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時空の守者  作者: るー。
第六章 命の花―雪の章―
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第六章 命の花―雪の章―②

   4

 それから数日後。

 一度補正された川の支流は流れを変え、数年前までは収穫もある田畑だったが水捌けが悪く荒れてしまった土地に水が流れ込んだ。上流から支流を変え、急激に流れを作った川は一度意図的に変えられた土地の地形を更に変えたが、新しく出来た土地に人々が種を撒くと、作物は急激に成長を始めた。

 草一つ生えなくなっていた土地に兼行は手に持っていた袋の中から種を取り出し、無造作に放る。と同時に風が吹き、種は畑全体に行き渡る様に舞い落ちた。

 畑全体に種が撒き終わったのを見計らって、種は一斉にその場で芽を出し、ぐんぐんと成長していった。

 夏も盛りの季節、本来ならこの時期成長しているだろう段階まで成長しきると、急激に伸びた植物の成長はぴたりと止まった。

 茶色く干からびていた土地は一瞬にして緑一色で染め上げられていた。

 一度自分たちの土地を奪い、使えなくした役人が再び訪れて何をするのかと遠巻きに見ていた農民たちは歓声を上げた。

「私が作物の成長を手助けするのはここまでだ。今まで支流のあった土地はこれまで山頂から流されてきた肥沃な土壌で栄養がある。今年の実りは約束されるだろう。ただ来年の約束は出来ない。だからそこは、以前この土地を訪れたあの農民たちに知恵を与えてもらうしかない」

 兼行は緑の葉が揺れる畑を見つめ、それまで彼の行動を見つめていたこの土地一帯を耕す農民の代表に告げた。

「あんたは神なのか?前は川の流れを変えて俺らの生活を滅茶苦茶にした。また性懲りも無く現れたと思ったら今度はまた川の流れを変えて、今年の実りを保障してくれた」

 代表の瞳は兼行個人を見つめていない。そこにあるのは空虚だった。兼行という人物として扱われることの無い視線に少しの虚しさを感じながらも首を振る。

 彼らには憎しみや怒りなど対人間に対する感情を既に兼行に対して持っていない。

 吉郎同様の感情をぶつけられ、罵られるだろうと兼行は予測していたが、それよりも、彼らは幾度と起こされる奇跡、そして決して人の手では起こしえぬはずの事象に、それを起こす事が出来るに目の前の存在に脅えていた。

「私は神ではないよ。前回も一度きりの奇跡を起こしたが、今回も一度きりだ。来年の保障は出来ない。前回は川筋だけ決めて土壌の流れなど考えなかった考え無しの策の為に民に多大な迷惑を掛けた。本当に申し訳ない。今回はそれを踏まえ、川の流れを変えたが、これからこの土地を生かしていくのはそなたたちだ」

「何を言うんですか。貴方様がいれば、これからずっと豊作ではありませんか。崇めろと言うのなら崇めます。どうしたら良いのですか?どうしたら貴方様はずっとここにいてくださるのですか?」

「私は人と違う異能の力を持つだけ。人であることには変わらない。だから崇める事を望んでいない。私はこの場所に留まる事をしない」

「私たちは貴方様が遣わされたものたちを殺した。吉郎が都を襲った。だから許さないと言うのですか。彼らの家族に謝れば怒りは治まるのですか?」

「あの者たちには申し訳無い事をした。遣わした私自身も罪を抱える事となる。そして困窮の上に怒りを何かにぶつけなければならない程苦しめ、そなたたちに罪を犯させた事を悔いている。けれど、その罪は侵してしまったそなたたちの罪である事は変わらない。ただそれだけだ」

「怒ってもおらず、崇める事も必要無いと言われるのなら、貴方様はどうすればここにいてくださるのですか!?」

 代表は苦悶の表情で兼行を見上げ、そしてその場に勢いよく膝を折ると、深く土下座をした。

「どうかここにいてください!ここにいて、私たちを守ってください!もう飢える事は嫌だ!いつ貴族に家族が連れて行かれるのか脅えるのは嫌だ!明日殺されるかも知れないと悲しむのは嫌だ!貴方様がいれば!貴方様がいれば!」

 周囲で彼らの様子を伺っていた農民たちもわらわらと兼行たちを囲むようにその場に屈むと一斉に平伏し始める。

 その瞳には人外の者の力を求める狂気が漂っていた。

 戸惑う兼行は背後から殺気を感じ、振り返ると、肩すれすれに鍬が振り下ろされた。

「!?」

 兼行は息を飲んで、それをかわし、自身の足元には頭を垂れ囲む農民たちがいたので、咄嗟に跳躍し、緑の畑の上空へと逃れる。

 振り返ると、若い男がたった今下ろした鍬を持ち上げ、空に浮かぶ兼行を見上げた。

「ここに留まらないと言うのなら留まるように足を切ってしまえばいい!宙に浮かぶという奇術を使うなら飛んで逃げれないようにしてしまえばいい!」

 叫ぶ若者の声に兼行はぞくりと胸に黒い穴が空くような覚え、周りを見ると彼の言葉に目の色を変えた者たちが先程まで平伏していた顔を上げ、こちらを見ていた。

 兼行は静かに目を閉じる。

 そして次の瞬間、兼行を捕まえようと立ち上がった者たちが今成長したばかりの植物を踏み潰しながら一斉に彼に襲い掛かろうとする。

 それと同時に突風が襲った。

 ゴォッ!

 唸りを上げた突風はいとも簡単に農民たちを吹き飛ばし、畑の上に転がる。

 実りを期待された植物は人の体重で折れ、形を変えてしまった。

 それは明らかに兼行が起こした事象。

 襲い掛かり吹き飛ばされた彼らは尻餅をついたまま慄き、先程と全く変わらない様子で目を閉じたまま動かない兼行を見上げる。

 指一つ動かさないまま目の前の存在は自分たちを吹き飛ばしたのだ。そう理解する事で恐怖は更に広がる。

 代表の男も呆然として兼行を見上げた。

 声は出なかった。

 彼は自分たちに恵みを与えてくれた兼行は危害を加える事は無いと心の何処かで知っているつもりだった。

 けれど実際は彼らにだって手を下す。そして彼らを殺す事だって容易なことだろう。そう気付いてしまった。

 起こった現象と未だ宙に浮かぶ人物の為した事が一つの線に繋がった時、ばらばらと農民たちはその場から逃げ出した。

 代表の男もその場から逃げ出したくて仕方が無かったが、けれど逃げ出す事は許されなかった。兼行が彼を見据えていたからだ。

 兼行は農民たちが逃げ出す事により足場の広がった畦道に宙から舞い降り再び足を着けると、もう一度代表の前に立つ。

「私はこれ以上の事はしない。今回の形が最善の形だと思うからだ。後はそなたたち次第だ。この土地を豊かにするのも枯らすのも」

「どうすればいいのです!?」

 悲鳴染みた声を代表は上げる。

「――技術を求めるなら、そなたたちが殺した男たちの家族や仲間に協力を求めればいい」

 兼行は諭すように、もう一度同じ事を繰り返し教える。

「そんな!家族を殺されて彼らが私たちを許すはずが無い!」

「そなたたちは罪を犯した。それが事実だ。それは変えられない」

「――!」

 反論しようとするが代表は口を開くだけで、静かに閉じた。

 恐らく兼行に彼らの家族の怒りを緩和するよう、助力を求めようとしたのだろう。けれど兼行は都合の良い存在ではない事は今のやり取りで理解させられたので、何も言えなかったのだろうと兼行は推測する。

「後はそなたたち次第だ。彼らが助力してくれるかどうかも、許すかどうかも」

 代表は苦々しく唇を噛み、そして兼行を仰ぐと重々しく問いかけた。

「最後に一つ良いですか?」

 今度は明らかに兼行の答えを求める問いに、兼行は己を見据える代表の眼差しを受け止める。

「吉郎はもう帰って来ることは無いのですか?」

「――彼は私だけでなく御所を襲い、帝を襲ってしまった。その罪から逃れる事は出来ないだろう」

 兼行がこの地を訪れなかったら、川の流れに手を加えなければ、彼は今もここで家族と、例え困窮していたとしても慎ましく幸せな生活を送っていたのかもしれない。

 あったかもしれない未来が脳裏に浮かぶが、兼行は首を振って消した。

 全てはもう過去の事で、起こりえなかった未来だ。

「結局あんたは俺たちを振り回して、そして何もしてくれないんだな」

 呪いの言葉のように吐き出された代表の呟きに、兼行は何も言えなかった。


「謹慎中に随分と動き回ったな。そなたは謹慎の意味を分かっているのか?」

 季節が一つ変わる頃、兼行は御所に呼ばれた。

 都を強く照り付けていた日差しが柔らかくなり、濃緑の葉が覆い茂る木々は機や赤に装いを変え、ひらひらと葉の衣が舞い落ち、大地の彩を変える。

 夏場は風も吹かず、柱や床の木の板が太陽の熱を吸収し、じめじめとしていた御所に冷たい風が格子や御簾の間を吹き抜ける。

 兼行は帝が主に日常生活を起こる場である清涼殿に一人呼ばれ、帝の前で平伏した。

 久し振りに拝した帝に最初に掛けられた言葉は苦笑混じりだった。

「そなたを謹慎に処したはずなのに、何故か参内していた時よりもそなたの名が報告でよく上がるようになってな。面白いから暫く放置していたが…また色々やったな」

 その言葉に咎める口調は含まれていない。帝は本気で兼行の行動を楽しんでいた様子が伺えた。

「謹慎とは己を見つめ直すために与えられた時間の事。己の過ちを見つけ、認めればそれを正す努力をするのは当然の事ではありませんか。その為に帝から時間を頂いたのだと考えていました」

 兼行の回答に帝は笑う。

「本当にそなたは変に豪胆でそして真面目だのう」

「――私はまだ謹慎を解かれた身ではありませんが、本日はどういった思し召しでしょうか?」

 このまま世間話のような話が小出しに進むのではないかと感じた兼行は平伏したまま率直に問い掛ける。

 帝はその兼行の性格がよく現れている問いに、また笑う。

「まずは謹慎中の行動。本来なら嗜めるところなのだろうがな、ご苦労だった。と、労おうと思ってな。そなたが謹慎中にも関わらず送り続けてきた調書も読んだぞ」

 そう言って、帝は己の座の横に置いてあった文箱から綴りを取り出し、パラパラと広げる。

「過剰な税を搾取する貴族どもに関してはこちらで既に調査の人間を送った。後日そなたの調査内容に加え綿密な調査報告が上がるだろう。後、そなたの調書で十分に罪の断定が出来る者は既に捕らえ、処断している。――あの例の男を追い詰めた貴族どももひっ捕らえた」

 平伏したままの兼行から帝の様子を伺う事は出来ないが、明らかに口の端は上がっているだろう。

「それと、ここら一帯の田畑の様子は参考になった。これで税率をどのように当てればよいか十分参考になる。そう、そなたがまた勝手に流れを変えた川の付近の作物だが、今年は今までに無い位きちんと税を納め、更に冬を越すのに十分な量が収穫されるそうだ。最近近くの別の荘園と交流しているらしい。それも影響しているそうだ」

 最後の言葉に兼行は思わず顔を上げ、帝を見つめる。

「己の咎を挽回するにはそなたの功績は十分過ぎるほどだ。謹慎を解く」

 そう言って笑みを浮かべる帝に兼行は再び平伏した。

「ありがとうございます」

 感謝の言葉を述べ、そして顔を上げて続ける。

「唯一つ、誤解して頂きたくないのは私は自分の汚名返上の為に行った訳ではありません。私は本当に彼らの実情を知らなかった。知りもせずに中途半端に良かれと思った政策を実行してしまった。だから私は自身の罪と向き合い、もう一度彼らが本当に求めている事を知り、己を正し、彼らの安寧になればと行ったのです」

 真っ直ぐな瞳で見据える兼行に帝は頷く。

「そうだな。そなたはそういう人間だ。しかしそれだけの事をするためにずっと屋敷へ戻っていないだろう。謹慎を言い渡してから数日後に屋敷を出て以来戻っていないと聞いた」

「それは家の者にも暫く帰らないと伝えておりますのでご心配無用です」

 政で指摘を受けるのならまだしも、今ここで家や家族の心配をされるのは帝の人柄から見て想像が付かなく兼行は訝しんだ。

 帝は兼行を見つめ、そして、兼行の向こうに広がる庭を見つめる。

 何処かぼんやりと。

「-ー一度屋敷へ帰る事を薦める。そして暫くの間、そなたの父、政行の治めていた地で体を休めたらどうだ?」

 突然の提案に、兼行は眉を潜めた。

「それは私が必要無くなったという事でしょうか?」

「そうではない。そなたは派手に動きすぎたのだ。そなた自身の国への功績は途方も無い。しかし、異能の力での行いとは、強大過ぎる力とは、時に民に畏怖を与えると同時に恐怖も与えるのだ」

「―――」

「だから暫し身を隠せ。時機を見てまた私が直接呼び戻そう。それまでは何もしなくていい」

 告げられる言葉に兼行は何も言えなかった。

「そなたには私の言っている事が分かるだろう?」

 帝の伝える言葉の意味を、彼が察してくれるよりも自分自身が一番良く分かっていたからだ。


 己の屋敷へ数ヶ月ぶりに帰った主を迎えたのは、聡里だった。

「兼行様!お帰りなさいませ!」

 開口一番何処か焦燥感を帯びた声を発し、聡里はばたばたと近くにいた女房や下男たちに食事や着替え等の指示を始める。

 そして何者かに急かされるように、そわそわと屋敷の奥を振り返っては兼行を一刻でも早くその奥の部屋へ案内しようと必死だった。

「暫くぶりの主の帰りなのに聡里は落ち着かないな。どうした。何かあるのか?」

 兼行の問い掛けに、聡里は顔を強張らせると、苦悶の表情に変わり、消沈する。

「…実は藤乃様のお体が余りよろしくないのです」

「藤乃は!?」

「…寝殿でお休みになっておられます」

「どうしてすぐに知らせなかった!」

 言い辛そうに答えた聡里を責めるように叫んだ後、兼行は言ってから口篭る。

 その理由は何よりも自分が一番良く分かっていたからだ。

「すまない。私は様々な場所を転々としていたのだ。連絡を入れずに。そんな私を見つけて尚且つ捕まえる事等出来ぬな…」

 兼行は軽く唇を噛むと、一目散に藤乃の元へ向かう。

 几帳で遮られた向こうで横たわっていた彼女の姿を見ると、彼は愕然とするしかなかった。

 枕元で微かに揺れる蜀台が藤乃の顔を照らす。

 元々白い肌ではあったが、赤みを帯びた蝋燭の明かりでも白く見えるほど白くなった藤乃の肌を映し出した。

「藤乃!」

 兼行はそんな彼女の姿にいても立ってもいられず、駆け寄ると、抱き締めた。

 抱き締める腕から伝わってくる彼女の体の細さ。

 女性独特の柔らかさは失われ、折れそうなほど細くなった腕や腰。

 彼女は突然自分に触れる温もりに気が付くと、ゆっくりと目を覚まし、温もりの正体を確認するとにこりと微笑んだ。

「兼行様…」

 痩せ細ってしまったのに気丈に笑う藤乃に、兼行は万感の想いと共にぎゅっと彼女を強く抱き締める。

「すまない。私が長く屋敷を空けていたばかりに、藤乃がこんな状態になるまで気付かないなんて」

 藤乃は今にも泣きそうな夫の手を取り、首を横に振る。

「お帰りなさいませ。兼行様」

 そうして笑う藤乃に兼行は表情を歪め、彼女の胸元に顔を埋めた。

「帝に暫くの間、暇を頂いたんだ。少しゆっくりしよう。私が子どもの頃過ごしていた屋敷へ行こう。あそこは都のように華やかなものは無いが、何よりも美しい景色と、優しい人たちがいる小さな里がある。そこで養生しよう。きっとまたすぐ元気になれる」

 こくりと頷く藤乃に兼行は少し笑うと彼女を再び褥に寝かせた。

 彼は暫し沈黙し、再度手を伸ばすと藤乃の頬に触れる。

 途端、先程まで青白かった肌が赤みを増し、憔悴していた表情が柔らかくなった。

 その変化を確認すると、部屋の外で待っていた聡里は兼行を仰ぎ見る。

「藤乃様は?」

「大丈夫だ。…けれどあれは私の力では治せない」

 聡里は藤乃の安否を確認し、ほっとするが続けられた言葉にはっとすると俯いた。

 その表情の変化を見ていた兼行は「やはり」と呟く。

「そなたには分かっていたのだな。あれは病ではない。何か精神的な疲れからくる体力の衰えだろう」

「…はい」

「何があった?」

 掛けられる問いに聡里は沈黙する。

 兼行には何となく想像できていた、今目の前の聡里の様子は彼の予測どおり、暗に原因が彼自身にある事を物語っていた。

「…私の異能の力のせいか?」

 聡里は主人を非難する言葉を発する事は出来ないだろう。そう察した兼行は自ら問う。

 彼女は驚いて、彼を見上げ、そしてやはり目を伏せた。

「…どうかそのお力を使われるのを控えて頂けないでしょうか?その力が無くとも、兼行様は聡明でいらっしゃるではありませんか。帝は異能の力が無くとも兼行様を必要とされています」

 非難する事は出来ない。それでも願い請うその言葉は兼行の問いを肯定していた。

 兼行は唇を噛む。

 今の彼には何も言い返す事が出来なかったのだから。

 多くの人の命、心を惑わし、犠牲を払ってしまった事実。

 己の妻を苦しめてしまった事実。

 それは確かなのだから。

「異能の力を使い過ぎた故に帝から暇を与えられてしまった。この際だから暫し藤乃の療養も兼ねてあの里へ戻ろうと思う」

 最早、内にある感情をどう表現したいのか自身でも分からないまま兼行は聡里に呟いた。

 聡里は「畏まりました」と短く答えるとその場を離れた。


 翌日から引越しの作業が始まり、その中で日に日に家人が減っていくのが目立ち始めた。

 妻の屋敷から共に来た家人なら仕方が無いと思っていたが、兼行が前の都へ映るときに共に移ってきた馴染み深い人間まで次々と行方をくらまし始めた。

 妻の侍女が減り、舎人が減り、里への出立の用意が出来上がる頃、屋敷で遣える人間は片手で数えられる程になってしまっていた。

「随分と少なくなってしまったものだな」

 家財道具が無くなり、すっかり空になってしまった屋敷を見つめ、兼行はぽつりと呟く。

 かつてこの屋敷に移り住んだばかりの頃の賑やかさは今もはっきりと思い出せる。

 まだ父親がいて。

 真澄がいた頃。

 屋敷の人間も外の人間も農民、貴族、身分関係無く、様々な人間がこの屋敷を訪れていた。

 毎年秋の実りを置いてくれていった農民たちの足も途絶え、この屋敷で行っていた祭りも数年で廃れた。

 家人も減り、己の元に残ったのは家族と数人の家人だけ。

「兼行様。支度が整いました」

 残ってくれた聡里から声がかかる。

 「ああ」と答え、振り返ると、数人の男たちが家財道具を乗せた荷台の最終点検をしている姿が目に入った。

 人手が足りず、里までの長い旅で荷台を運んでもらう為雇い入れた者たちだ。

 藤乃は既に子どもたちと牛車に乗り込んでいるらしい。

「聡里。別に彼らを雇わなくとも、私が力を使えば一瞬なのだが」

 何度も言ったがその度に断られた提案を兼行は改めて口にすると、答えはやはり同じで聡里は首を横に振った。

「いいえ。兼行様。私たちには二本の足が付いているのです。その足でこの地に足を踏み入れました。帰る時も同様です」

「しかし」

「ご自身が均したこの地をしっかりと目に焼き付けていってくださいませ」

「そうか…。そうだな」

 自分がこの地に訪れるまで、枯れた大地が続き、僅かな実りは貴族に搾取され、飢えと貧困が満ちていた。

 それを己にしか使えない能力を使い、全てを組み替え、緑の大地に変えた。

 それは確かに、己の能力が人の為に正しく行使できた証だ。

 反省はあるけれども、その時己が出来る最大限の事をした。それを誇りに思わなくては。

 兼行は牛車に乗る事を勧められたが、断り、牛車の横を歩き始めた。

 あの時と同じように。

 目の前に広がるのは元々枯れた大地。

 最初に蘇らせたのは兼行。その後豊饒な大地にしたのは真澄。

 ふと、農民の一人と目が合ったが、すぐに逸らされてしまった。

 彼らとの関係を壊したのは兼行。

 それでも兼行が行動を起こさなければ、真澄はこの地を豊かな土に変える事はしなかっただろう。

 兼行が真澄に与えられた技術を他者にも分けて欲しいと願わなければこの近隣の土地は今もこの一部の場所を除き、枯れた大地が続いていた事だろう。

 今は周囲何処を見ても緑が続き、蛙や虫たちが楽しそうに歌っている。

 これがこの地で兼行が残したものだ。

 兼行は青く高い空を見上げ、――消えてしまった真澄を思った。

 ―――これでいいんだ。


   5

 数年離れていた屋敷は、先に向かわせていた者に手入れを任せていた。それでも一度人間が住まなくなってしまった家屋は老朽化が早いと言われているが将にその通りで、兼行が到着した時点でも修繕作業が追いつかず、まだ幾つかの室は手が付いていない状態だった。

 外観も以前彼が住んでいた頃よりも、随分と寂れている。

「こちらが兼行様が幼少の頃過ごされていたお住まいですか?」

 牛車から降りた藤乃は目の前に佇む新居に驚きを隠せずにいた。

「藤乃の容態も考えて本来かかる時間より時間をかけて修繕していたのだけれど、全てに手を入れる事までは難しかったらしい。ほんの数年前暮らしていた時はもっと柱や屋根も新しく見えたものだが」

 兼行は苦笑しながら藤乃を見る。

 藤乃は一時よりずっと顔色が良くなり、以前より笑うようになっていた。

 腕に抱える二人の子どもたちは不思議そうに二人を見上げる。

「ゆき!?」

 突然背後から懐かしい呼び名で声を掛けられ、兼行は振り返る。

 周囲には貴族の引越しという事で、数日前から人が慌しく出入りするようになった屋敷に興味本位で近隣の里の人間が野次馬に集まっていた。その中から声がかかり、兼行は驚くが、声を掛けた人物を認めると笑った。

「梛木!」

 腕に抱えていた結乃を抱え直し、兼行は彼に近付く。

 里の人間は一斉に梛木に視線を集め、こちらに近付いてくる貴族に距離を取るようにざわざわと二人を囲む形で間を作った。

 兼行がこの土地を離れたのは、まだほんの数年前の事だ。里の人間の中には未だ兼行を覚えている者たちがざわざわと、「やっぱ兼行様だ」、「本当に兼行様か?」等互いに囁き合う。

 周囲の問いにはあえて答えず、兼行は一直線に梛木の元へ寄ると、にこりと笑う。

「久し振り…」

「お前、どうして帰ってきた!?」

 目の前の人物は数年前と少しも変わらぬ姿で、ただ以前よりも濃くひげを伸ばし、年齢を重ねた威厳を発していた。

 彼は兼行を見据えると、眉間に皺を寄せ、数年ぶりの旧友との再会に発した言葉は一喝だった。

 兼行には何故彼がそんな事を言うのか分からず、眉間に皺を寄せた。

 戸惑う兼行に気を止めた様子無く、梛木は彼の肩を掴むと、ぎゅっと力を入れる。

「悪い事は言わない。今すぐにでも都に戻れ」

「しかし…」

「里全体に名が広がる前に、すぐに都へ戻れ」

「都には…」

「都が駄目なら他の土地でもいい。ここじゃない場所へ移れ」

「ちょっと待ってくれ!」

 捲くし立てるように自分を追い出そうとする梛木に苛立った兼行は彼の言葉をやや声を荒げて制止する。

「どうしたんだ!梛木!折角帰ってきたのに喜んでくれないのか!?折角の再会を喜んでくれないのか!?」

 兼行は詰め寄るが、梛木は何も答えず、ただじっと彼を睨みつける。

「ふぇぇぇぇ」

 睨み合う二人の間で、それを妨げるようにずっと大人しくしていた結乃が泣き始めた。

 兼行は我に返り梛木から視線を逸らすと慌てて腕の中の結乃をあやし始める。

 じっと見つめていた梛木は「お前の子か?」と問うと、兼行はこくりと頷く。そして次に顔を上げ、兼行の背の向こうで心配そうにこちらの様子を伺う藤乃を見ると、「お前の嫁さんか?」と問い、兼行はまた頷いた。

 兼行が後ろを振り返ると、藤乃も二人のやり取りを見て脅えたのだろう、青褪めながらこちらを見ている。

「真澄はどうした?」

 次いで聞かれた問いに、兼行は一瞬動きを止め、そして「いない」とだけ答えた。

 梛木は一瞬目を細め、何かを考えているようだったが、兼行はそれに気付く事無く、腕の中の子をあやし続けた。

「なぁ。お前今時間あるか?」

 梛木の問いに兼行は顔を上げ、少し考えると、「ああ」と答える。

「だったらその子を誰かに預けて来い」

 兼行は梛木を見上げ、暫し見つめるが、彼の真意を読み取る事は出来ず、「ちょっと待ってくれ」と答え、傍にいた女房に結乃を預けると、既に歩き始めていた梛木の後ろに続いた。

 屋敷の裏手に広がる森、子どもの頃毎日のように通った道。それを辿るように兼行は梛木に連れられてどんどん深くなる森の中に入っていった。

 それでも以前より開けて感じるのは自分たちが成長しただろうか。兼行は思う。

 鬱蒼とした背の高い草が微かに覗く程度だった獣道が唯一の道筋であった地面も、何処までも空高く伸び昼を夜に変えるが如く乱立し天まで届こうとしていた木々も、全てが以前見た光景よりも小さく見える。

 兼行は懐かしさを感じながら、更にこの奥にある場所へ、恐らくは最終地点であろう場所へ思いを馳せていた。

 一方で何度か梛木に声を掛けてみたりもしたのだが、返事は一切返る事はなく、兼行はただ昔の面影と今の目の前にいる彼を被らせて懐かしさに囚われる自分を慰めていた。

 森の奥、突然開かれた場所に出る。

 遮られていた太陽の眩しさに兼行は一瞬目を眩ませるが、すぐに慣れ、眼前の風景に溜息が漏れる。

 目の前に広がるのは大きな湖。

 兼行と真澄が初めて出会った場所だ。

 水の色も周囲に広がる草原も、その中でぽつりぽつりと彩を添えるよう花たちも何も変わらない。

「変わらないな…」

 ぽつりと言葉を漏らす。

 何一つ変わらない風景に見惚れる兼行に梛木は溜息を吐くと、彼に向き直った。

「お前も変わらないな」

 先程までの常に棘のなる厳しい口調から柔らかくなった梛木の言葉に、兼行はほっと胸を撫で下ろす。

「やっと昔のお前の口調だ」

 言われて梛木は一瞬目付きをきつくすると、すぐに苦笑に変わった。

「そうか。…そうだな」

 兼行には何故そんなにも曖昧な表情をするのか理解出来なかった。

「聞いてもいいだろうか。どうして私にこの地から離れろと言ったんだ?私はそなたを友だと思っていた。だからこの地へ帰ってきたらきっと喜んで迎えてくれるだろうと思っていた」

 梛木を真っ直ぐ見据え訴える兼行に彼は暫く沈黙すると、また苦笑した。

「そうだ。友だちだと思っているから、離れろと言ったんだ」

「どういうことだ?」

 兼行は眉間に皺を寄せる。

 梛木は理解できないという彼の表情を読み取ってから、ふと視線を目の前に広がる草原へと移す。

「お前、昔、ここで異能の力を引き出す練習してただろ。よくこの花を集めて持って来てくれたよな」

 そう言って梛木は足元に咲いていた花を一つ摘むと、掌で遊ばせる。

 手の中の白い花。

 薬草になるという事で、その辺の名もない草花を成長させるよりも有益になると選んで兼行はよく成長させては一気に刈り取って、目の前の青年に渡していた。

「そうだな。それがどうかしたのか?」

「元々この場所でこの花が咲くのを知っていた。けどそんなに沢山咲く花じゃない。本当ならこの場所で毎年咲くのもこの程度だったんだろうな」

 兼行は周囲を見渡し、ぽつりぽつりと姿を見せる白い花を見て、確かに梛木の言う通りだと頷く。

 本来はそれ程強い繁殖力を持つ花ではない。あくまで兼行が己の力を上手く引き出すために、そして人の役にも立つからと大量に咲かせていただけだ。

「そうだよな…それでもそれを納得するまでには随分な時間が必要だったんだ」

 梛木は兼行を見上げ、そしてまた苦笑する。

「ゆきがこの土地を去った後、当たり前だけど収穫は格段に減った。そして噂が流れ始めた。

――ゆきが全て採り尽くしたから花が咲かなくなってしまったんだって」

「それは違う!」

「誰がそれを信じられる!?里の人間は皆真澄の事、麒麟の事を知ってたし、ゆきが異能の力を使えるようになり始めたのも知っていた。お前たちが俺らにその力を使って花をくれたのも知っている。それでもお前たちがいなくなって全然採れなくなった。お前たちが本来沢山咲かない花を無理やり沢山咲かせて採ったせいで元々毎年咲いていた花さえも咲かなくなってしまったと思ったって仕方がないじゃないか!」

「けれど私たちのせいじゃない!」

「それをどうして言い切れる。――俺たちはな、信じているんだ。真澄も、麒麟も傍にいたし、そんな事する奴でもないし、そんな理屈なんか通るような力じゃないってのは。けどお前たちの事を良く知らない奴だっているし、その力を嫌っている奴や、信じない奴、憎んでる奴だっている」

「そんな…。けれど!」

 反論しようとする兼行を梛木は制止する。

「俺だってお前たちがいなくなった最初の頃はまさかと思いつつもそうしか考えられなかった。俺なんか一気に金が入らなくなったしな。…まぁお前らに貰ってた物に頼ってたのも悪いんだけどよ。けど実際自分で採りに行ったら全然採れねぇ。昔からそうだったのかも知れねぇけどそんなの分かんねぇし、お前らが採った後から減ったとしか思えねぇ」

「そんな事は無い!」

 兼行は必死に否定し続けるが、一方で反論する自分の言葉がいかにが空っぽであるかに気が付いた。

 その言葉には何の根拠も無い。

 いつだって植物を急成長させる事を繰り返し、それを続けても枯渇した事は無かった。

 けれど何回、何十回と繰り返して、本当にもう採り尽くして、無くなる事があるのか。そんな事態に至るのか試した事は無い。

 そして成長させる力を使っていたのは自分だけで、真澄は幼少期に見せてもらった桜のみ。麒麟に至っては見た事が無い。

 だが彼らが枯渇すると教えてくれた事は無い。

 それはそこまで繰り返した事が無かっただけだったら?

 己の内に出た疑問と不安が浮き上がるが、今目の前にいる梛木に言う事は出来なかった。

 決して自分は悪くない。

「薬が手に入らなくなってからビンボーでよ。飢えで娘二人死んで、かみさんには逃げられ、毎日食う物無くてキツイ人生だったぜ」

「!」

 兼行は息を飲む。

「それでもお前たちはそんな事しねーって…何度も何度も」

 拳を握り締め、梛木はこれまでの人生を反芻しているのだろう、噛み締めるように呻くように呟いた。

「だったら私が…私が今ここでまたその花を満開にさせたら枯渇していない事の証明にならないだろうか?」

「止めろよ!」

 きっとこれならと浮かんだ案は名案の様な気がして兼行は表情を明るくして梛木に訴えるが、逆に一喝されてしまった。

 梛木はまた苦しそうに表情を歪める。

「――お前は変わらないな」

 言って、一呼吸吐くと、梛木は空を見上げる。

「薬草の問題があった後な、このあたり一帯で酷い日照りが続いたんだよ。農作物が何年も取れなくなって、沢山の人間が飢えで死んだ。――それも全部お前のせいにされた」

「―――」

「本当の事はどうでもいいんだよ。天気相手に恨んでも仕方がねぇ。けど気持ちは治まらねぇ。恨む相手が、理由が欲しかったんだよ。皆。それがお前だ。だからお前は早くこの里を出た方がいい」

「そんなのは…真澄だって、麒麟だって…」

 真実を見ずに非難される憤りは置いておいたとしても、何故自分だけが非難されなくてはならないのか。兼行がそんな思いで呟くと、梛木はまた笑う。

「真澄たちはそりゃ色んな事をして見せてくれたよ。けどな、草や花を成長させたのを見せたのはお前だけだ」

 何故。

 何故。

 真澄はこうなる事を分かっていて、自分にあの方法で力をコントロールさせる事を教えたのか?

 そんなはずはない。

 そう信じていても、疑わずにはいられない。

 ――それは今も自分自身が向けられているこの里の人間の疑念のように。

 梛木はふと気になった事があったのか、問い掛ける。

「なぁ。お前、真澄にあんまり草の成長とかさせたりするなとか言われた事無かったのか?」

「―――ない」

 はずだ。という言葉は付けなかった。

 きっと言われた事は無いはずだと信じたかったから。

「確かにお前の力を使えば幾らでもまた花を咲かせる事が出来るかもしれない。けどそれは結局お前がいる間だけの事で、ほんと一瞬の一時の奇跡みたいなもんだと思わなきゃなんなかったんだよな。いつか真澄の言ってた言葉の通りだと思ったんだ。『年に一回ちゃんと成長して作物は大きくなるのにどうして態々早く成長させるの?』って。一年に一回採れる。それで満足していれば良かったんだ。――そうしたら余計な誤解も生まず、お前を恨まずに済んだのに」

 そう言うと、それ以上その場にいるのは耐えられないとでも言うように、梛木は兼行から顔を背け、その場から去っていた。

 兼行の中に、真澄の言葉が響く。

 それは、枯れた畑に植えられた作物の生長を促した時の事。

 『ゆき。それでもこの葉が枯れたら、また栄養の無いただの枯れた土地になってしまうよ』

 違う。

 あれは『成長させるな』という意味じゃない。

 大体自分が力を使わなきゃ、その畑を耕していた農民は貧困を迎え、死んでいたじゃないか。

 『お前のせいで!お前のせいで!』

 自分には一時だけだとしても彼らを救う力を持っていた、。だから力を使った。

 自分に持てる力を使う。それで救われる人がいるのなら躊躇わず使う。

 それなのに。どうして。

 風がふわりと流れる――。

 同時に。

 一斉に白い花が咲き、草原一面を埋め尽くした。

 次の瞬間強い突風が吹き、咲き乱れた花たちが一瞬にして空に舞い上がる。

 再び緑一色に戻った草原には、また白い花が咲き始め、一面を埋め尽くした。

 兼行は空に舞ったままゆっくりと下降してくる花の一つを手に取り、見つめた。

「―――たったそれだけの事なのに」


 湖から兼行が戻ると、森の中から姿を現した彼を見つけて聡里が一目散に駆けてきた。

「兼行様!」

 異変を感じた兼行も慌てて彼女に近付く。

「どうした!?」

「実は…藤乃様が…」

 そのまま言い淀む聡里に兼行は不安になり、階を一気に駆け上がると、藤乃に宛がう予定だった部屋まで駆けていく。

「藤乃!」

「近寄らないでください!」

 泣いていたのだろう目を真っ赤にして瞼を腫らし、まだ片付いていない部屋の中で兼行から逃れるように必死に距離を取ろうとしていた。

その表情は起こっているというよりも脅えていた。

 兼行を見て、兼行に対して、脅えていた。

「もう嫌です!ここまで来たけれどもう嫌!」

「藤乃。興奮するとまた熱が上がる」

 体調が良くなってきたとは言え、未だ精神的な疲労は取れないのか少し動くだけですぐに熱が上がる。

 心配し、彼女の頬に伸ばした兼行の手を藤乃は撥ね付けた。

 初めての事に兼行は目を見開く。

「触らないで!その変な力を私に使わないで!殺すなら殺せばいい!どうせ帰る所なんか無いんですから!化け物の妻なんてもう嫌!」

「―――」

 初めて発せられる衝撃的な言葉に兼行は言葉を失う。

「ここでなら静かに暮らせるなんて嘘!ここでも化け物扱いじゃありませんか!どうして!?どうして私がこんな目に合わなくてはならないのですか!?」

「藤乃様!」

 聡里が慌てて駆けつけ、懸命に宥めるように彼女の肩を抱く。

「もう嫌!嫌!嫌!」

 聡里の手を払い、顔を伏せ、半乱狂になって叫ぶ藤乃。

 兼行は聡里を見るが、彼女は彼を見上げると、首を横に振る。

 一度払われた手を再度伸ばすのは躊躇われたが、それでも息を一つ吐くと、藤乃の頬に触れる。

 藤乃はびくりと振るえ、透かさず逃れようとするが、そのまま逃れさせること無く抱き締める。

「落ち着いて」

 優しく囁くが、藤乃の肩はカタカタと震えている。

 まるで大きな動物に襲われた小動物のように。

 ついほんの先刻までははあんなにもあどけなく笑っていたのに。

 痛む胸を抑えながら、兼行はゆっくりと目を閉じた。同時に藤乃の震えはぴたりと泊まり、彼の腕の中にくたりと倒れ込む。

 どうする事も出来なく、ただ見守っていた聡里は不安気に兼行を見た。

「…眠らせただけだ」

 ほっと安堵する聡里を横目に、兼行は己の腕の中で眠る藤乃を見つめる。今の事で相当緊張し、疲れていたのだろう、疲労の表情を浮かべていた。

「…藤乃はいつから…」

 視線は藤乃に落としながら、聡里に問う。

 暫しの間沈黙を保っていたが、聡里は言い難そうに話を始めた。

「以前のお屋敷にいた時から…。兼行様が謹慎を言い渡され、屋敷にお戻りになられなくなった頃からです」

「私は彼女には決して不自由な思いをさせてはいなかったはずだが」

 その言葉に聡里は溜息を吐く。そして居住まいを正すと兼行に向き直った。

「兼行様。この事は言うまいと思っていました。奥様と屋敷の使用人たちだけで収めておこうと思っていました」

 兼行は聡里の空気が変わったことに、自分も姿勢を正そうとするが、藤乃を抱えている為出来ない。

 寝かせようにもまだ寝床を作っていない為、寝かせる事が出来ない。

「今寝床を作っております。出来次第声をかけるように言ってありますのでそれまで藤乃様はそのままお支えになってください」

 そう言われ、兼行は仕方が無くあきらめて、ただ目の前で語り始める聡里に向き直った。

「兼行様。兼行様が屋敷に戻られなくなる前後、朝廷で何があったか覚えていらっしゃいますか?」

 聡里に問われ、兼行は眉間に皺を寄せる。

 それは反省すべき、そして思い出すだけで胸が痛み、何よりも今もこうして都を離れる原因となった出来事が凝縮されている時。

 自分に同行した従者が自分が原因で殺され、己の行った農地改革が農民たちに多大な被害を与え、それ故に自分を恨んだ農民が麒麟を連れ朝廷に乗り込んできた。

「覚えている。それでも全て内裏内で片付け、屋敷に持ち込む事などしなかったと思うが」

 答える兼行に聡里は首を横に振る。

「いいえ。兼行様はそのおつもりだったのでしょうが、そんな事はありませんでした。まず異能のお力を使われた事で、最初はどうにかして兼行様を身内に引き入れたいという貴族が連日のように屋敷に訪問されたり、文を下さいました。近隣の農民もそれはもうお供え物か何かのように毎日野菜やら魚を届けてくださいました。奥様も私たち女房や舎人も戸惑いながらも受け入れておりました。兼行様のなさっている事はそうした我々に関わろうとした方々から聞いておりました。けれど本来身分を重んじる今の世で、どの方とも違う特別扱いに不安を覚えてもおりました」

「―――」

「そしてそれは兼行様がお屋敷に戻られなくなった頃豹変したのです。内裏でお上を巻き込むような大きな事故が起こったのでしょう?そして兼行様がその異能の力を持ってして行われた政策に綻びが出たからなのでしょう?」

 兼行は驚いて聡里を見た。

 家人には何一つそうした状況を伝えていなかったはずだからだ。

「今まで関わってくださった貴族の方々がまず手を翻しました。文には兼行様に対する罵詈雑言、いえ、人として扱ってくださるならまだ良かった。『化け物』と罵ることばかり書かれている文が大量に届くようになりました。今まで作物を届けてくれた農民たちも兼行様に会わせろ。人殺しと連日押しかけるようになりました」

 それは兼行の安易な案により、家族を失わせた農民たち。

 一瞬のうちに想像がついた兼行は何も言い返す事が出来ず、目を伏せる。

「壁や庭を馬の糞や残飯で汚し、滅茶苦茶にされ、それでも屋敷だけは守ろうと必死で防ぎました。既に私たちの言葉は何を言っても伝わる事は無く、化け物屋敷の家人として蔑まれて、ただ毎日兼行様の帰りをお待ちしておりました。――そして」

 そこで言い詰まり、聡里は悲しそうに藤乃を見つめた。

「藤乃様はご実家から絶縁を言い渡されました。一度化け物の嫁になってしまったのだから既に化け物に取り込まれているだろう。二度と家には近付くな。と」

 その言葉に兼行は目を見開いた。

 そこまでの状況であれば本来親として娘を引き戻し、別の男の元へ嫁がせるという事も出来ただろう。

 しかし、そうとはならなかった。

「私が異能の力を持つが故か…」

 聡里はこくりと頷く。

「私たちは兼行様を信じております。だから出来るだけ兼行様には悟られないように、お仕事に専念出来るようにと藤乃様のご希望もあり、家人皆で隠し通してきました。けれど…結局はこの地でも同じようですね」

 今まで耐え続けてきた藤乃は新しい土地ではきっとそういった嫌がらせから開放されると期待していたのだろう。心が緩んだ頃に、里の人間からまた非難される兼行を見たのだ。心労は一層のものだっただろう。

 兼行はやりきれない気持ちで一杯になり、藤乃をまた強く抱き締めた。

「…私は人だ。ただ異能の力をもっているというだけなのに、何故こんなにも酷い事が出来るのだ?」

「兼行様――。ご自身が均した土地をしっかりと目に焼き付けなさいましたか?」

 聡里は藤乃を抱き締めてぎゅっと痛みを耐えるように目を閉じていた兼行に問う。

 彼は顔を上げると、眉間に皺を寄せた。

「それと今の状況と一体どんな関係があるのだ?」

 問い返す兼行の瞳を聡里は静かに見つめ返し、そしてゆっくり目を閉じた。

「人を想うという事は、目の前に映るものばかりではないのですよ」

「何故、今そんな事を言う」

 兼行が訝しげに問うが、聡里は緩慢な動作のままゆっくりと首を横に振る。

「何でもありません」

 それ以降、聡里は口を閉ざし、開く事は無かった。

 そしてその日以来、彼女は兼行と距離を置くように、彼に近付かなくなった。

 藤乃もその後目を覚ましたが、以後、兼行と顔を合わせる事はしなかった。

 彼女に宛がわれた部屋に籠もり、聡里が世話付きとなり、彼女の傍にいた。

 子どもたちも彼女の部屋で聡里に育てられ、やはり部屋から出る事は無かった。

 謹慎中の為すべき事が無い兼行は一日を一人で過ごすようになっていた。


 兼行は一人桜の木を見つめていた。

 彼の屋敷の庭にたった一本だけ植えられた桜の木。

 これから冬を迎えようとしている季節に枝には葉も花も無い。

 兼行は木に手を触れ、目を閉じる。

 この木は彼の幸せと悲しみの象徴だ。

 母や父と共に過ごした幼少期。真澄や麒麟、里の友人と毎日のように遊んだ日々。

 母の死に直面し、己の悲しみを受け止め、同時に母に穏やかな最後を与えてくれた。

 兼行の中で生まれた沢山の感情を癒してくれた。

 そして顔を上げ、視線を桜から屋敷に移すと、御簾で閉ざされた部屋が目に入る。

 そこは藤乃に宛がった部屋だ。

 彼女も彼の母のようにこの桜に癒され、慰められればと思い、今の部屋を宛がった。

 いつか子どもたちと四人でこの庭で遊ぶのもいい。そして彼の大切な場所であるように、家族の大切な場所になってくれればいい。

 都で自分が屋敷を長期不在にする事で与えていた不安や悲しみを癒し、新しい、楽しい家族の思い出を増やしていければいい。

 そんな事を思っていた。

 己自身の事で悲しませているだろう事は感じていたが、己の持つ異能の力故に傷つけていたとは知らなかった。

 もう心を開いてくれる事は無いのだろうか。

 そう思うと、ただただ虚無感が全身を襲う。

 どうしてこんな事になるのだろう。

 何度考えても分からない。

 藤乃にどれ程辛い思いをさせていたか分からない。だからこそ謝りたいのに、彼女は会う事も、部屋に入る事も許してくれない。

 たった御簾の一枚向こう。そこにいるのに。

 兼行は胸に込み上げるものを抑えながら、藤乃のいる部屋を見つめる。

 彼は一日の殆どをこの桜の下か、もしくは湖の傍で過ごす。

 梛木に忠告されてからは里を訪ねる事も出来ず、人と会う事も憚れた。

 屋敷の人間は元々少なくなっていた事もあったが、食事時や所用で申し付ける事がある時以外、兼行の部屋の傍には誰も寄らなくなっていた。

 都の屋敷から持って来た、部屋の中に高く積まれた書物は兼行の興味を引くものは無く、そこから得た知識を必要とする機会も場所も失い、今の屋敷に戻ってからは全く手を付ける事が無くなっていた。

 ただ桜の木の下で思い出に浸り、湖で持て余した能力を使って、草原の花を咲かせ、湖を揺らす。

 それが全てだった。

 一人で過ごす兼行が出来るのは、ただ思考する事だけ。

 他は何も許されない。

「何故…」

 兼行は呟く。

 それは彼の最近の口癖になっていた。

「私が望んでいたのはこんな事ではなかったはずなのに…」

 彼の手の中から彼の大切にしていたものが全て零れ落ちていく。

「ゆき!」

 屋敷の外から突然悲鳴交じりの声で名を呼ばれる。

 思考の渦から引き戻された兼行は振り返り、声がした方向へ向かう。

 門に寄ると、門衛に止められている梛木を見つけた。

 彼は体中が煤汚れており、傷だらけで、ここまで来るのでも精一杯だったのだろう息を切らし、今にも倒れ込みそうなほど苦痛の表情を浮かべていた。

「お前!お前などこの屋敷に入れる身分ではないぞ!」

 そう言って門衛は容赦なく梛木を突き飛ばす。抵抗のしなかった梛木は力無く地面に座り込んだ。

「止めろ!」

 兼行は門衛を止めると、梛木に近付き、彼の横に屈み込んだ。

「どうしたんだ!?」

 尋常じゃない様子に兼行は眉間に皺を寄せ問い掛ける。すると、梛木は彼の胸倉を掴み、顔を近づけると強い眼光で睨み付けた。

「何でまだここにいやがるんだ。お前は。…今すぐこの屋敷を離れて逃げろ」

「どういうことだ?」

「お上がお前に耐えして討伐隊を遣して来やがった」

「――!?」

 予測のつかない言葉に、兼行は息を飲んだ。

「俺だけどうにか逃げ出してお前に知らせに来たけど、今頃里の人間皆殺しだ。すぐにここにも来る。手遅れになる前に逃げろ!」

「里は?」

「里はもう滅茶苦茶さ。お前の異能の力にとっくに取り込まれた里だからと里ごと火を放ちやがった」

「…どうして…そなただって家族はっ!」

 兼行の問いに梛木は自嘲気味に笑う。

「とっくに死んでる。お前と特に関わりの深かった人間も事前に調べてたんだろ。里の一番山側の奥地にある俺の所に真っ先に来て、子ども二人とも目の前で殺しやがった」

「!」

「俺だけどうにか逃げ出したんだ。多分他の奴らも襲われてる」

「帝がそんな事するはずが…」

 未だ語られる内容が信じられず、戸惑う兼行に梛木が冷ややかな眼差しを向ける。

「勅命だって。国に害を為す化け物を狩る為に下されたって。何とかって名乗ってた男が言ってたからな」

 『化け物』。

 兼行は息が止まる思い出、その言葉を繰り返した。

 そして意を決したように視線を上げると、立ち上がる。

 今にも走り出しそうな彼の衣の裾を梛木は慌てて掴んだ。

「何処へ行く!?」

「皆を助けに行く!」

「馬鹿かお前は!何の為に俺がここに来たと思ってるんだ!」

「今ならまだ救える命だってあるだろう!?それにその勅使とやらを止める事が出来るのは私だけだ!」

「その力を使ってか!」

 その問いに、兼行は当然と言わんばかりに大きく首を縦に振った。

 途端、返されたのは罵声だった。

「だから馬鹿かお前は!!何の為にその力を使うんだ!?んな力まず最初に何に使うって言ったら、家族を守る為にに決まってるだろうが!」

 兼行は動きを止め、目を見張った。

「その為に俺はここまで来てやったんだぞ。子どもだってカミさんだって、この家で一緒に暮らしてる人間だっているんだろ?何かでかい事やるよりもまず家族を守らなくてどうするんだよ!そんで余裕があんなら他の人間を助けろ!」

「――!」

 真っ直ぐに自分を見据える瞳に対して、兼行の瞳の置くにはそれでも戸惑いが揺れていた。

「早くしろ!」

「…どうしてそこまでしてくれるんだ?」

 自分だって家族を失って辛いはずだ。自分の命だってどうにかギリギリ一命を取り留めて逃げ延びてきたはずだ。それなのに何故また命の危険を冒してまで態々全ての原因であり標的である人間に危険を知らせに来るのだ。

 兼行は彼の為に何もしていない。しかも人生そのものを壊すような被害ばっかり与えていたのに。

 そんな兼行の迷いを知ってか知らずか、梛木は苦笑すると、「馬鹿だなぁ」と呟く。

「ダチだからに決まってるだろ」

 その言葉に兼行は目を見開き、顔面をくしゃくしゃにして喜んでいるような泣き出しそうな複雑な表情を見せた。

 そして、今度こそこくりと頷くと、彼の後ろで動揺した様子を見せていた門衛に彼を屋敷内に匿うように告げ、一目散に彼がずっと入ることの出来なかった部屋、――押し入ることはいつでも出来たがしなかった部屋へ向かう。

 廊下と部屋を区切る御簾の前まで辿り着くと、動きを一瞬止める。己の手の見ると微かにカタカタと震えていた。

 緊急事態だと分かっていても、それでもこの御簾の向こうへ入る事は躊躇われた。

 自分を拒否、否定するどんな言葉をこれから投げつけられるかと思うと、未だ震える。

 そんな己自身の恐れを振り切って、兼行は口を開く。

「藤乃。入るぞ」

 入って最初に目に入った光景に、兼行は己の目を疑った。

 藤乃付きの女房たち、聡里が彼の足元に正座をすると、深く叩頭する。

「…これはどういう事だ…」

 薄暗い部屋の中、藤乃は寝台になる畳の上に横たわっていた。

 体は細く痩せこけ、顔色は青白く、この屋敷に移る前の時よりも更に容態は悪くなっていた。

 子どもは別の部屋にいるのだろう。この部屋にはいなかった。

 兼行は真っ直ぐに藤乃の横に向かい、屈むと、細くなった彼女の手を握る。

「藤乃…」

 声を掛けると、目を閉じていた藤乃はゆっくりと目を開け、目の前の己の顔を心配そうに覗き込む夫を見た。

 そうして兼行の姿を認めると、瞳から涙が溢れ出し青白い肌をぽろぽろと零れていく。

「…申し訳ありません…」

「何故謝るのだ?謝らなければならないのは私の方なのに」

「いいえ。いいえ。…私は貴方を化け物と罵ってしまった。申し訳ありません」

 うわ言のように「申し訳ありません」と謝り続ける藤乃に兼行は困惑し、彼と対面するように藤乃の横に座っていた聡里に視線を上げ、目で彼女に問う。

「先日の…気が動転されていたとはいえ、兼行様に脅え、罵った事をずっと後悔されていて…謝りたいと……私がお伝えしましょうかと言ってもご自身から伝えると仰って…」

「それで、どうしてこんなにも憔悴しているのだ?私に言ってくれれば…」

「兼行様のお力を一度でも嫌悪し、拒否してしまったのにその力でまた治して頂く事などできぬと…」

 兼行は藤乃を再度見下ろし、掴んだ手をぎゅっと握り締める。

「そんな事私は気にしない!どうしてすぐに言ってくれなかったのだ!?」

 温かくいつも彼を癒してくれた手は、冷たく細くなり、彼女の皮と骨の節々の硬い感触を伝えてくる。

「直接自分から言うから、それまでは会えない。こんな状態の自分を知らせて、また心配をかけたくないと」

「…どうして…」

 自分は彼女に見放され、嫌悪の対象となってしまったのだ。そうずっと思っていたのに。

 沢山の誤解をしていたのだ。

 言葉にならない気持ちばかりが兼行の胸の中に渦巻く。

「兼行様!里の人間が!」

 いつまでも逃げる準備をするでもなく、外にも出てこない兼行に焦れたらしく、門衛が御簾の向こうから声を上げた。

 その声に、自分が今置かれている状況を思い出し、兼行ははっと顔を上げる。

 軽く手を上げると、御簾が一気に開き、目を見開いてこちらを見る門衛と目が合う。

 その後ろからばらばらと命からから逃げてきたのだろう、身なりが汚れ煤け、体中が傷だらけの者たちが男女問わず庭に入ってきた。

 兼行はその人間の中に知ってる人物を見つけた。

「かえで!」

「ゆき!どうか助けて!この子が!私の子が!」

 叫ぶ彼女の腕には黒いものが抱かれていた。

 姿はどうにか人の形をとどめているが、全く動かない。

 かえでは躊躇無く階を上ると、その黒くなった子どもを兼行に差し出す。

 周囲の女房たちからは悲鳴が上がった。

 兼行は彼女の腕の中の子どもと呼ばれるものを見るが、彼の目から見ても明らかに既に絶命していた。

「かえで…。無理だ。死んでいる…」

「だったら生き返らせてよ!」

「できない。死んだ人間は生き返らせられない。残念だが…」

 首を振る兼行にかえでの表情はすがるような必死の表情から一気に怒りに変わった。

 その変化の瞬間を見た兼行は鬼となるというのはこういうものかと冷静に思った。

「あんたのせいで!あんたのせいで皆殺された!あんたのせいで!」

 噛み付くように叫び、襲いかかろうとしたかえでを後ろに構えていた門衛が押さえる。

 彼女が豹変すると同時にまだ階の下で流れを見守っていた里の者たちも一斉に喚き出す。

「お前が来たからお上が俺たちを殺しに来たんだ!」

「お前が来なかったら!」

「お前がいなかったらあんな飢えだって起きなかった!お前のせいであの時から全部狂ったんだ!」

「死ね!」

「死んで償え!」

 それはまるで都で農民に襲われた時の光景の再来。

 彼らは階を上り、兼行に襲い掛かる。

 兼行は顔を顰め、それからはっとして藤乃を見た。

 彼女は床から動けないまま天井を見上げ、ただ無表情に泣いていた。

 彼女だけでもこの場から逃そうと後ろに控えていた女房たちを振り返るが、聡里も女房たちも真っ青になって目の前に起こっている光景を見つめ、動けずにいた。

 その時、今度は屋敷内からドタンバタンと大きな音が立て続いて起こる。

 屋敷が破壊されているのではないかと思えるくらいあまりにも大きな音に、今にも兼行に掴みかかろうとしていた里の人間たちの動きが止まる。

 その間にもガタンと大きな音と共に悲鳴が重なり始め、それが徐々に迫り来る恐怖の予感を助長させていた。

 つい今まで怒りの形相をしていた者たちが一人また一人と脅えの表情に変わり、上っていた階を降り始める。

 次の瞬間、里の者が引き下がった庭のほうから火の手が上がった。

「!?」

 無数の火の矢が屋敷を取り囲むようにそびえる壁を越え、家屋に向かって放たれ、それが屋根に刺さり火をつける。

 事態を悟った里の者たちは悲鳴を上げてちりじりに逃げ始めた。

 火の矢の後に庭に甲冑に身を固めた兵士たちが入ってくると、彼らは一斉に刀を抜き、逃げ惑う里の人間たちに容赦なく斬りかかった。

 我を取り戻した聡里が立ち上がり、藤乃が起き上がれるように支える。

「行久と結乃が…」

 藤乃が憔悴している体の何処にそんな力があったのか、兼行の手を掴み、訴える。

 兼行はサッと青くなると立ち上がった。

 途端。

 バン!と勢い良く部屋を区切っていた几帳が吹き飛ばされる。

 兼行は咄嗟に藤乃を庇うように彼女の前に立った。

「兼行様ですね」

 目の前に現れた人物を見て、兼行は目を見張った。

 黒い甲冑を血で濡らした男がそこに立っていた。

 手にした刀はそれで既に幾人も斬ったのだろう、刃がぼろぼろになり、固まった血糊が黒く変色し始めている。

 兜の奥から覗く双眸は血に飢えた獣如く紅く充血して獲物を求めていた。

 その目には覚えがあった。

「…まさか…」

 兼行が呟くと、男は口の端を上げ、にたりと笑う。

「覚えて下さっているとは光栄です。兼行様」

 忘れる事は出来ない。

 一度目は畑の畦道で。

 二度目は内裏内で。

 この男は自分を憎み、自分を殺しに来た。

「吉郎…」

 名を呼ぶと、男は嬉しそうに笑った。

「帝の命により貴方の命を頂きに参りました。ああやっと正々堂々と貴方を殺せる」

「兼行様!お逃げください!」

 門衛が太刀を抜き、吉郎に襲い掛かる。

 が。

「止めろ!」

 兼行の制止は間に合わず、門衛はあっさりと切り捨てられた。

 女房たちが目の前の惨劇に悲鳴を上げる。

 この男は麒麟の手解きを受けている。

 それは並の人間には太刀打ちできない腕を持っているという事を、兼行は内裏での戦いの時に理解していた。

 そして改めて衝撃を与える男の言葉が彼の胸に刺さる。

 『帝の命により貴方の命を頂に参りました』と。

 梛木の言った通り、自分は朝廷の敵とされた。

 帝に不必要だと宣告されたのだ。

 その事が未だ信じられずにいた。

「子どもたちは!?私の子どもたちは!?」

 藤乃は兼行の腕をぎゅっと握り締め、吉郎に問う。

 すると吉郎は楽しそうに笑った。

「子どもたちは無事ですよ。まぁそこにいた女は殺してしまいましたけど。まだ子どもたちには利用価値がありますから」

 そう答えた吉郎の後ろから二人の子どもを抱えた、彼と同じく甲冑を纏った男が現れる。

 腕の中の子どもたちはこの状況を察知しているのか手足をばたつかせ泣き続けていた。

「返して!その子たちを返して!」

 藤乃が吉郎に掴みかかろうとするが、兼行は制止する。

「無理です。貴方も貴方のご主人もここで死ぬんですから。帝から思い通りにならない道具はいらないと。思い通りにもならず朝廷にとって不穏分子にしかならないただの化け物などいらないと言われてきました。――その分、子どもは素直ですからねぇ。力を持っているか分からないが、取り敢えず育ててみる価値があるから連れて帰れとのご命令です。俺としては家族全員皆殺しにしていいと思うんですがね」

 尊敬していたのに。

 兼行は唇を噛む。

 確かに清廉潔白な人物ではない。

 政の為になら汚れた事も平気でするし、奸臣の裏をかいて逆に使い捨ての駒にして陥れる事だってする。

 それでも、どんな事にも柔軟で豪胆なあの帝を尊敬していたのに。

 いや。彼が兼行に見せていた表情さえも兼行を手元の駒として置いておく思惑の内だったのかもしれないが。

 ゴゴゴゴゴ。ゴォン!

 梁が焼け、天井が勢い良く落ちる音が聞こえる。

 それが兼行の意識を目の前にある現実に容赦なく引き戻す。

 大きな衝撃音に皆の意識が一瞬逸れたの機に、それまでじっとしていた聡里が動き、吉郎の横をすり抜けると、行久と結乃を抱える男に飛び掛る。

「聡里!」

 彼女の動きに気付いた兼行が声を上げるが、既に遅かった。

 シュン!

 空気を切り裂く音が一瞬響いたかと思うと、彼の目の前で聡里の胴と下半身は二つに分かれていた。

「聡里!」

 藤乃が悲鳴を上げる。

 聡里自身の最後の声が上がる事無く、ぐしゃりと鈍い音を立てて床に体は叩きつけられた。

 刀を振るった吉郎は無表情に崩れ落ちるそれを眺め、そして腕を振った。

 瞬間、兼行は身を引く。

 ブォン!

 先程とは違った激しい風切音と共に、刃が彼の目の前を通り過ぎる。

 しかしそれで吉郎の追撃が終わる事無く、二、三度と攻撃が繰り出される。

 吉郎は嬉々として刀を振り下ろし、そして逃げることしか出来ない兼行をせせら笑った。

「俺はなぁ!一度は獄舎に入れられたがお前を殺す為に出してもらったのさ!お前を倒せるのはお前と同等の力を持った奴に手解きを受けた俺ぐらいだからな!」

 ブォン!

 藤乃を背に庇いながら身を引く兼行には分が悪く、廊下の端まで追い遣られる。

 階を降りたその向こうには彼を討伐する為に来た他の兵士が構えている。

「この化け物が!死ねぇっ!」

 最後の一振りとばかりに振り下ろされた刀を、兼行は身を反らしてかわす。

 ――が。

 太刀筋から逃れきるには足場が足らず、逃げ切れない。

 ザン――。

 同時に彼を庇うように前に出た藤乃は肩から斬りつけられた。

「っ!?藤乃!?」

 叫び、藤乃の肩を抱えながら兼行は階を一段降り、そして目覚しい跳躍力で目の前にある桜の木の上へと飛び移った。

「藤乃!藤乃!」

 腕の中でどんどん冷たくなっていく妻に必死に声をかける。

 藤乃は苦しそうに瞳を開けると、兼行を見つめ、微笑んだ。

「他の人が何と言おうとも、貴方はこの国で必要なお方です。どうか生きて…」

 兼行は藤乃の傷口に触れ、一瞬にして傷を消す。

 しかしそれでも彼女の体は更に体温を失っていった。

「何故だ!?何故!傷は治したのに、どうしてまだ回復しない!?」

 動揺する兼行を余所に、木の下では兵士たちが再度炎の矢を構え、非情に放ってきた。

 桜の木が燃え始める。

 兼行は木の下から彼らを睨みつける吉郎を睨み返す。

 そしてその彼の背後で燃え盛る屋敷を見つめ、既に全体が真っ赤な炎に撒かれている屋敷と共に、優しい思い出の詰まったこの場所は失われてしまったのだという現実を突きつけられた。

 何故。

 何故こんな事になるのだ。

 自分が何をしたというのだ。

 何故こんなにも憎まれなければならない。

 兼行はただ歯を食い縛り、次に鉄の矢で自分を的に狙う兵士たちを睨みつける。

 ただ。

 人の為。民の為。国の為にと懸命に帝に仕えてきたのに。

 この仕打ち。

 誰が悪いのだ。

 異能の力を持って何が悪い。

 その力を使うのを望んだのは彼らではないか。

 兼行が力を使ってやると奇跡だといって喜んでいたではないか。

 今ここにある状況が、彼ら愚かな人間の答えか。

「放て!」

 吉郎の号令を合図に、一斉に兼行に向けて矢が放たれる。

 瞬間。

 それらを遮るように桜の花が舞い吹雪き、まるで霞のように満開の花を咲かせると兼行と藤乃を覆い隠した。

 そして何事も無かったかのように大木を燃やしていた炎は掻き消え、原型を最早留めていなかった屋敷は整然と元の姿を取り戻していた。

 冬になろうとするこの寒い季節に桜の花が咲き乱れ、兵士たちを一瞬にして幻想の世界へ誘った。

 全てが一瞬の出来事だった。

 何が起こったのか状況に付いていけなかった兵士たちは驚きの声を上げ、おろおろと一変してしまった周囲を見渡した。

 吉郎もそれに漏れず、周囲を見渡した後、はっとして桜に近付くと、兼行が立っていた場所を遮る桜の花弁を除く様にして目を凝らす。

 そして愕然とした。

「咎人が逃げた!追え!殺せ!」

 ギリギリと歯を食い縛り、怒りの矛先を桜に向け、刀を抜くと巨木を切りつけた。

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