身をぺたぺたとまさぐりだした。何かを探しているらしい。
好都合なので、俺はその隙に着ていたシャツをたくし上げるようにしてべたつく頰をめいいっぱい拭う。痛みを感じるくらいにそれを繰り返すと、少しはべたべたがマシになった。
ーーーあ、あったあった。ほらっ、これでも見て元気出せ! カーマイン
ーーーだから泣いてな……って、なにこれ
ーーーふっふっふ、可愛いだろ! 俺の愛する妻と娘だ!
太陽が心臓のあたりに手を突っ込んで取り出したのは、金の長い髪をした綺麗な女の人と、その腕の中に収まった赤ん坊が写った、少しくたびれた写真だった。
太陽いわく、それは太陽の妻と娘の写真であるらしい。
はじめて見た。
話を聞かされたことなら何度かある。太陽の妻は何年も前に死んでしまったことや、娘は俺と歳が近いということ。いかに妻が素晴らしく、娘が愛らしいかということ。
それを語る太陽は、いつも嬉しそうだった。もしかしたら、祖父のことを語る自分もこういう顔をしているのかもしれない、と話を聞く度に思った。
ーーーなあ、カーマイン
ーーーなに
ーーー泣きたきゃ好きなだけ泣いてもいいけどよ
ーーーだから泣いてねーって!
伸びてきた手のひらが、分かってるとでも言いたげに力強く俺の頭を撫でる。
太陽に目はないはずなのに、なんとなく、今その目はやさしく細められているような気がした。
ーーー前でも、上でも、横でも、なんなら後ろでも下でも良い。どこを向いてたって良いんだ。とりあえず歩け。今は、止まるなよ
ーーー……後ろ向きじゃダメじゃん
ーーー駄目じゃねえさ。今のお前には歩くことに意味がある
頭を撫でていた太陽の手が離れて、俺の目の前にある赤い水溜まりを指差す。正確には、その中央に浮かぶ人形を。
ーーーそして、”あれ”をお前が歩くための力にしろ
ーーー……ちから?
ーーーそうだ。で、俺の歩くための力は、妻と娘だ!
さっきの写真はここに繋がってくるらしい。太陽は先ほどの写真を俺の顔面に貼り付けんばかりにぐいぐい突き出してくる。分かった。あんたが妻と娘大好きなのは分かったから。
一頻り自慢し終えて満足したのか、太陽は写真を心臓にしまうと、いきなり俺の両脇に手を差し込んで俺を抱えたまま一気に立ち上がった。
両足がぶらりと浮いて、太陽と同じ目線の高さになる。
相変わらずぴかぴか眩しい太陽の頭部は、なんだか時折ぐんにゃりと歪んで、笑い皺を刻んだつり目がちな目元が陽炎のようにちらつく。
俺はこの目を知っている。
このひとを、知っている。
ーーーカーマイン、お前は何がしたい?
尋ねる声色は明るく、やさしく、今晩の献立を伺い立てるような軽やかさだ。
それなのになぜか、俺は目頭が急激に熱をもつのを感じた。
ーーー俺は………ふくしゅう、したい
ーーー復讐か
ーーー……『あいつ』の腹に穴を開けて、街中を引き摺り回して、首を捻切って、晒し者にして、最後は面影が残らないくらいにぐちゃぐちゃに潰してやりたい。こいつは悪魔だ、こいつのせいでじいちゃんは死んだんだって、大勢の前でその死体をばらまいて叫んでやりたい
赤い水溜まりの中で動かない人形。
胴体に空いた穴。
穴を出入りする赤い水。
突きつけられた拳銃。
倒れ伏した背中。
流れていく血。
硝煙のにおい。
つめたい双眸。
ーーーそうか
ーーーでもその前に……まず、奪ってやるんだ
思い出した。
あれはじいちゃんだ。
あの赤い海に沈んでいく人形は。
体が震える。
恐怖でも、悲しみでもなく、怒りで、体ががたがたと震えて仕方がなかった。
そうだ。だから誓ったのだ、あの時に。
奪ってやろう、必ず。
『あいつ』から、
ーーー『あいつ』の一番大切な人間を、あいつの目の前で、ぶっ壊してやるんだ
俺がそうされたみたいに、『あいつ』にも、俺とおんなじ思いを、味わわせてやる。
そう言うと、太陽はただ、ふっと微笑んだ。
いつもの目が潰れるほどまぶしい笑みではない、年相応の、穏やかな笑みだった。
太陽はそのまま、俺をぎゅう、と強く抱きしめてくる。
だから俺も、同じくらいの思いで抱きしめ返した。
堪えたはずの涙が勝手に溢れだしてきたが、太陽はそれに対してもう何も言わなかった。ゆるされている。そう思った。
ーーーそうだな。なら、そうしよう
***
ふわりと、体がぬくもる感じがする。
「……あ、ごめん。起こしちゃった?」
瞼を押し上げれば、傍らに立っていたのはあの太陽ではなく、金髪の少女ーーアシェアだった。
唸りながら目をこすって辺りを見渡すと、そこは最近になって見慣れてきた喫茶クレイジーセブンの二階にある住居スペースで、確か自分はアシェアに用があって訪れて、それで。
そうしてはじめて、どうやら知らないうちにソファーで寝入ってしまっていたらしいことに思い至った。壁に掛けられた時計に視線を走らせれば、時は夕刻。まだそれほど経ってはいない。
「なんか珍しいね、カーマインがうとうとしてるなんて。初めて見たかも」
「あー……昨日、遅くまでプログラム作ってたから」
言えば途端に、まーた悪いこと企んでるの?とアシェアが胡乱げな目をして尋ねてくる。
もちろん答える訳がないので、大きく伸びをしながら体を起こすと、体の上になにかが乗っていることに気付いた。ブランケットだ。
「……これ、おまえが?」
「ブランケット? そうだよ。結局起こしちゃったから余計な御世話になっちゃったけど」
苦笑しながら起こしてごめんねと謝ってくるアシェアのそのつり目がちな目元を、じっと見つめる。
これによく似ただれかを、俺は知っていた。
そのひとは俺に歩く必要性を説き、同時に俺の歩く意味を明らかにしてくれた。
「……なあ」
「うん?」
「おまえさあ」
夢の中の太陽の光で意識まで眩んだのか、知らず知らず、口から言葉が滑り出す。
「親父さん見つかったら、何がしたい?」
口にして、数瞬おいてから、ハッとした。
すぐさま発言を取り消そうとしたが、予想に反して、アシェアはただ驚いたように瞬きをしてみせただけだった。
そうして考えるように少し視線を落とし、微笑む。
「……抱きしめたい、かな」
ぽつんと落とされたその呟きは、思っていた以上にささやかだった。
「……それだけ?」
「うん」
「……ふうん」
それだけ、か。
もう一度繰り返して、アシェアを見やる。
うん、それだけ、と再び返す彼女の言葉に、どうやら嘘はないようだった。
あれだけ父親に固執している様子を見せていたから、もっと他に求めるものがあるのかと思っていたけれど。そうか。それだけか。
たったそれだけのために、こいつは十年間、すべてを捧げて生きてきたのか。
父親を再び抱きしめる、そのためだけに。
「……俺、ちょっと出てくるわ」
「えっ、夕飯は?」
「食ってく。出来たら連絡して」
「わかった……あ、今日これから天気崩れるかもしれないってラジオで言ってたから、一応傘持ってって」
おもむろに立ち上がり、一階に通じる階段へ足を向けると、背中にそんなセリフがぶつけられた。母親かよ。
振り返るとほぼ同時にアシェアが横を通り過ぎ、靴置きの脇にまとめられた傘の中から早速淡い水色の傘を取り出している。
「……なあ、」
「うん?」
「これ独り言なんだけど」
「は?」
振り向いた金髪が、差し込む夕日を弾いてぴかぴかと光る。
夢の中の太陽が、それに重なる。
「……叶うといいな。その願い」
かつて、『あの男』を、人生のすべてをかけて呪った幼い自分の願いと。
十年もの間、たったひとつにすがって生きてきたこいつの願い。
一体何が違うと言うんだろう。どこも違わない。
違わないんだ。
傘を受け取って階段を降りていくその後ろで、ありがとうと一言、うれしそうな、照れくさそうな、それでいてどこかかなしそうな、消え入りそうな声がした。
階段を降りきってから、俺は一度強く目を瞑って、ゆっくりと押し開く。
裏口まで歩み寄りドアノブに手を掛ける。
開いたドアの向こうの空気は、すでに雨の気配をまとっていた。
ーーーカーマイン、お前は何がしたい?
なあ、俺の太陽。
願うのは、いつだって、誰だって自由だろう?
例えその願いが、誰かの願いを潰しても。