天国への道のりを知らない天使
アシェアとサイモン
例えば、ふたり手を繋いで帰った道。
「なあアシェア、今日は何食いたい?」
「なんでもいいの?」
「おう、当たり前だ!」
「じゃあねえ……ハンバーグ!」
「え?!」
「……だめだった?」
「いやっ、そ、そんな訳ねえって! ……よし、俺がすげえ旨いハンバーグ作ってやるから、楽しみにしてろ!」
繋いだ手が一際強く握られて、夕暮れであかく染まった横顔がきらきらと笑う。
帰りついたあと、食卓に並んだハンバーグは真っ黒に焦げていてとても食べれたものじゃなかったけれど、それでもあたしは笑って食べた。おいしいって、下手くそな笑顔を浮かべながら。
料理なんててんで出来ないあの人が、そのくせ時々、あたしの好きなものを作ってくれるその意味を知っていた。あの人に代わって小さい頃から家事をやるのが当たり前だったあたしへの、ごめんなっていう気持ち。ありがとうの気持ち。
それをわかっていて、焦げたハンバーグを不味く感じるはずがない。
「やっぱ、アシェアの料理のが旨いよなあ」
あたしの料理だって、最初はこんなだったよ。それをおいしいって笑って食べてくれたのは、紛れもない、あなただったよ。
例えば、暗くなるまで乗っていたブランコ。
「おりゃっ!」
「ぎゃああああっ!」
「あー惜しい! あとちょっとで一回転しそうだったのに」
「あああ危ないじゃん! 今すごいこわかったよ!」
「大丈夫大丈夫! 落ちても俺が受け止めてやっから!」
「そういう問題じゃないってばあ!」
時々そういう無茶なことをやり出すのをわかっていて、なのに背を預けてしまう。
本当は、ふわっと一瞬宙に浮く感覚が、少しだけ、ほんの少しだけ、好きだった。けれどそれを言ってしまえば際限なく一回転にトライさせられそうだったから、いつも渋々付き合ってあげているんだという風を装っていた。きっと、あの人は気付いていただろうけれど。
「アシェア! 俺の背中も押してくれよ!」
「……あたしが押すより、足で地面蹴った方がゆれると思うよ?」
「いーや、俺はアシェアにやってもらいたいんだ。ほら、早く早く!」
急かされて、広くて大きくてぶ厚い背中を押す。なのにやっぱりあたしの小さい手のひらではあの人の背中は動かない。ブランコも、さして揺れない。
それでもあの人は笑ってみせた。楽しいなあアシェア! そう言って。
「……うん。楽しい!」
あの人がそこにいれば、いつだって世界はきらきらと輝いて見えた。
例えば、雨上がりの空き地。
「分かったかクソガキ共!」
「ひええええっ!」
「ひえーじゃなくて! 二度とアシェアを苛めんなって言ってんだよ! 返事は?!」
「はいいいいい!」
「よし、いい子だ!」
「うっうっ……うえええええん!」
「おいおい、泣くなって! これならうちのアシェアの方がよっぽど……」
「うえええええん!」
「びえええええん!」
「おーまーえーらーなあー! それでもいじめっ子か! もっとシャキッとしろシャキッと!」
「ううっ………シャキッと?」
「そう、男は常にシャキッとしてろ! そうすりゃお前らもクレイジーだ!」
「……クレイジー?」
「おう! クレイジーだ! 最高に格好いいって事だぜ!」
「く……クレイジー」
「……なんか、かっこいい!」
「なんだ、お前らよく分かってんじゃねえか!」
あたしをいじめていた近所の男の子たちは、なぜだかことごとくあの人の手下になっていった。
あの人は所詮は子どものごっこ遊びだろうと適当に付き合ってあげていたようだけれど、彼らは割と本気であの人を慕っていたらしい。それはあとから聞いた話だ。そんな話を聞けるくらいには、あたしは彼らと仲良くなった。
あたしをいじめていた男の子たちを本気で怒って、時には拳骨を落として、そうしてあたしを守りながら、あの人はあたしとみんなを繋いでくれたのだ。
「これからはアシェアと仲良くすること! いいな?!」
「ハイッ!」
「あ、でも必要以上に仲良くなんのは禁止! 不純異性交遊は許さねえぞ!!」
「ハイッ!」
いじめられたんだって言うと、そんなの気にすんな、すぐ仲良くなれるからとよく言っていたあの人。素知らぬ振りでそんなことをやっていたなんてーーねえ、あたしが気付いてないと思ってた?
例えば、学校から帰って開けるドアの、その先。
「おう、おかえりアシェア!」
一戸建ての一階部分に併設された、小さな喫茶店。そのカウンターの向こう側に、あの人はいつも立っていた。からんころんとベルを鳴らしながらドアを開ければ、いつだって笑顔で、おかえりと出迎えてくれた。
「ただいま、父さん」
あの笑顔は、今一体どこにいるのだろう。
***
「……アシェア?」
弾かれたように振り返ると、店奥にある階段からサイモンが顔を出していた。なんだ、びっくりした。
ふうと息をついて、アシェアは笑みを零す。
「ただいま。サイモン」
「お帰りなさい。あんまり遅いから心配していたんですよ」
「え、そうかな。ごめん」
「……どこか寄り道でもしていたんですか?」
聞かれて、アシェアはまた笑った。うん、まあ。詳しくは告げない。
するとサイモンは早々に話題を変え、買い物帰りで両腕いっぱいに紙袋を抱えているアシェアに歩み寄りながら、随分と買い込みましたね、と苦笑した。
……ああいう言い方をすると、聡いサイモンは何も尋ねないでいてくれると分かってやった。ずるい方法だと思う。
「安売りしてたから、今のうちに買っとこうと思ってさ。ただでさえ月末はお金が厳しくなるし」
「やっぱり私も一緒に行けば良かったですね。重かったでしょう」
「大丈夫だよこのくらい。一人でも平気だって言ったのあたしだし、誰かが留守番しなきゃいけなかったんだから。気にしないで」
そう言って紙袋を店の冷蔵庫と二階のキッチンへそれぞれ持っていこうとしたら、ふっと、急に腕が軽くなった。
慌てて振り向けば、サイモンが目を細めて笑っている。その腕には紙袋。
「ちょっ、サイモン! あたしが持ってくからいいよ!」
「こういう力仕事は男に任せればいいんですよ」
「……ほ、細いくせしてよく言う……」
アシェアは少しだけ唇を尖らせたあと、ありがとう、とちいさくつぶやいた。父にしろ後見人であるロジャーにしろ生活能力が低かったせいか、小さい頃からなんでも一人でこなして来たおかげで、どうにも人に助けてもらうというのが苦手だ。有り難いけれど、なんだかむず痒くてどう返したらいいのか分からなくなってしまう。
そんなアシェアを見て狐目をさらに細めたサイモンは、そのままつかつかと奥へ歩き出した。店の冷蔵庫と二階のキッチンに運べばいいですか?と尋ねられ、慌てて、うん、と答える。
「アシェア」
「なに?」
「ーーやはり、ひとつ訊いてもいいでしょうか」
うんいいよ、なんて軽はずみに返答しなくてよかったと思う。やはり、ということは、さっきアシェアが濁したことについてだろうか。
今日はどこに行っていたのですか。何のために行ったのですか。なにを、誰のことを考えていたのですか。
たった一言に対して、そのあとに続く言葉がいくつも想像される。アシェアは返事をしなかった。内容による、などというふざけた返しすらしなかった。もし今思い浮かんだいくつかの問いと同じものをぶつけてくるのだとしたら、どうしよう、もう彼とは一緒に暮らせなくなるかもしれない。と、一瞬にしてそこまで考えた。
サイモンはアシェアが拾い(一応助けたというかたちになっているが、アシェアの中では拾ったと形容するのが一番しっくりくる)それ以来なんとなく家に住まわせつつがなくやってきたが、アシェアのことを詮索してくるつもりなら、また話は別だ。
サイモンは優しい。賢い。好ましいひとだと思う。けれど、そういう彼にすら、アシェアは踏み込まれたくない。"あの人"との思い出について話したくないし、なにか言われたくもない。
「……。今日の夕飯」
「え?」
答えないアシェアにサイモンが何を思ったのかは分からない。けれど彼は、いつもアシェアの期待に応えるその聡い頭脳を回転させ、どうやら「呑み込む」ことにしたらしかった。
「今日の夕飯は、なんですか? リヴリーがお腹が減ったとうるさくて」
「夕飯……そうだなあ、ハンバーグにしようかな。久しぶりに食べたくなっちゃったし」
「それはあの子が喜びそうですね」
「あはは、お肉大好きだもんね」
「貴方の料理が好きなんですよ」
アシェアは出来るだけ、明るく、能天気に、なにも知らない顔で振る舞った。先ほど二人の間に張り詰めた一瞬の緊張感などなかったかのように。
たまにふらりと父親との思い出をたどり、セントラルを徘徊する自分の姿が、彼らの目にどんな風に映るかを考えないでもない。
それでも、アシェアにとってあの日々は何ものにも代え難い宝石なのだ。大事にだいじに仕舞ってある宝箱から時たま取り出し、愛でる。そうしないと、さびしくてこわれてしまう。あたしが、心が、思い出のすべてが。
ありがとう。ーーそしてごめんね。
アシェアは、前を行く細い背中に心のうちで告げる。
それでもあたしは、あなたのくれるやさしさよりも、あの人の残したさびしさがほしい。
天国への道のりを知らない天使
(自ら地獄へまっさかさま)