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時空の守者  作者: るー。
第五章 手紙
14/19

第五章 手紙②

   3

「優士。今日の夜七時にいつものとこで待ち合わせな」

 今日の授業が終わり、友也が帰り際、軽くオレの肩を叩く。

「あ、今日、花火大会だっけ?」

 オレは教科書を抵当に突っ込み、最後に今日の朝受け取った手紙を教科書に潰されないように鞄の底から取り出す。

「そうだよ。忘れんなよ。先に行ってる奴らに場所取りお願いしてんだから」

「分かった。ありがと」

 礼を言うと、友也は笑顔で手を振り、教室を出て行った。

 オレは手に持った手紙をじっと見つめる。

 会えないか。と打診してから数日経った。

 彼女の手紙にはその事について一切触れていない。

 麒麟も気が向いたらと言っていたから、聞かされていないのか、――会いたくないからその話には触れないのか。

 どちらかを問う勇気はオレには無かった。

 手紙をぱらりと開く。


『塚田 優士様

 こんにちは。明日はとうとう花火大会ですね。楽しんできてください。

 お友だちの友也さんと一緒なんですよね…って優士さんの話題に友也さんがよく出てくるから、私まで友だちになったような感覚です。友也さんは迷惑でしょうか?

 花火大会にはたくさんの人が来るんですよね。川の土手にたくさんの人が集まって、女の子は浴衣を着ているんですよね。また優士さんはナンパするんですか?優士さんはどんな女の子が好みなんだろう。

 浴衣姿だとまた女の子って更に可愛く見えるんですかね?いいなぁ。私も持ってるんですよ。一枚だけ。あじさい柄の浴衣。

 お母さんが花火大会に行く時のためにって。今回は行けないんだけど。いつか着て、優士さんと一緒に行ってみたいなぁ。

                       野田 美音』


「…オレも君に会ってみたいなぁ」

 そうは思うけど、会えないのなら仕方が無い。

 だからオレもその事にはもう触れない。

 鞄の中に手紙を入れると、教室を出た。

 まさか制服のまま花火大会に行く事なんて出来ないから、一度着替えなきゃな。なんて考えながら道を歩いていると、横から腕を掴まれた。

 掴まれた手の力強さに一瞬カツアゲか?と驚いたが、振り返って見た、知った顔にほっとした。

「よぉ…」

 いつも何処か人を小馬鹿にしているような笑顔。

「麒麟…」

 名を呼ぶと麒麟はにやりと笑う。

「今日、暇か?」

「はぁ?今日はこれから花火大会に行くんだけど」

 腕を放すように引くと、掴まれていた手はあっさりと離れた。

「それまでは暇だろ?」

 そこまで暇だと断定されると何かムカツクけど。

「…ヒマだけど…」

「だろ!」

 やっぱり断定されて、誇らしげにされるとムカツク。

 けど、次の言葉でオレの中に溜まっていたムカムカしていた気持ちが一気に吹き飛んだ。

「美音に会わせてやる!」

「はっ!?」

 オレは思わず聞き返した。

「会いたくないのか?」

「そんな訳無いだろ!」

 分かってて聞き返すコイツがムカツクけど、でも今はそんな事言ってらんない。

 オレはもう一度確認する。

「本当に会えるのか?」

「ああ。本人が会いたいってな」

「会う!会う!」

「そうか」

 麒麟は頷くと、人差し指をちょいちょいと動かし、ついて来いと合図をする。

 オレは興奮しながら麒麟の後についていった。

 公園を抜け、広い通りに出る。

「オレ、何か土産持って方がいいかな。いきなり会うんだし。女の子の喜びそうなもん持ってった方がいいよな」

「別に何もいらねーよ。あっても仕方無いし」

 オレがそわそわしながら、後をついていくと、麒麟は興味無さそうに答える。

「そんな事無いだろ!女の子って甘い物好きだったりするだろ!ああっ!どんな食い物好きか聞いておけば良かった!」

「そんなもんか」

「そんなもんだろ!」

 コイツはいつも会ってるから何も思わないんだろう。

 オレはずっと手紙をやり取りしてたとはいえ、初対面なんだぞ。

 どうしてそれが分からないんだ。

 通りに面して並んでいるケーキ屋や、カフェを見て、入ろうかどうか迷うが、麒麟は歩調を緩めず、すたすたと先に進んでいく。

 男のオレでもついていくのは少し息が上がる速さで、途中で店に寄ろうと立ち止まったら、あっという間に置いてかれそうだ。

 大きな通りを何処までもスタスタ歩いていく。

 住宅地には入らないけど、地下鉄やバスにでも乗るのか?

 そう思うが、地下鉄の入口もバス停にも見向きもせず、麒麟はどこまでもスタスタ歩いていく。

 学校や店やそういう人が集まる賑やかな町並みは徐々にオフィス街に変わっていく。

 高いビルが立ち並び始め、まだ働いてる人は就業時間中だから人通りも少ない。

 何処で会うつもりなんだ?

 この先にマンションが立ち並ぶ通りは見えないし、人と待ち合わせするような店があるとも思えない。

 今更オレを騙す事も無いだろうが、それでも不安が生まれ始める。

 疑問を投げかけようと意を決した時に、麒麟はやっと一つの建物に入った。

「ちょっ、ちょっと待て!」

 入口にスタスタと入ろうとする麒麟をオレは慌てて止める。

「どうした?」

「どうしたじゃなくて!」

 オレはガラスのドアの入り口の前で、その奥の風景を見つめる。

 白い壁に白い床。待合室に様々な年齢と容姿の人が数人長椅子に座り、入口に対して垂直に設置された受付では事務員が二、三人待機している。そして待合室の通路の奥から白衣を着た人や、白い服を着た男の人や女の人が颯爽と何処かに向かって歩いていった。

 さっき看板も見たから間違いない。

 ここは病院。

 しかも建物の大きさから相当大きい総合病院だった。

「な…何で病院?」

「美音がいるから」

 混乱するオレの問いに、麒麟はあっさり答える。

「…何。つまり美音さんは病気だったのか?ああ、今入院中だから花火も見に行けなかったんだな」

 オレは納得した。

「だったら何かやっぱりお見舞い品とか買ってくれば良かったんじゃねーか!何で最初に言ってくれねーんだよ!」

「そうだな。でも何もいらねーと思うぞ。納得したなら行くぞ」

 オレの動揺からの自問自答する様を呆れて見ていた麒麟は溜息を付いて、入口に入り、すぐ横に設置されているエレベータに乗る。

 オレも置いてかれまいと慌てて乗り込み、到着するまで大人しく待つ。

 チン。

 到着のベルと共に着いた階はとても静かだった。

 静謐な箱に閉じ込められたような白い空間。

 普段の雑然とした音の中で暮らし慣れていると時々来るこういう空間にオレは正直慣れない。

 消毒液の匂いが充満する廊下を歩く。

 一つの部屋に辿り着いた。

 ネームプレートを見ると、『野田美音』という名前が書かれている。ネームプレートは一つしかなく、どうやら個室のようだった。

 その名前を見ると、改めて実感が湧いてきた。

 オレが今まで文通をしていた相手は本当に入院しているんだ。

 そして、やっと会えるんだ。

 麒麟はオレの緊張を余所に、ドアの取っ手に手を掛け、躊躇無く開けた。

 心構えをする間も無く開いた扉に、オレは動揺する胸を押さえ、麒麟が室内に入って行く事によりオレの視界を遮っていた大きな背中が無くなった。

 話に聞いていた通り、オレより幾許か幼い顔立ち、髪は短く切り揃えられ、今日が花火大会だからだろう紫陽花の浴衣を着て、それがよく似合っていた。

 整った顔立ちは綺麗な部類に入るだろう。中、高校生になれば化粧の一つや二つする女子も多いが、彼女はヘタに化粧をするよりも素顔の方がずっと綺麗だと思った。

 ただ入院生活が長いのだろうか、体は極端に細く、鎖骨や布団から出ていた腕が見た目で骨のラインが分かるほど痩せていた。

 そこまで思って、オレははっと我に返った。

 部屋に入っていきなりジロジロと他人を検分するなんて変態じゃないか。

 オレは顔を真っ赤にすると、後ろ手に扉を閉めて、ベッドの前に歩み寄る。

 彼女はよく寝ているのか目を閉じたままだった。

 扉を開閉する音では目を覚まさなかったし。

 オレは声を掛けようかどうしようか迷って、救いを求めるように麒麟を見た。

「折角連れてきたんだ。思う存分話しかけてやれよ」

 麒麟はそう言って顎をしゃくる。

「そんな事言ったって、寝てるのに話しかけられないだろ」

「お前何の為にここに来たんだよ」

「だからせめて起きるのを待って…」

「んな事言ってたら一生話せねーぞ。美音と」

「はぁ?」

 麒麟の言っている意味が分からず、問い返そうとしたところで、病室の扉が開かれた。

 入ってきたのは髪を後ろで一つに束ねた女性の看護師だった。

 看護師はオレたちを見ると驚いた表情を見せる。

「あら!珍しい。お客様?すみません。美音ちゃんの体温だけ測らせてもらってもよいですか?」

「あ、はい…どうぞ」

 オレは慌ててベッドから離れる。入れ替わりで美音さんに看護師が近付くと、体温計を脇に入れ、体温と脈を計る。

 …寝てるのにそのまま計るのか?

 疑問が浮かぶ。

「美音ちゃん良かったわねー。お友だちがお見舞いに来てくれて。ああ、花火大会だからかと思ってたけど、だから今日お母さんも浴衣着せてくれたのね」

 看護師は眠ったままの美音さんにそのまま話しかけた。

 何処かで見た構図だった。

 テレビでよくこんなシーンがある。

 それは大抵――。

 思った瞬間、すーっと足元が歪み、体中の血が引いていく感覚が全身を走った。

 オレは自分の体が震えている事に気が付いた。

 がっしりと片手で反対側の腕を押さえつけ、震えを抑える。

 看護師は検温を終えると、オレと麒麟に会釈をして、部屋を出て行った。

 静寂が包む部屋の中で、オレは恐る恐る麒麟を振り返った。

 麒麟は変わらず人を小馬鹿にしたような眼差しで、楽しそうにこちらを見つめている。

 慣れてきたはずのその眼差しが、今は憎い。

「どういうことだ?」

「何が」

 オレの問いに、麒麟はしれっと問い返す。

 その飄々とした態度にまた腹立たしさが増す。

「…美音さんはどうして起きないんだ?」

「一生起きる事はねーよ。所謂植物状態だそうだ。小さい頃ある日起きれなくなっちまってからずっとそのままだそうだ」

 頭が真っ白になるというのはこういう事だろうか。

 オレは情けなくもその場にへたり込む。

 テレビでよく見るシーン。

 病気か何かで目を覚まさなくなった子どもに、毎日話しかける母親。

 子どもはいつまでも目を覚ます事は無い。

 そんな日々を追い続けるドキュメンタリー。

 それを現実で間近に接すると、こんなにもの虚無感に襲われるのだと初めて知った。

「…美音さんじゃないんだろ。この子」

 その問いに麒麟は眉を顰める。

「何言ってやがる。美音だよ。そいつは」

「そんな訳が無い…だったら手紙なんか書けるはずないじゃないか」

 そうだ。眠ったままの人間が手紙を書けるはずない。

 オレと文通できるはずが無い。

「それはオレが、美音が意識の中でやってる事を現実化してやってるんだよ」

「意味が分からない」

「美音はちゃんと聞こえてるし、感じてる。人の話を理解して教えられた知識を学んで、年相応に成長している。ただ目を覚まさないだけだ。だからオレが美音の望みを叶えてやった。楽しそうだったから」

 そう言って麒麟は二本の指を立てると、何も無かったはずの空間から突然手紙が現れる。それをなんでもないようにポイっとオレの足元に落とした。

 封筒には見慣れた女の子らしい可愛い文字。

『塚田 優士様』

 オレは急いでそれを拾うと、勢いよく中を開く。

 一枚の便箋と、見慣れた文字。


『塚田 優士様

 今日は来てくれてありがとうございます。

 花火大会に合わせてあじさいの着物を今日お母さんが着せてくれました。ちょうど優士さんに見せられてよかった。似合ってますか?

 それどころじゃないですよね。

 こんな姿をお見せしてしまってすみません。

 でもこれで私が優士さんに誘ってもらっても行けない理由をわかってもらえたでしょうか?

 小さい子頃公園で遊んでいた私は、気が付いたら倒れていました。そして次に気が付いた時には、体が動かず何も出来なくなっていました。

 私は目を閉じて横になっているだけです。ただ音も感触も分かります。

 だから両親が話してくれたこと、触れさせてくれたもの、それだけが私の外の世界の情報の全てです。

 それでも私は生きてきました。』


 そこで終わっていた手紙をオレは暫く見つめ、そして麒麟を見上げる。

 すると麒麟はまた指の間から一枚の手紙を何も無い空間から出し、オレに投げる。

 オレは慌てて受け取るとすぐさま封を切った。


『麒麟さんを責めないでください。

 麒麟さんは私が意識だけで生きていることに気付いてくれて、私の願いを叶えてくれました。

 友だちを作ってくれました。

 麒麟さんがどうしてそんな事ができるのかとか、どうして私に気付いたのかとか、どうして私の願いを叶えてくれるのかとか、どうして意識しかない私の言葉を手紙にしてくれるのかとか、わかりません。

 それでも私は麒麟さんに感謝しています。

 麒麟さんを責めないでください。』


 オレはまた麒麟を見上げるが、麒麟は自分の事が書かれている事に関心が無いのか、それとも本当に手紙の中身を知らないのか、無表情にまた手紙を投げてきた。


『優士さんがここに来たら驚く事は分かっていました。

 それでも私は優士さんに会いたかった。

 優士さんの声が聞きたかった。

 優士さんと一緒に花火が見たかった。』


 最後の文章を読んだと同時に、ドォンと大きな音が窓の向こうから響く。

 振り返ると大きな円を描いた花火が窓枠一杯に広がった。

 ここは花火大会の場所から近かったのか。

 呆然としながらそんな事を思う。

 すると、目の前に振ってきた一枚の便箋。


『私はもうすぐ死にます。』


 振ってきたその文字にオレの心臓は大きく鳴った。

「ああ!もうメンドクセーっ!」

 麒麟が突然苛立ちの声を上げると、片手を天井に翳す。

 と同時に。

 バサバサバサ!!

 大量の便箋がオレの上に降ってきた。

 何枚、何十枚…何百枚。

 病室を淡いピンクの便箋が部屋を埋め尽くす。

 そこには『ごめんなさい』と、『ありがとう』の文字。

 今までのように丁寧じゃなく、書きなぐったように汚い字で。まるで感情の赴くままに書くような、いつかのオレを叱りつけた時のように。

 ひらひらと蝶のように便箋が次から次へと天井に舞い、ゆっくりと床に落ちる。

 窓の向こうでは花火が上がり、室内を紅色や黄色の光が入り込んできた。

 オレは立ち上がると、徐に病室の明かりを消した。

 より色鮮やかに花火の光が入り込む。

 そしてベッドに近付くと、もう一度美音さんの顔を覗き込んだ。

 白い肌が花火が上がる度に、鮮やかな色に染まる。

 眠っている美音さんは今にも起き上がりそうだ。

 なのに彼女は起き上がる事は無い。

 骨の筋が見えるくらい細い手を握り締めると、微かに美音さんの鼓動が手の平を通して伝わってくる。

「…生きてるのに。ちゃんと生きてるのに。死ぬってどういう事だよ」

 オレはぎゅっと手を握り締めると、美音さんに顔を近づける。

 けれど、目を開けて、オレの問いに答えてくれる事は無い。

 天井を見上げるが、もう手紙が振ってくる事は無かった。

 振り返り、麒麟を見るが、麒麟はオレを見据えたまま、答えない。

「オレは美音さんがこんな状態だと思わなかったんだ。会ったらどんな子かなって、どんな風に喋って、どんな風に笑って、どんな声でどんな風にオレの名前を呼んでくれるのかって楽しみにしていたんだ。文章じゃあんなに元気そうに見えたのに…。どうしてなんだよっ!教えてくれればオレだって!」

 もっと気の利いた事書いて、オレのくだらない愚痴なんか書かないで、もっと楽しい話を書いて。

 もっと早くに会っていれば、美音さんの為になれる事だってもっと出来たかもしれないのに。

 そんな俺の前、美音さんの体の上にひらりと落ちてきた一枚の便箋。


『傷付いてくれていますか?

 私はあなたを傷つけたかった。

 傷付けたらあなたは私の事をずっと覚えてくれているでしょう?

 私がここで生きていたという証が残せる。

 綺麗な思い出はすぐに薄れてしまう。私の事なんかすぐに忘れてしまえる。

 それじゃ意味が無かった。

 家族以外の他人を、一人でもいい私が死ぬ事に傷付いて欲しかった。

 心に刻んで、痛むくらいの傷を付けて、いつも忘れられないくらいの傷をつけたかった。

 私はあなたを深く傷つけても、私は誰かの中で生きた証を残したかった。』


 息が止まるかと思った。

 実際息が止まったかもしれない。

 目の前の少女は突然怖ろしいものに見えた。

 握り締めていた手をゆっくりと離す。

「…そんな事しなくても、美音さんはオレの大切な思い出になったのに。どうして…最初からこういう風にバラすつもりだったのか。わざと普通を装って、仲良くなって、実は植物人間の状態で死にかけてる人間だってばらして、思いっきり傷つける為に」

 その人が大事な存在になればなるほど、その人を失った時の喪失感は大きくなる。

 健康に生きていて、いつか海だって、花火大会にだって行って、一緒に楽しく時を過ごせるはずだと期待していた分、既に消えかけた命で明日別れが繰るかもしれないという衝撃が与えるその反動はオレに凄まじい痛みを残す。

 オレの中でそれほどまでに美音さんの存在が大きくなっていた事に驚いた。

 そして美音さんの思惑通りな自分に苛立つ。

 けど、オレの中で既に刻み込まれた傷が癒える事は無い。

「…本当に死ぬのか?」

 オレはポツリと呟く。

 答えはない。

「…オレは何も出来ないのか?」

 オレの問いに返ってくるのは、鳴り響く花火の音だけ。

「…ごめん、オレ…」

 その後、何と言葉を続ければいいのか分からなかった。

 ただその場にいるのが辛くて、オレは無言で病室を出た。

 そこから先の事は覚えていない。

 ただ家に帰ってから、友也から携帯に何度も着信があった事に気付いた。


   4

 オレは昔から何でも器用にこなす人間だった。

 大抵の事は一度教えられれば出来た。

 一生懸命になったって、あっという間にトップを取れてしまうから、一生懸命になる事を止めた。

 そこそこ努力して、そこそこ人並みに出来るなら、その方が楽だからだ。

 人並みに生きていけるし、余計なやっかみや妬みも無い。

 時々つまらないと思ったりもするが、それがいい人生ってもんだ。

 平凡な人生ってものはそういうもんだと思っていた。

 それはオレが作り上げた、オレだけの世界観での話だった。

 それは自分がこの先も生きていける事を前提とした話だった。

 明日死ぬことになるかもしれない事を微塵も想定しないまま。

 オレの今まで生きてきた世界はそれが当たり前だったから。

 明日死ぬかも知れない命。

 突然起こる事故。

 ニュースで流れる事件や事故は何処か別世界での出来事にしか思ってなかった。

 なんて馬鹿で短絡的な世界観の持ち主なんだろう。オレは。

 そして時間が恒久的にあると勘違いしているバカは、タイミングを計ることもヘタで。

 オレはどれだけバカなんだと後悔させられる。

 一生ものの後悔を。


「え」

 オレはナースステーションでそう聞き返す事しか出来なかった。

 目の前の看護師は労わるような瞳でオレを見つめる。

 昨日会った看護師だ。

「野田美音さんは昨夜無くなりました」

 呆然とするオレに、看護師はゆっくりともう一度言葉を紡ぐ。

「優士?オイ」

 後ろで待っていた友也が、看護師の言葉を受けて呆然とするオレの肩を揺らす。

 オレは言葉が出なかった。

「…だって昨日まで…」

「…今朝、検温に行った時にはもう…。眠るように冷たくなってたんです。とても幸せそうに」

 とても幸せそうに?

 それは--目的を達成したから?

 オレを傷つける事が出来たから?

 あの子は『もうすぐ死ぬ』と言っていた。

 だから、まだ時間はあると思っていた。

 もうあの子が死んでしまう、その事にオレは傷付く。それは間違いない。

 それでも、残りどのくらいか分からないけど、その少しの時間で自分が少しでも彼女に出来る事があるんじゃないかと思った。

 文通をしてきたオレだからこそ、少しでも彼女に楽しい思い出を作ってやれるんじゃないかと思い込んでいた。

 そんな隙さえ与えてくれなかった。

 あの子が死を迎えるその時、傷付くだろうオレがオレ自身を納得させられる、自己満足さえ見抜いていたのかもしれない。

 唯一今のあの子と意思疎通が出来たオレが何もしてやれなかった上に。

 あの子の死の覚悟もしていなかったオレが。

 どれだけ傷付くかを、あの子は全て見抜いていたんだろうか。

 胃からせり上がってくるものを感じ、オレはその場にしゃがみ込むと大きく咽た。

「おい!優士!」

 友也は慌ててその場に崩れるように屈み込むオレを支える。

 気持ちが悪い。

 気持ちが悪い。

 気持ちが悪い。

 何て勝手なんだ。

 これだけの衝撃を与えて。

 深く傷つける程の記憶を与えて。

 そこまでして自分を誰かの記憶の中に刻み込みたかったのか?

 いっそ彼女との思い出を切り取りたい。

 たかだか数ヶ月文通しただけの相手じゃないか。

 こんなに傷付く必要は無い。

 忘れてしまえ。

 あんな女の事なんか忘れてしまえ。

 そうしたら、ざまぁみろだ。

 お前の思い通りにはいかないぞ。

 そう笑ってやる。

 --笑ってやりたい。

 無気力に、無難に毎日を何となく生きていきたいのに。

 --オレはもう、戻れない。

 悔しいが、忘れる事は出来ない。

 オレと文通する事は、動く事さえ出来なかった彼女が一生の内でたった一度だけの我侭だったんだ。きっと。

 オレが忘れたら。

 十五歳の美音さんがどんな美音さんだったか誰も知らない。誰の記憶にも残らない事になる。

 親だって、きっと彼女は眠っているだけの彼女しか知らない。

 どんな事を思い、どう生きたか。

 あんなに未来に夢を見て、女の子らしく浴衣に憧れ、海に行ける事を想像して。

 怒って、笑って、感情をむき出しに人と向き合ってくれるか知らない。

 それは可哀想という同情よりも。

 オレが嫌だった。


   5

「先生!塚田先生!」

 道を歩いている途中、後ろから声がかかり、オレは振り返った。

 見ると、そこにはオレより後輩が嬉しそうに手を振っていた。

「相変わらずクールですね。塚田先生!」

「別に」

 後輩がオレに追いつく前に、オレは歩き出し、後輩は慌ててオレの横に走りよって隣を歩く。

「聞きましたよ、先生。また製薬会社からオファーがあったそうですね」

「…ああ」

 そう言えばそんな事もあったとオレは思い出す。

「研究職専門付かず、未だ病院の医師として活躍しながら新薬の研究も続けてる医師なんて数少ないですからね!先生って本当に器用って言うか、有能ですよね。普通どっちかに絞る人が殆どなのに」

「大学病院の医師なら普通だろ」

「普通新薬開発したいなら研究室に籠もりますし、医師としての腕を磨きたいならもっと高度医療扱ってる病院に転職してますって!」

「オレはどちらかを選ぶ事が出来なかっただけだよ」

「けどどちらも疎かにしていない。この間の論文だって学会での評価高かったし、相変わらず退院した患者さんから感謝の手紙も多く頂くじゃないですか!」

「それでも救えなかった命だってある」

「それは医師として仕方ないでしょう?医師だって万能じゃないんだから」

「そうだな。…それでも患者一人たった一つの命なんだ」

「ストイックですね」

 後輩は無表情のまま答えるオレに頬を紅潮させて羨望の眼差しを向けていた。

 オレはそんな眼差しを向けられるほど出来た人間じゃない。

 たった一人の少女の命を救えず、毎日つまらないと無為に時間を過ごしてきた最低の人間だ。

 幾ら多くの命を救っても。

 新しい技術を生み出しても。

 彼女はこの世に戻ってくる事は無い。

「塚田先生。この間とうとう完成した新薬、効果上がってるそうですよ」

 嬉しそうに語る後輩。

 例え彼女を救える新薬を作り出しても、彼女は還ってこない。

 あの日。

 彼女と出会い、別れてからオレの運命は全て変わってしまった。

 無難に選んでいた進路を全て覆し、それまで適当に点を取っていた成績を見て先生に無理だと言われていた大学に進路を変更し、大学で医師免許を取って留学し、臨床医としての腕を磨きながら新薬の開発を続けていた。

 ただオレは我武者羅に生きた。

 彼女の言葉に対して埋め合わせをするように。

 彼女を忘れない為に。

 彼女の分まで懸命に、いつだって全力を出した。

 限界にぶつかって、全力以上に努力した。

 彼女があの日望んでいた、人を救える薬を開発しても、彼女自身を救える薬を開発したとしても、それでも、まだ、足りない。

「よぉ!優士!」

 公園を横切る途中、懐かしい顔に出会った。

「友也…?」

 オレは呆けて、目の前の人物の名を呼ぶ。

「え?あれ、クレーブスのトモヤ!?」

 横を歩いていた後輩が、友也の姿を確認すると、歓喜の声を上げる。

「久し振りだな。優士」

「どうしたんだ?二ヶ月くらいレコーディングだって言ってたじゃないか」

「もうその二ヶ月とっくに過ぎてるぞ。相変わらずだな、お前」

 オレの言葉に友也は苦笑する。

 その横から後輩が目を輝かせながら友也に声を掛けた。

「あの!オレ、いつも聞いてます!クレーブス!大ファンなんです!トモヤさんがメンバーの中で一番カッコイイっす!!」

 物凄い勢いで捲くし立てるように喋る後輩に、友也は目を丸くする。そしてオレを見ると、オレは「病院の後輩」と短く答えた。

「ありがとう。いつも聞いてくれてて」

 友也は苦笑すると、後輩の手を握る。それだけで舞い上がった後輩はまた顔を真っ赤にして震えた。

「優士の後輩なんて大変だろ。昔から愛想悪い奴だったけど、大学言ってからは更にだからな」

「全然っす!塚田先生はオレの憧れっす!オレももっと勉強して助手にして欲しいんです!」

 その言葉に、友也はオレを見て笑う。

 後輩はそんなオレと友也のやり取りを気にする事無く、言葉を続けた。

「あの…この間の新曲も良かったっす!泣けてきて!オレ発売日即買いしました!あの歌詞に出てくる女の子ってモデルでもいるんすか!?」

 その問いに友也は笑顔を張り付かせると、オレを見て、そして後輩に向き直ると頷いた。

「優士が忘れられない女の子だよ」

「え!?」

 後輩は驚いてオレを見る。オレはその視線を適当に流すと、

「もういいだろ。先行ってろ」

と、その場から離れる事を促した。

 後輩は何処か怪訝そうにオレを伺いながら、それでも頷くと、「すいませんでした。では、塚田先生、また後で!トモヤさん頑張ってください!会えて嬉しかったです!」と言ってその場を離れた。

 後輩の姿が完全に消えるのを見送ってから、オレは小さく舌打ちした。

「余計な事ベラベラと」

「いいだろ。本当の事だし」

 優士はオレの舌打ちに嫌な顔する事無く、しれっとして答える。オレはそれ以上何も言えなかった。

「憧れの先輩か。お前もそっちの世界じゃ随分活躍してるよな。ついに出来たんだろ?例の薬」

「まだ第一歩にしか過ぎない。完治させる薬じゃない。第一発症してからじゃ遅い。予防薬でしかないんだ」

 そう。出会っていた時、既に病気を発症していた彼女を救う薬じゃない。

 だから、まだ、これからなんだ。

 そう思うオレの瞳を見て、友也は小さく溜息を吐く。

「…何度も言うが、忘れろとは言わない。けど少しは自分の為に生きる時間を作ったらどうだ?」

「それはムダだと悟ったからな。諦めた。それに彼女の為に生きるには時間が足りなすぎる」

 オレだって、彼女が死んだと知った当初は足掻いた。

 何度も。何度も。

 壁が立ちはだかる度に、限界を感じる度に。

 何もかも嫌になって暴れた事だってあった。

 それでも無理だった。

 だから彼女の為に、彼女が生きたかった時間を使おうと決めた。

 彼女はこんなオレを知っていて、オレを選ばせたんだろうか。

 オレがこんな風になると知っていて、麒麟はオレを選んだのだろうか。

 忘れたくて、足掻く様に、何度も今も家路に使うこの公園で麒麟の姿を探したが、彼女が死んだ後、結局一度も出会える事は無かった。

 そうやっているうちに、苦しさも辛さももう感じなくなっていた。

 それが今のオレだ、。

 そう思いながら、答えるオレに、友也はまた溜息を吐く。

 友也はいい奴だ。

 あの日病室で狂うように暴れたオレを宥め、全てを打ち明けたオレの傍にいてくれた。

 オレが暴走しそうになる度にいつだって支えてくれた。

 オレが何度も辛くて、全てを投げ出したくなって、失踪した時だって、必死になって探してくれた。

 そしていつも、そして今日も友也は言う。

「あの子の望みは本当にお前をそんな風にする事だったのか?」

「さぁ。死んじまったからな」

 その台詞を返すと、オレたちはその後必ず無言になった。

 そして何も言わずに歩いた。

 いつもはそのまま、後は他愛も無い話をしながら帰っていたが、この日は違った。

 歩いていると、ふと一人の人物が立っているのが目に入る。

 黒いジャケットに黒いパンツ。そしてオレとは絶対別世界で生きていそうな人物。

 彼はオレの姿を認めると、片手を上げる。

「よう」

 そして親しげに声を掛けてきた。

「…麒麟…」

 オレは名を呼ぶ。

 麒麟はあの日から何も変わっていなかった。

 少しも年を取った様子は無く、あの日のまま。

 オレの呟きに友也は目を見開き、そして麒麟を振り返る。

 驚いた様子のオレと友也に気にする様子無く、麒麟はオレの元に来ると、一枚の手紙を渡した。

「久し振り?でいいんだよな。多分。あんまり時間の感覚ねーから分かんねーけど」

 麒麟の言葉の意味が分からず、眉を潜めながら、オレは渡された手紙を受け取る。

 そして、オレは息を飲んだ。

 よく見たことのある封筒だった。

 その封筒には丁寧に少し丸くなった文字で『塚田 優士様』と書かれていた。

 見慣れた筆跡。

 オレはばっと顔を上げ、訳も分からず麒麟を見る。

「美音から。美音が死んで十年たたら渡してくれって言われたんだ。多分十年経ってるよな?それ以上か?十年ってあっという間だから冷や冷やしたぜ。気が付いたら関わった生き物が死んでるなんてザラだからな。美音が面白いもの見れるって言うから、ずっとお前の事見てたんだ。楽しませてもらったぞ」

「何言ってんだ!お前!優士がどんな気持ちでこの十年過ごしたと思ってんだ!」

 麒麟は昔と変わらず嫌味な笑顔でニヤリと笑い、それに友也は食って掛かった。

 しかし麒麟は気にする事無く、掴まれた襟からあっさりと友也の手を払うと、また笑った。

「これで手紙は最後だ。まあせいぜい一生懸命生きろや。オレお前の生き方嫌いじゃなかったからな」

 あまりにも冷酷な言葉を言い放つ麒麟に最早友也は動けず、オレは呆然と麒麟を見つめていた。

 麒麟はそんなオレたちを見て、また笑うと踵を返し、「じゃあな」と言ってひらひらと手を振り去っていった。

「…何だあいつ!」

 友也はオレの隣で腹を立てている。

 オレはと言えば思考停止したままだ。

 面白いものが見れる?

 そう美音さんが言った?

 美音さんはオレの狂う様を予測して、狂うオレを麒麟に面白いものが見れるといって手紙を渡したのか?

 オレは美音さんにまた騙されていたのか?

 全て最初から、あの手紙の内容でさえオレが信頼出来るように作り上げた美音さんで。

 こうなるように仕組まれていたのか?

 手の中にある手紙が、それその物は薄く軽いものなのに、酷く重く感じた。

「優士!そんな手紙捨てろよ!もういいだろ!その女に囚われるの止めろよ!お前はお前の人生生きていいんだ!全力も出さず、やりがいのある者を見出せなかったあの頃みたいにのらりくらりと生きろよ!それでもいいんだ!お前がお前の為に生きられるならそれだっていい!」

 友也はオレの手の中の手紙を奪おうとするが、オレは渡す事は出来ず、固く握り締めた。

「優士!」

 きっと違う。

 手紙を交わしてオレは知っている。

 あれだけ生きることを大切にしていた人が人の人生を面白いなんて言う筈が無い。

 美音さんは麒麟にこの手紙を確実に渡させる為に『面白い』なんて言ったんだ。

 どんな人生だってオレは自分で選んで、今、この人生を生きてるんだ。

 オレは封を切ると、中に入っていた便箋を開いた。

 懐かしい、少女の文字。

 あの日、あの時と変わらないまま。

 手紙の中の彼女の時間がそこに留められていた。


 『忘れてください』

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