花が見えない蝶
カーマインとアシェア
ここには、思い出という名の“なにか”が溢れている。
それはひどく奇妙だ。
名を持っているはずなのに、"なにか"としか言いようがない。
ここに一歩足を踏み入れてすぐに感じる、その纏わりつくなにか。
足元に、腕に、絡みつくなにか。
耳を塞ぎ目を塞ぎ、全身を覆う、なにか。
それの名を思い出と呼ぶのは、単に便宜上だった。そういう形にしておけば一先ずは収まるだろうという妥協。
違和感ならある。あるけれど、そう呼んで差し支えないのも事実だった。
ーーーここには、思い出という名の“なにか”が溢れている。
*
「コーヒーおかわり」
そう言ってカーマインが空になったカップを差し出すと、カウンターの向こうで何やらちょこちょこと動いていた金髪、もといアシェア・クラウスが振り返った。
視線がぶつかったので、もう一度おかわりを主張する。
すれば、アシェアの形の良い眉がぐっと寄って、物言いたげに口が開かれた。
「……あのねえ」
それを無視して、カーマインは手元のノートパソコンに視線を戻す。
ディスプレイの中に所狭しと重なった複数のウィンドウには、文字だか記号だかがびっしりと羅列していた。こういうものは意味を理解する前に体が覚えているらしい。ごく自然に、指先はキーボードを叩いていった。
「おかわりって……それもう何杯目?」
「さあ、数えてないけど。3杯目くらいじゃないの」
「……違います。じゅう、さん、はい、め! なんで10杯もサバ読むの!」
「っさいなあ、いちいち覚えてねーよそんなん。こっちで忙しいの俺は」
かたかたと音が鳴る度に、文字だか記号だかの羅列にはさらに文字だか記号だかが上書きされていく。
たん、と軽いタッチでエンターキーを叩くと、それと同時に「BOMB!」というド派手なフォントが表示されて、ウィンドウの一つが爆散した。より効果的にゲームを楽しむためのちょっとした演出である。第一段階、クリアー。
あまりのちょろさに口笛を吹けば、向かいの金髪は心底呆れたようにため息をついた。
未だ差し出されたままのカップをしょうがなく、渋々、納得のいかない顔で受け取る。
そうして再び向けられた背中は、おかわりは自由だって言ったけど……とか何とかぶつくさ文句を言っていた。
「つーかさ、他に客もいないんだからむしろ感謝すべきなんじゃないの? 貴重な金ヅルじゃん、俺」
「……コーヒー1杯分の料金で13杯も飲んでるひとのどこが金ヅルなの」
「大体休み過ぎなんだよこの喫茶店。そんなしょっちゅう閉まってる店に客なんか来ねえっての。もっと企業努力すれば? 味は悪くないんだからさ」
「……うるさいなあ、何でも屋の仕事が忙しいんだから仕方ないの! それに常連さんだってちゃんといます」
「それもどうせコーヒー1杯で長々と居座り続けるような奴ばっかだろ。俺みたいに」
「自覚あるならもうちょっと遠慮してよ!」
そうやってどうのこうの文句を言いながらも、結局はコーヒーを淹れるのだからこの金髪も大概お人好しだなと思う。
それとも、お人好しでなければそもそも関わり合ってさえいないだろうから、こんなことを考えるのは今更すぎるのか。
ちらりとカウンターの端に視線を走らせると、そこに写真立てがひとつ置かれているのが目に入った。
客側からは一体何の写真が飾られているのか分からないが、まあ十二分に見当は付く。あれと似たような写真立てを二階の居住スペースでもよく見掛けるのだ。
そこで大きく笑っているのは、いつも決まって一人の男ーーハロルド・クラウスだった。アシェアが血眼になって捜している、例の父親。
「なあ、前から聞きたかったんだけど」
「なに?」
たん、ともう一度エンターキーを叩くと、ディスプレイの内側で連鎖的にウィンドウが爆散していく。剥がしきった外皮はさほど強固なものではなかったようだ。
……しかしまあ、よもやまともな防壁が一つしかないとは。拍子抜けするほどあっという間に辿り着いたゴールを確認し、とりあえずデータをコピーした後はまるっとデリートしとくかとキーを打つ。
今回は単に趣味の一環、暇潰しがてらのクラッキングだったので、特に達成感もない。
「ここ、なんで母親の写真は一枚もないわけ」
尋ねると、向けられていた背中が一瞬動きを止めた。
そして、おもむろにこちらを振り返る。
アシェアはそのままコーヒーが注がれたカップをカウンターに置き、そっとカーマインに差し出した。
「残ってないの。母さんはあたしが小さい頃に死んじゃったから」
「それにしたって、普通写真くらい残ってるもんじゃないの」
「……さあ。探したことないからわからないけど」
曖昧に笑ったそいつは、また背を向けて何やら作業を始めた。
探したことがない、ねえ。
嘘を吐け、とカーマインは思う。探したことくらいはあるだろう。否が応でも、父親の写真と一緒にいくらでも出てきたはずだ。ハロルド・クラウスは妻をよく愛していた男だったから、今は亡き妻の写真も、大切に保管していたはずなのだ。
それが残っていないということは、その言葉が嘘であるか、あるいはすでに処分されてしまったことを指す。
可能性が高いのは果たしてどちらか。
ヒントは、目の前のこの金髪が大層父親に執着しているということ。
「なあ、クラウス」
「んー?」
「お前さ、"エレクトラ・コンプレックス"って知ってる?」
「……ええ? なにそれ、分かんないよ」
ふーん、あっそ。
カーマインは勝手に自己完結して、にやにや笑いながらエンターキーを叩いた。
*
ここには、思い出という名の“なにか”が溢れている。
それを思い出と呼ぶのは単に便宜上だった。
けれど、思い出と呼ぶには、それはあまりにも。
ーーーあまりにも、薄暗く濁っている。
花が見えない蝶
(「なんとかは盲目」とよく申しますけれども)