飼い犬を噛んだ飼い主
サイモンとメルティナ、とリヴリー
はらはらと、銀の髪が舞っている。
「時々ね、無性にあの子を殺したくなるんですよ」
庭先に飛び出していったリヴリーのながい髪が、蝶につられるように動き回る彼に合わせて踊るのを目で追いながら、サイモンは吐息を吐くようにつぶやく。
リヴリーの足取りはふらふらと頼りなげで、今にもすっ転びそうな危うさを感じるものの、まあ転んだところで大した怪我にはならないだろうし、とひとまずは見守ることにした。
今はとにかく、さまざまな事を吸収させる事の方が大切なのだろうから。
「なにそのクソみたいな話。つまんないわね」
後方から投げかけられたそれにちらりと目をやれば、そこには女のようななりをした男ーー名をメルティナというがサイモン自身はあまり覚える気がないーーが腕を組んでむっつりと立っていた。そのすぐ傍らでは、洗濯機がごうんごうんと忙しなく音をたてている。
「別に聞かなくても構いませんよ。独り言ですから」
「聞きたくなくてもこの距離感だからイヤでも聞こえてくんのよ」
「なら他の場所に行ってください」
「こちとら洗濯機止まんの待ってんのよあんたがどっか行け」
庭と室内を区切るサッシに寄りかかりながら、陽の光の中をふらふらと歩き回るリヴリーの姿を眺めていると、次第に目が眩むような心地がしてくる。彼の色素の薄さによるものなのだろうか、どうにも眩しい。
眩しい。眩しい。これは、少なからず主観が混ざっているのかもしれない。
「あの子は、私が過去に犯した罪の象徴です。あの子が生きている限り私の贖罪に終わりはない。それが時々無性に、窮屈になるんですよ」
「……え、なに。まさかこのまま話すつもりなの」
「だからあの子さえ殺せば、私の罪も消えて無くなるのではないか。……たまに、そんな馬鹿みたいな事を考える」
「おい待てって言ってんでしょ変態メガネ」
「待てとは言われていませんが」
もう一度背後のメルティナに視線を向けると、彼はそれはそれは美しい顔に青筋を浮かべながら、激しく貧乏ゆすりをしていた。短気なことだ。
「泣き言言いたいならムカつくけどアシェアちゃんに言いなさいよ。あたしが聞いてやる義理はない」
「彼女にこんな事を言えるはずがないでしょう。悲しませるのは目に見えている」
アシェアはやさしい子だ。
現に、彼女はリヴリーの事をとてもよく気に掛けているし、慈しんでもいる。リヴリーだっていっそサイモンよりもアシェアの方に懐いていると言っても過言ではないくらいだ。
「殺してやりたい」などと口に出せばどうなるかなんて考えずとも分かる。怒って殴られるなら、まだ良い方だ。
「……それでも。あの子さえ、居なくなれば、と」
そうすれば、過去など無かった事になるのではないか。ふとした瞬間にそう考える。
思ってしまえば止められない。殺してやりたくて、目の前から消してしまいたくて、仕方がなくなる。
彼か日差しか、あまりの眩しさに目が潰されそうで、片手で目元をかるく覆った。
「……あっそう」
「ええ。まあ、「あっそう」という程度の話ですね」
「じゃあわざわざ聞かせないでくれる。耳が腐るわ」
「洗濯機をぼーっと眺めて暇そうにしていた貴方に話題を提供してあげたんですから、むしろ感謝して頂きたいものですが」
「頼んでないわよ。ていうかあたしはぼーっとしてるんじゃなくて洗濯機が止まるのを待ってんだって何回言ったら分かんの。アシェアちゃんに洗濯物持ってきてって頼まれてんのよ!」
「それは失礼。……ああ、ちなみにあの子を殺して如何にかなるものならとっくの昔にやっていますから、その点はご安心を」
「一ミリも心配なんてしてないわよ」
「そうですかーーーリヴリー、泥の付いた手で顔を触るんじゃありません」
覆いを下ろし庭へ声を飛ばすと、いつの間にか泥だらけになっていたリヴリーがこちらを見て、うん、わかった、と頷いた。
果たして本当に分かっているのかは疑問である。というか、何をどうすればこの短時間であんなに汚れるのか。
また洗濯機を回さなければいけないな、と取り留めなく思った。
「ノーランド」
相変わらずメルティナは洗濯機の前で仁王立ちしている。
その顔は不機嫌極まりなく、けれど恐らくは自分もまた、負けず劣らずふてぶてしい顔をしているのだろう。サイモンはそう考えて内心笑った。お互い、随分と表情豊かになったものだ。
「何ですか」
「改めて言うことでもないけど、あたしは何も聞いてないわよ。一から十まで、さっきの話は一切忘れる。悪いけどあんたの感傷に付き合ってやるつもりは無いわ」
「結構ですよ。暇潰しでしたからね」
「……ただ、これだけは覚えておきなさい」
「何でしょう」
「リヴリーといる時のあんたは、世界中のどんな奴に見せたってきっと口を揃えてこう言うわ。ーーー父親だ、ってね」
逃げるな、と言外に言われた気がした。
再び視線を庭先にやると、リヴリーがぱたぱたとこちらへ走ってきている。ああ、髪にまで泥が付いているじゃないか。洗濯するだけでなく風呂にも入らせなくては。
サイモン、とリヴリーが呼んだ。
そしてずいっと両手を差し出される。
何かを覆うように、包むように、膨らみをもって重ねられた手。
思わず目を瞬かせた。何だこれは。
訳が分からずにリヴリーを見ると、彼は珍しく瞳をきらきらと輝かせながら、そっと重ねた手をほどいた。
「ちょう、だよ、サイモン!」
白い手の中に収まった小さな蝶が、弱々しく、けれども力強い動きで、ゆっくりと羽をはためかせる。
これは恐らく、先ほどリヴリーが追いかけていた蝶だろう。まさか、この泥まみれ状態はこれを追っていて転んだのか。
「おれ、ころさなかったよ。ころさないで、つかまえられたよ。サイモン」
「……リヴリー」
「こんなにちいさいのに、いきてるの、すごいから。サイモンにもみてもらいたかった。きれい、だね。ね、サイモン」
表情のない顔は、けれどもどこか笑っている。
この変化が成長の兆しなのか、はたまたサイモンが彼の機微に聡くなっただけなのかは分からない。
けれど、結局どちらでも良いのだろう。リヴリーにとって歓迎すべき変化なら、それで。
サイモンは、目の前の子どもの髪をそっと撫でた。
出来るだけやさしく、慈しむように。生きているという感触を、確かめるように。
背後では、ごうんごうんと唸っていた洗濯機の音が徐々に終息に近付いている。
洗濯機の傍らからは、いつの間にか人の気配が無くなっていた。
「……その気の利かせ方が癇に障るんですよ。あのオカマが」
「……おかま?」
首を傾げたリヴリーには、ただ、何でもないとだけ答えた。
そうこうしている内に、はらはらと、リヴリーの手のひらに収まっていた蝶が宙に躍り出る。
うわあ、と歓声をあげたリヴリーの頭をもう一度撫でて、とにかくその格好のままではアシェアに怒られますよ、とサイモンは笑った。
ごうんごうんという洗濯機の音が、ようやく終わりを告げる。
飼い犬を噛んだ飼い主
(憎さ余って、可愛さ百倍)