脱出後
リンネに連れられてルーザーが訪れたのは小さな雑貨屋だった。商品棚に置かれた物は何に使うのか、一向に用途の知れない怪しいものばかり。店内の面積は客が五人も来れば、満員となってしまうくらいに狭い。ただし、装飾のセンスが良いのか、居心地が良く、緊張で鼓動の速かった心臓がやや落ち着きを取り戻していた。
「雑貨屋よ。ここの店主があんたの救出を依頼した」
そう言って、リンネはレジに置かれた呼び鈴を鳴らす。
「……チッ。時間指定でもしておくんだった」
「眠ってるのか?」
「もう午前十時よ、寝坊にも程度がある」
(そうか……外には時間があったんだった)
あの隔離された白い世界の中では、時間なんて概念はあってないようなものだった。常時照明で室内は明るく、朝なのか、昼なのか、夕方なのか、夜なのか――人間の生活にリズムを与える時間が分からないと、本当に自分が生きているのかも判別が付かなくなることがあった。
「そうだ、ルーザー、あんたお腹空いてない?」
気が付いたように、リンネは背後におぶさっているルーザーに対して訊ねる。確かに時間を意識するようになって、急激に腹部の辺りにじわじわと痛みのようなものを感じる。
「人並みの体にした時に、胃も普通に機能するようになったはずだけれど……それで餓死でもされたら、目覚めが悪い」
「……空いた」
そう、とだけ呟いて、リンネはルーザーをおぶったままレジの奥の階段を上がる。
「いい、のか?」
「構わないわよ。いつまでも寝ている方が悪いし、そもそも店を開けっ放しにするなって話よ」
「いや、戸締りもお願いしたじゃない」
階段を上り終え、左の扉が不意に開けられた。中から現れたのはリンネと同い年くらいの女性だった。
「代金も払ったしさ」
「あれはルーザーを連れ帰るまでの分。代金分はしっかり働いたでしょ」
「それくらいはサービスしなさいよ。お前は私が雇った私兵でしょう? 道具は扱う側に文句を言わない――当然よね?」
リンネが鬱陶しそうに答えるのは、恐らく部屋から現れた女の態度があまりにも尊大だったからだろう。
濡れたように艶のある黒髪と宝玉のように青い瞳。まるで物語の中の姫が現実に飛び出したかのようだ。
(いや……情報として知り得る限りだと、これじゃあ、妃か)
「それで、ルーザーって何?」
やはり、寝起きなのか煽情的な青いネグリジェ姿の彼女は寝癖一つない黒髪を弄りながら、訊ねる。
「もしかして、お前がおぶってる『それ』のこと?」
「あ、人違いだった? だとしたら、他は全部殺しちゃったんだけれど」
急に店内の空気が怪しくなってきた。居心地が良かったように思えた空気が一転して、あの施設以上の地獄であるように思えた。自分の腰の辺りに回されたリンネの両腕に力が入る。最悪の場合、このまま背中から骨を折られるかもしれない。
そんな想像をして、安堵に包まれていたこの状態が、首筋にナイフを当てられるよりもゾッと肝が冷える感覚に陥る。
「違うわ。お前が名前を付けるって言うのが、珍しかったからね。どうしたの? そもそも今回みたいな人助けだって、本来のお前なら絶対に引き受けないじゃない」
「余計な詮索はしない条件でしょ」
ルーザーの背中に込められた力が急速に抜け、目の前の黒髪の女に殺気が放たれる。
「後ろのルーザー君が怯えてるじゃないの。それに本気でもない殺気浴びたって、嬉しくも悲しくもないの」
「あんたの表情を変えるために依頼受けた訳じゃないし。……ルーザー、この阿保があんたの救助を依頼した――」
女店主はゆっくりと手を差し出し、握手を求め、名乗りを上げた。
「ルシファーです、よろしくね」
***
「君にはこの部屋を使ってもらおうか」
着替えを終え、シックな黒いドレスを纏ったルシファーはそう言って、部屋の鍵を渡した。
「何? 人手が欲しかったんなら、アルバイトでも雇えばいいでしょ」
リンネは肩を壁にもたれたまま腕組みをして言う。
「第一、人手が足りなくなるほど、この店が繁盛しているようには思えない」
「お前は色々と失礼な奴だね。お前だけはどれだけ低賃金でいいって言われても、雇ってあげないよ」
「もしかして……それだけのために、俺を救出したのか?」
ルーザーが恐る恐る訊ねる。
「どうやら、君は自分がどれだけ重要な存在なのか分かっていないね。君の救出を『それだけのこと』って言うけれど、それだけのために施設の人間の皆殺しを依頼したりはしないわよ」
「まあ、確かにあんたの救助だけのために職人の抹殺を依頼された時は耳を疑ったけれどね」
あそこで行われていた非人道的な研究や実験を思えば、警察が動くことはまずないだろう。上の連中が全力で情報を抹消するだろう。
「ところで、君はあそこで自分がどんな実験を受けていたか知っているかな?」
「……いや。『失敗作』ってだけ、言われてた」
そのはずだ。でなければ、自分が今まであの部屋で蔑まれながらも、命を繋がれていたはずがない。
失敗作である自分には実験体としての価値が無いからこそ、あのような待遇に置かれていた。
「俺は、あそこではマウスだった」
「……じゃあ、名前はマウスに変えようか?」
ジョークのつもりなのか、カラカラと笑いながら、ルシファーは言うが、ムッとした表情のリンネに後頭部を叩かれる。
「茶化さないの。こいつにしっかり説明しないと、いい加減話も進まないだろうが」
「冗談は冗談として受け流すくらいなさいな。あー、じゃあ、何をされていたかは知らないんだね?」
「ああ、分からない」
ルーザーの言葉を受け、ルシファーは数秒黙し、突然背を向けた。
「ちょっと……どこに行くの?」
リンネが苛立たし気にルシファーの前に立つ。
「気が変わった。あ、ルーザー君にはここで私の手伝いをしてもらうから、お前は先輩として補助よろしくね」
「ふざけるな。そこまでは依頼内容に――」
「じゃあ、改めて依頼する。ルーザー君を補助しなさい。少なくとも、彼が普通に生活できる程度に回復するまではね」
***
リンネ・オルタナティブは俗に言う何でも屋なのだそうだ。
報酬さえもらえれば、どんな小さな家事手伝いから汚れ仕事まで――フリーランスということもあり、幅広いジャンルの仕事が彼女の元に舞い込んでいた。
「とはいえ、流石に何でもは言い過ぎね。風俗みたいな内容は断るし、理不尽な虐殺に加担しろなんて言われた日には、その依頼者を逆に半殺しにしたこともある」
では、ルーザーのいた施設の職員、研究員の大量殺戮は大丈夫なのか、と訊ねれば、
「だとすれば、あんたはここにいないでしょ」
と呆れながら答えた。
「毎日の発声練習、筋トレは欠かさないこと。早期の回復を望むならね」
そして、意外にも壊す以外のことにも長けているらしかった。方法は知らないが、ルーザーの命も彼女が救った。
「あんたは……何者なんだ?」
「それはあの時も聞かれたわ」
「真剣には答えてくれなかっただろ」
リンネは腕を組みながら、何と答えるか考えているようだった。
「正直に答えるなら、死神かしらね」
死神。一般的なイメージとしては、黒いローブを纏った骸骨が大きな鎌を振り回し、魂を刈り取る。
「アレか」
「どれかは知らないけれど、あんたがイメージしてるそれでしょうね」
その話を信じるならば、神の存在を証明することになる。
神――神様。
実際のところ、存在したところで崇め奉る気には到底なれない。そこまでの余裕がないというのが現状なのだが、仮に回復して幸せな生活を送れるとしても、やはり神を信じるつもりにはなれないだろう。
「いや、私は神というよりも、妖怪の部類ね」
「……へぇ」
へぇ、としか言えない。突如妖怪の存在を明かされても、それくらいしか言うことはない。
「……まあ、その反応は分かるけれど、もう少しリアクションがあってほしいものね」
「あ、ごめんなさい……」
反射的に謝るルーザー。
「謝る必要は無いけれど……でも、そうね。今後の関係性を鑑みれば、良い姿勢よ」
上機嫌、とは程遠い無表情ではあるが、ルーザーのことを気に入っているようではあった。
ルシファーから店の手伝いを請け負い三日が経過した。
当然、というか第一印象の通り、客でいっぱいになるどころか、誰一人として扉を開けることはなかった。そのため、彼らの仕事といえば、黙々と店内の掃除をしたり(客が来ないため、所々に埃が積もっていた)、商品の説明をリンネから受けていた(この商品説明もいまひとつ分からなかった。そもそもリンネ自身も何を言っているのか分かっていないようだった)。
「雑貨屋、だよな?」
「さあね。あの女が何の目的で店主なんかやっているのか、私には理解できない」
露骨に不快な表情で、手にした商品を握りしめる。
「こんな訳分からない人形が売れるとは思えないし、買う奴の気が知れないわよ」
リンネが掴んでいる商品は、赤と青、緑の三原色の布地が特徴的な手作り感溢れる女の子の人形だった。中身が小豆のような素材らしく、触感は独特で、シャラシャラと不思議な音も聞こえる。
「ところで、この三日間ルシファーはどこに?」
「知るか。あいつが上司っていう現状がそこはかとなく腹立たしいわ」
ダンッ! と乱雑に人形を棚に戻すリンネ。
これ以上ルシファーの話題はリンネの機嫌を損ねるだけだと判断したルーザーは作業を中断して、昼休憩に入ることにした。
「時間の感覚も徐々に掴み始めたみたいね」
ルーザーが淹れたコーヒーを啜りながら、リンネは不意にそんなことを訊いた。
「体内時計が働くようになって、こうしてコーヒーも淹れられるくらいにまでなれば、回復が順調であることも分かるわ」
「まだ、体力不足は否めないが……」
「三日でこれだけ付けば大したものよ」
これは純粋に褒めているのか、そう判断したルーザーも自分で淹れたコーヒーを口に含む。
「発声も練習の甲斐あって、会話が可能なレベルにまでなった。食事も、リゾットみたいなのから始めて、魚はもう平気でしょ? あとは――」
ルーザーの健康状態は逐一リンネがチェックしており、そのおかげで回復も順調だといえた。
「正直なところ、依頼があったとはいえ、どうして死にかけの俺を救おうと思った?」
「ん? 依頼だったから……」
「じゃなくて、あのまま俺を殺した方が、その……楽だっただろう? 他の連中を殺したのと同様に」
どのような技術を使ったにせよ、死にかけていたルーザーを治療するよりも、あの時持っていたナイフで刺すか、あるいはあの時繋がっていた生命維持装置を外すだけで事足りたはずだ。
「別にルシファーが見ていた訳じゃない。依頼に背いたところで、依頼者にさえ見られていなければ大丈夫だろうとか……」
「私に妥協をしろと?」
リンネの眼光が鋭くなる。怯んだ拍子に、口に含んでいたコーヒーを出しそうになったが、寸でのところで押し留める。
「確かに、あんたの言う通り、生かすより殺す方が楽。でもね、それは依頼が一切絡まない時の話。生かして連れ帰れ、と言われればそうするのが私よ。依頼に反する私をそもそもあの女は雇おうとしないでしょうよ」
依頼によっては殺しも厭わない彼女ではあるが、そこには確かな矜持があった。
(これが俺を生かして、あの連中を殺した女か……)
いつしかあの時ルーザーが抱えていた怒りは掻き消えていた。