ひとりぼっちの蟻
リヴリーとアシェア
午後の温さにまどろんでいる。リヴリーはひとりバルコニーの端で小さく丸まりながら、ぽかぽかと降り注ぐ太陽の光を受けてうつらうつらしていた。
耳をすますと、わずかに遠くからゆったりとしたカフェミュージックが聞こえ、ドアベルがからんころんと軽やかに鳴る音が聞こえ、客と談笑しているのだろうアシェアの声が聞こえる。それに加えてのこの陽気。眠気に抗う方が、愚かというものだろう。
「ーーそんなところで寝ていたら、風邪をひくわ」
ぼんやりする頭で顔を上げると、見たことのない、きれいな女性が微笑んでいた。リヴリーと同じ銀の長い髪がきらきらと陽光を反射している。
その人があんまりやさしくリヴリーの頭をなでるので、ますます眠気は勢いを増す。でも、そうだな、カゼひいたら、アシェアたち心配するかな。うつらうつら、ぼやけた思考に浮かんだいくつかの顔。目の前の女性は、微笑んだままだった。
「もう子どもではないのだから、ほら、起きなさい」
「……ん」
「……ふふ、相変わらず甘えん坊さんねえ」
起きなさい、と言うくせに、なでる手のひらは否応なしに眠ってしまえと囁いている。この手を、知っているかもしれない。リヴリーは思う。この声も、微笑んだ表情も、彼は知らない。けれど、この手だけは知っているかもしれないと、思う。
「いい天気ねえ」
「ん……」
「幸せ、ね」
「……ん」
「いつまでも、そうね、出来るなら本当にいつまでも、こんな風に過ごしていてほしいわ、あなたには」
シアワセって、何なのかな。その言葉の意味がリヴリーにはよく分からなかった。けれど、きっと良い意味なのだろう。こんなにも穏やかに紡がれる言葉だ。きっとずっとやさしい意味だ。それなら、と口を開く。眠気のせいでやたらと重く、動きが鈍い。
「いっしょ、に」
それだけ言うのが精いっぱいだった。瞼はもう半分以上降りてしまっているので、女性がどんな表情をしているのかは分からない。感じるのは、手のぬくもりだけ。
「そうね、一緒に」
忘れている、だけなのかな。きっと、忘れてなくしてどこかに行ってしまったいろいろなものの中に、この人がいるのかもしれないな。ごめんなさい、とリヴリーは動かない口の代わりに心の中で呟いた。忘れてしまって、ごめんなさい。何故か謝らなければいけない気がした。ぴたりと、なでる手のひらが止まる。
「……ねえ、あなたは今、幸せ?」
「………」
「幸せ、なのかしら」
眠くて口を開くのが億劫なのと、言葉の意味が分からなくて困ってしまっているのが半々。シアワセって、何なんだろうな。リヴリーはまた思った。けれど、その言葉を聞いていて真っ先に思い浮かぶのは、大好きなあの人たちの姿だった。
ーーアシェアが笑っている。サイモンが笑っている。メルは、怒っている。でも、最後にはみんな笑顔だ。
これが、シアワセなのかな。忘れる前の自分は、シアワセが何なのか知っていたのかな。思うことはいくつもあった。ただ、リヴリーの中にその答えはない、それだけだった。
「……シアワセ、だよ」
重たかった口元が嘘のように、するんと言葉がこぼれていた。
言うと、鼻の奥がつんとして、閉じかけた瞼の中がじくりじくりと熱くなる。なんだろう、これ。もしかして、カゼ、ひいたのかな。リヴリーは内心首を傾げながら、一層小さく丸まった。
女性は、心底うれしそうに、よかった、と呟き返すだけ。それから、また一つなでられる。その手のやさしさがあんまり懐かしくて、ついには完全に瞼を閉じた。
伝わった、かな。
本当に言いたい言葉は、するんと容易くこぼれてはくれないから。どうかそのままの形で、伝わっているといいな。
ーーあなたも、いっしょがいいよ、って。
「………リヴリー? リヴリーってば、ほら起きて!」
大きな声が降ってきて、リヴリーはようやく瞼を押し上げた。
すると、真っ先にぽかぽかとした太陽の光が飛び込んできて、それから同じくらい輝くくすんだ金の髪が揺れているのが見えた。アシェアだ。かすれた声でそう言えば、そうだよアシェアだよ、と半ば呆れたように返される。
「もう、こんなとこで寝たら風邪ひくでしょ? せめて中で寝なさい!」
「……お店……どうしたの、なんでここにいるの」
「今はちょっと空いてるから、メルに少しの間任せてあるの。それで様子見に来たらこれだもん、全く…」
「ごめんなさい」
「謝るくらいなら最初から寝ないの。ほら、立って」
「……あのね、」
「え?」
「おれ、ゆめ、みてたよ」
立ち上がらせようと腕を掴んだアシェアは、きょとんと首を傾げている。掴まれた腕、その触れた手のひらをぎゅっと握った。似ている。やさしくて、やさしくて、リヴリーは何度だってこの手を大好きだと思う。
ーーきっと、夢を見ていたのだ。午後のまどろみが見せた束の間の夢だ。よく考えたら、知らない人間が家の奥にあたるバルコニーなどにいるはずがない。
「……夢?」
「うん」
「……ええっと、いい夢だった?」
「うん、たぶん、いいゆめ」
「そっか」
「うん」
「………リヴリー、泣いてるの?」
「……ナイテルって、なに?」
答える代わりに、アシェアはそっとリヴリーの目元に触れた。そこをなでるように掬うと、ほんの僅かに指先が濡れたのが分かる。ほら、泣いてる、とアシェアが苦笑した。
「ナイテルって、なに」
「悲しいことがあったりして、目から涙っていう水が出てくること」
「おれ、かなしくないよ」
「うれしいことがあっても泣くことはあるよ」
「……うれしくも、ないよ」
「そうなの?」
掴まれた腕が離れて、小さくなっているリヴリーと目線を合わせるようにアシェアが屈み込んだ。リヴリーは、その華奢な体に腕を回してしがみつく。まるで子供が母親にするそれのような、幼い抱擁だった。そのくせ力は一人前で、ぎゅうぎゅうと容赦なく締め付けてくる。けれど、アシェアは文句ひとつ言わない。ただじっと、それを受け止めて、抱きしめ返してくれる。
「……シアワセ、」
「ん?」
「シアワセだと、ナク?」
「……そう、だねえ、泣くかもしれないね」
「……それなら、おれ、やっぱりシアワセだ」
シアワセって、すごくやさしいものなんだな。やさしくて、やさしくて、とてもとてもあったかい。けれど、ほんの少しだけ、さびしい。
また鼻の奥がつんとして目が熱くなるあの感覚がして、リヴリーはアシェアの腹に顔をうずめた。あやすように背中をなでてくれるその手のひらは、やっぱり夢の中のあの手のひらに似ている。
きっと、知っているのだ。あの手も、声も、表情だって、知っているはずなのだ。けれど、よかった、と呟いたあの言葉に詰め込まれたいろいろを、リヴリーには知る術がない。
思い出さなくていいよ、また新しく覚えればいいよと、アシェアは言った。それで良いと思った。ただ、ほんの少しさびしいだけなのだ。やさしく頭をなでてくれたあの人を忘れてしまっている事が、ただ、さびしい、それだけなのだ。
「……おかあ、さん……」
こぼれて消えていったその言葉の意味を、リヴリーは、やはり知らない。
ひとりぼっちの蟻
(ねえ、さびしいよ)