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時空の守者  作者: るー。
第三章 命の花―真澄の章―
10/19

第三章 命の花―真澄の章―④

   6

ちちさん。ちちさん。ゆき、今日も帰りが遅いんだね」

「そうだな」

 政行に与えられた小さな屋敷。村で暮していた時よりもやや手狭ではあるが、彼らと共に村から移動してきた家の人間全員が暮らすには丁度いい大きさのもの。寧ろ以前の屋敷の方が無駄に広く持て余していた位だった。

 政行は自室で暫しの休息を取っていた。横には彼が土産に買ってきた菓子を口に入れる少女がいる。

「帝に会った初めての日は、相当嬉しかったのかずーっとぼーっとしていたし、それから次の日は毎日出仕で朝早くから、夜遅くまで。帰って来れる日はまだいいけど、最近は帰っても来れないもんなぁ」

「兼行がいなくて毎日が退屈か?」

 まだ幼さを残す少女の柔らかな髪を政行は撫でてやる。その仕草に少女は嬉しそうに目を細めた。

「ううん。だって私だって毎日外に出て遊んでいるし。それに父さんが毎日遊んでくれるもの」

「そうか。毎日何処で遊んでいるんだ?」

「市とか畑。後は山や川。凄いね父さん。私、こんなに長い間人間の中で人間と一緒に遊ぶなんて初めてなんだよ。毎日が楽しいね」

「楽しいか」

「村でも遊んでいたけど、ここはまた村とは全然違う。人間って色んな事考えているんだね。喋っている事、考えている事が違ったり、表情でその人が考えている事が分っちゃったり、最近はその人たちが本当は何を考えているのか読む事が楽しいんだ。一杯話して少しずつ知っていくの。生きる事に皆一生懸命なんだね。畑や川の使い方とか、市での駆け引きとか、今までそういうの一杯見てきたけど、自分が生きる為に一杯考えて、考えた事も変えていっているんだね。これって一つの場所に長くいなきゃ分からない事だったよ」

 政行は笑う。

「今はね、畑を皆で一生懸命良くしているの。父さんは覚えている?初めてこの屋敷に来た日、通りがかった畑」

「ああ。覚えているよ」

「あの畑に肥料を入れて、耕して、少しずつ作物がまた大きく育つ畑に変えていっているの」

 その言葉に政行は少し驚く。

「真澄の力を使わずに?」

「うん。今年の分はお手伝いしているけど。と言っても秋に採る事が出来るようにゆっくりとだけど。このままじゃ来年は何も実らないから、もう何も育たないからって放置している畑を皆で耕し直しているの」

「皆で」

「そう。あの辺りに住んでいる人、皆で。段々土も元気になってくるし、楽しいよ。ゆきは一度見たきりだったから見せてあげたいなぁ。そう言えば、今年取れた野菜を今度一杯持ってきてくれるって。市で仲良くなった人も今度調味料とか、着物をくれるって。皆優しいね」

「そうかぁ」

 楽しそうに毎日の事を語る真澄を見つめ、政行は目を細める。

「真澄が私の娘だったら良かったのになぁ」

「え!?私が父さんの娘!?」

 真澄は顔を上げ、頬を赤く染める。

「うん。そうだ。そうしたら嫁にやらず、ずっと傍に置いておくのになぁ」

 笑う政行に真澄はあたふたとし、そして何かを思いついたのか、ふと、彼の瞳を覗き込む。

「…あ…あのね。一度ね。もし、家族がいたらやってみたいと思っていた事があるの。いい?」

 上目遣いでおずおずと尋ねてくる真澄に苦笑し、政行は「どうぞ」と答えた。

 真澄は一瞬躊躇するが、顔を上げると、意を決したように「えいっ!」と気合を入れて、政行に抱き付く。

 政行の方と言えば、まさか抱き付かれるとは思わず、固まってしまった。

「あのね。あのね。一度でいいから、ぎゅって抱きついてみたかったの。だって普段誰かに抱き付いたら変な人だって思われるし。赤ちゃんってずっと色んな人に抱っこしてもらっているでしょ。それでどんな気持ちなんだろうってずっと思っていて…」

 抱き付きながら、真澄は恥ずかしさを誤魔化すように捲くし立てて言い訳を喋り続ける。

 政行はその姿に微笑を浮かべ、彼女の背中をぽんぽんと優しく叩く。

「甘えたい時は素直に甘えていいんだよ」

 その言葉に真澄の体温が上昇するのを触れる体から伝わってくる。

「ゆきは父さんがいて羨ましいなぁ」

 真澄の呟きに政行は笑ってしまう。

「ゆきは何しているのかなぁ」

「そうだね…。兼行は御所の中枢で働いているけれど、私は貴族の中でも末席だからね、詳しい事は分からないけれど、最近、大橋が架かっている川が暴れて氾濫する事が多いからと治水に向かったと噂を聞いた。無理はしないといいんだが…」

 段々と力の無くなる言葉尻に真澄は顔を上げ、笑う。

「大丈夫だよ。父さん。だってゆきはいつだって人の為になる事を考えているもの」

 その言葉に政行は少し寂しそうな表情を見せ、くしゃりとまた真澄の髪を撫でる。

「君は兼行のお陰で沢山のものを見つけたのだね。兼行は君から沢山のものを貰っているはずなのにね…」

 真澄にはその言葉の意味の全てが理解出来ず、首を傾げる。

「初めて兼行が真澄を連れてきた時は驚いたけれど、兼行が君と出会えた事は本当に良かったと思っている、そして私も真澄に出会えて良かった。これからも傍にいて甘えて欲しい」

 政行の言葉に真澄はまた頬を赤く染め、もう一度抱き付いた。


 巡る季節。

 兼行たちが都に屋敷を構えてから初めての秋が訪れた。

「今年の収穫は今までで最高だなぁ」

「本当に。税を納めても俺たちは冬を越すのに十分な程の蓄えが出来た」

「それもあの時通りかかった貴族様のお陰だな」

 沢山の穂をつけた稲を刈り入れながら、農民たちは笑う。

「それと突然ひょっこりと現れた真澄とな」

 自分の名前を呼ばれ、麻酔は稲の間からひょっこりと顔を出す。

「呼んだ?」

 今の会話を聞いていなかったのか首を傾げる彼女に周囲から笑い声が上がる。

「いやいや。真澄が田んぼを手伝ってくれて、どうやったらまた土がよくなるのか教えてくれたお陰で今年は豊作だ。皆で感謝しているって話をしていたのさ」

「それとあの時、真澄と一緒にいた貴族様のお陰だってね」

 周囲から上がる褒め言葉に、真澄は頬を染めて首を横に振る。

「ううん。私が手伝っているのはこの辺りだけの畑だもん。ゆきが凄いんだよ。ゆきが偉い人たちと頑張ってくれているからだよ」

「貴族って言うのはわしらを虐げるだけかと思っていたけど、ゆき様、あの貴族様は違ったな」

 腰を上げた老年の男が顔を上げる。真澄は嬉しそうに頷いた。

「ところで、本当に俺らが貴族様のお屋敷に伺ってもいいのか?儂らはただ貴族様と真澄にお世話になったからそのお礼として米や野菜らをお渡しできればいいんだが…」

心配そうに真澄に問いかける壮年の男に彼女は笑って答える。

「ううん。父さんが是非皆に屋敷に来てもらって皆をもてなしたいって言ったの。御裾分けだけじゃ申し訳ないし、私がいつも皆に良くして貰ってるっからお礼がしたいって。皆が持ってきてくれたお米や野菜を使ってだけどね」

「儂らが貴族様の屋敷に正面から堂々と招かれるなんて、一生に一度あることじゃねぇ。貴族様も貴族様ならそのお父上も度量のある方なんだなぁ」

「だったら私たちも早めにお邪魔して、料理を手伝うよ。皆で楽しくやろうじゃないか!」

 隣で腰を上げた女が張り切って上げた提案に、他の女たちも賛同し始め、一方で男たちは「酒の用意もするか」と最早もてなされると言う意識はそこには無く、宴会をする準備として盛り上がり始める。

 そうしてあちらこちらから声が上がり、皆稲の刈り入れの手を休め、次々と意見を出し合っていた時に、貴族男性の平素時の衣装である狩衣を纏った男が畦道のを通り、真澄の元に駆けて来た。

 周囲が田圃で囲まれている中で、その場にそぐわない滑降した男に皆お喋りを止め、彼を注目する。

「真澄!」

 男は真澄が足を浸けている田んぼまで寄ると、彼女に声を掛け、自分のいる畦道へ来いと手招きする。

 真澄が彼の元まで駆け寄ると、彼は更に自分に近付くように手招きし、まだ息の整わないまま小声で耳打ちする。

「主様が倒れられた」

 その言葉に真澄は目を見開き、一瞬、目の前に広がる世界が真っ白になった気がした。

「真澄!」

 次に視界が戻った時、彼女は自分でも気付かない内に田圃の中にへたり込んでいた。

 足の力を無くし、倒れそうになった彼女を咄嗟に支えようとしたのだろう狩衣の男の手が彼女の腕を支えるように掴んでいた。

「今は目を覚まされている。ただ顔色が良くない。屋敷に戻ってきてくれないか?」

 言われると同時に真澄はすくっと立ち上がり、田圃から足を抜き、畦道に登ると一目散に駆け出す。狩衣の男は慌ててその後を追った。

 その様子に周囲の農民たちが何が起こったんだと声を掛けるが、真澄は答える事無く、ただ無我夢中で屋敷に向かった。

 屋敷に辿り着くと、皆突然の事にどうして良いのか分らず戸惑っているのだろう慌てた様子で女房たちが廊下を走り回っている。そこに真澄が戻ってくると皆一様に彼女に声を掛け、彼女を政行の寝室へ案内した。

「父さん!」

 几帳で遮られていた部屋のその向こうに眠る政行に駆け寄る。

 彼は真澄の姿を認めると、苦笑して上半身を起こした。

 笑顔を作ってはいるが、その顔色は青白く、瞳に光が無くなっていた。

 真澄は政行の眠る布団の傍に座ると、彼の瞳を心配そうに覗き込む。

「真澄。すまない。心配掛けたくないから知らせるなと言っておいたのに」

 そう言って、彼は力なく笑う。

「大丈夫?」

 真澄が手を差し出し、彼の額に触れようとするが、その前に彼自身の手によって押し止められ、そのまま優しく握り込まれてしまう。

 その行動に彼女は不思議そうに彼を見上げる。

「真澄。力は使わなくていいよ」

 告げられた言葉に真澄はどきりとした。

 確かに彼女は今、無意識の内に彼を治療しようと手を伸ばしたのだ。

 それが彼女にとって当たり前だったから、当たり前のように。

「君は力を使わなくていいんだ。ここで倒れたのも、病気になったのも、天命だというのなら、私は従うだけだ。君がこの力を使う事は望んでいない」

 真澄は何も言えず、無言で彼の言葉の先を促した。

「ただ、傍にいてくれればいいよ」

 そう言って、政行は真澄の手を握ったまま、布団の上に下ろす。

「ああ、そうだ。真澄がお世話になっている人たちを屋敷へ呼ぶ予定は変えないからね。それまでに私も元気になるさ。一度倒れたくらいで死にはしないよ。だからそんな顔しないでくれ」

 彼女の手を握り込む反対の手で頬を触れられ、真澄は初めて自分が今どんな表情をしているか気が付いた。

 顔面がまるで痙攣したみたいに歪んでいる。口の端が震えている事に気が付いた。

 それ以上表情を崩すと、自分の中で必死に塞き止めているものが溢れ出しそうだった。

 だから喋る事で誤魔化す事にした。

「皆がね、当日お手伝いして料理作ってくれるって。おもてなしするはずが、皆で準備して宴会に変わっちゃった。それでもいいよね。だって貴族とか農民とかって壁があって中々仲良く出来ないものでしょ。でも皆で一緒に材料集めて、会場作って、料理して、一つのもの作るって楽しいよね」

 政行はじっと真澄の瞳を見つめ、彼女の言葉に耳を傾ける。まるで一言も逃さないように、と。

 そうして彼女の言葉が途切れると、ゆっくり頷いて、「そうだな」と答えた。

 それから二、三言話して、真澄はそれ以上彼の傍にいる事が出来ずに、部屋を出た。

 廊下には下男や女房たちが集まり、皆一様に部屋から出てきた真澄を見つめる。

 その目には期待が浮かんでいた。

 真澄には彼らが何を望んでいたか分かっていた。それは彼女自身も望んでいたから。

 己の手を目の前に上げ、じっと見つめる。彼女は彼らの期待の瞳に首を横に振った。

 彼らと自分の望みは、政行の望みではなかったから。

 真澄の返答に集まった家人たちの瞳は落胆の色に変わったが、誰一人彼女を責める事は無く、その場を一人二人と離れていった。

 その場にいた聡里は項垂れる真澄の頭を優しく撫でる。

「仕方無いね。貴方でも治せないなら」

 その言葉に、真澄ははっと顔を上げ、首を横に振る。

「違うの。父さんが望まなかったの。私が力を使う事を望まなかったの。私の力でもう少しだけでも元気になれたはずなのに」

 聡里は彼女の言葉に目を見開き、暫し沈黙をするが、やがてゆっくりと口を開いた。

「主様は貴方が力を使うのを望んでいませんでしたからね。ここにいつ、ここで暮らす私たちと同じようにいる事を望んでいたから。政行様が望まれないのなら、それでいいのですよ」

 未だ納得のいかない様子でその場に残り、それを聞いた周囲の者たちも目が覚めたように目を見開くと、己を恥じたように俯き、そして労うように、皆其々真澄の頭や肩に触れ、去っていった。

 彼らにも、真澄の力も、政行の望みも、真澄が今抱いている想いも痛い程十分に分かっていたから。

 それが理解出来る程度には真澄はもうこの屋敷で、屋敷の人間の一人として馴染んでいたから。

 苦しんでいる真澄をこれ以上追い詰めるような言葉を放つ事は出来なかった。

 彼らの与えてくれる優しさに胸の奥に込み上げてくるものを真澄は今まで触れた事が無く無く、ただ堪えていた。

 ただ、一つ、気になっていたことがあり、聡里に問い掛ける。

「ゆきはまだ来ていないの?」

 いつも傍にいてくれ、誰よりも政行に近しいはずの人がいない。

「…ええ。文は既に一刻も前に出して、兼行様のお手元まで届いていてよいはずなのですが…」

「そうなんだ…」

 呟いて、真澄は薄細い雲がたなびく秋空の中、沈みゆく緋色の太陽を見つめていた。

 結局、兼行が戻って来る事は無かった。


 その日は朝から人の出入りが激しかった。

 前日の夜から食材を運ぶ者、料理の仕込をする者が訪れ、賑わっていたが、その日はそれ以上の人間が出入りしていた。

 料理を持参する者、屋敷の端に積む者、大量の酒を荷台に乗せ運び入れる者。

 市や農地で働き、暮らす者たちが老若男女身分問わず屋敷へ集まり、昼には庭に無数の料理が並べられ、まるで祭りの日のように賑やかな宴会が始まった。

 この日ばかりは商人も農民も貴族も関係無い。

 男たちが互いに酒を注ぎ、笑い合う。子どもたちは目の前に出される今までに無い程豪華な料理、そして口にすることの無い菓子にはしゃぐ。そして今日限り解禁された屋敷内で、女たちが互いに労い寛ぎ、お喋りに花を咲かせる。

 商人であれ、貴族であれ、身の上に起こる話に大差は無い。最初は互いに緊張していてもいつの間にか打ち解け、盛り上がっていた。

「本当にこんな機会は二度とないだろうね。私らと貴族様たちが一緒にこうして同じ時間を過ごすなんて」

「そうですね。私たちも考えられませんでした」

 毎日市で野菜売りをする少女が、同じ年の位の女房に話しかける。

「元々兼行様も変わった方でいらっしゃって、真澄を連れて、元々いた土地でもこのように身分関係無く接していらしていて私たち屋敷の人間や主様も初めはそれに戸惑っていたのですけれど。これだったら前の屋敷の時から行っていればと思いますわ」

「兼行様は以前のお屋敷に暮らしていた時から素晴らしい方だったんですね」

 少女の隣で聞いていた女性の感想に女房は嬉しそうに笑う。

「ええ。けれどよく考えたら、真澄のお陰なんですよ。彼女が現れてから兼行様はずっと穏やかな方になり、身分の括り無く人の為を第一に考える思慮深い御方になられました。そして主様もお優しい方ではありましたが、身分に関してだけは重んじられる方でした。それが真澄がこの屋敷で共に暮らすようになってから、お変わりになられました」

 その言葉に頷いて、老齢の女房が言葉を続ける。

「本当の事を言えば、私たち貴族は身分を何よりも重んじます。真澄を招き入れる事、兼行様の行動を良く思わないこともありました。何よりもそうした行動を取られる事で、兼行様自身そして主様もの身を滅ぼす恐れがあったからです。それでも今、皆様とこうして同じ時を過ごせる。身分に捕らわれるよりもどれ程の価値がありましょう」

 そう笑って告げる老齢の女房の表情にほっとし、皆一様に笑った。

 笑い声が聞こえるその向こう側では農民の男たちが、下男の杯に酒を注ぐ。

「俺ら農民からしてみれば、貴族なんて、何一つ食べ物も作れないくせに、俺たちから税を取って貴族だ何だだのとえばり散らして、その実は毎日色んな女をとっかえひっかえの贅沢三昧して遊んでいるだけのロクデナシの集まりだと思ってたからなぁ」

「言い返す事は出来ないな」

 注がれた酒を見つめ、やや彫りの深い下男は薄く笑う。

「けどさぁ。あんたらのご主人はすげーよなぁ。正確にはご主人の息子か。不思議な力を持ってるけど、それで贅沢三昧するでも一角千金を狙うでもなく、人の為、俺たちが楽になる為豊かになる為って働いてくれてるんだろ。お上の傍にいて周りの村も良くしてくれてるって話じゃねぇか。隣の村にも兼行様が来たって。そしたら今年は豊作だって言ってたもんな。本当凄いよ。貴族様って俺たちには関係ねー世界だと思ってたけど違うんだな」

「兼行様が今にもっと良い世界にしてくださるよ」

 そう言って下男は誇らしげに笑った。

 またその笑顔に周囲の人間も笑う。その中で酒を持ってきた男がふと思い出したように顔を上げ、そして表情を暗くする。

「けど、あんたらの主様のお加減は良くないんだろう?」

 その言葉に笑っていた男たちは皆一様に肩を落す。

「そうなんだ。今日この日を一番楽しみにされていたのは政行様なのに。お加減が悪く床を起き上がれないのだ」

 白髭を長く伸ばした狩衣を纏った従者は顔を上げ、主の部屋がある方向を見つめた。


 外からは賑やかな笑い声が響く。

 持て成す為に開かれた宴会場から一番遠く離れた北の奥の部屋で政行は床に着いていた。

 彼が横になっている布団の横では真澄が彼を見つめている。今にも泣き出しそうな表情で。

 その表情に政行は苦笑し、ゆっくりと体を起そうと片手を布団につく。真澄は手を貸そうとするが、もう片方の手でやんわりと制止され、手を借りずに彼は上半身だけを起した。

「今日は調子がいいんだ」

 そうは言うが、その顔は白くとても血が通っているようには見えない。

 そのくらい既にもうやつれていた。

「折角真澄の為に宴を開いたのに君はずっとここにいる。私は大丈夫だから楽しんでおいで」

 彼は真澄の頬を優しく撫でるが、彼女の掌がその手に添えられ、頬に留められた。

 指先から伝わってくる熱がじんわりと政行に体温を分け与えられる。

 最近この少女はいつも苦しそうなのだ。口の端が小刻みに震えている。何かを堪える為に。

 そんな表情をさせているのは自分なのだと分かっているのだが、彼にはどうしてやる事も出来ない。

「皆楽しそうで良かった。私はこの声を聞けただけで十分だ」

 何を言っても真澄の表情は変わらない。

 兼行がこの場にいれば、彼女の心を動かす事が出来たのだろうか。そう思い――首を振った。

「私が君の父さんとしてして上げられる事は何だろうね。生憎私には女兄弟も娘もいなかったから分からないんだ」

 悲しげに呟く政行に真澄は目を見開き、首を横に振る。

 彼女は傍を離れない。

 彼女は知っている。

 彼の命が―――あと僅かで消えてしまうのを。

「――正直言えば嬉しいんだ。君が私の傍を離れないでいてくれる事に。私がもうすぐこの世からいなくなる事を悲しんでくれている事を。でもね。一方で笑って欲しいんだ。私の大切な娘には笑っていて欲しい」

 その言葉に、真澄の表情が初めて揺らいだ。

 戸惑うような。驚くような。そんな表情。

 そうして俯くと、何かを思い至ったように顔を上げる。

「私、ゆきを連れてくる!」

「え!…待てっ!」

 真澄を慌てて制止しようとするが、既に遅く、少女に握られていた政行の手はぱたりと布団の上に落ちた。

 ――結局、兼行は一度も、屋敷へ戻るどころか文を返す事も無かった。


 真澄が屋敷から姿を消し、次の瞬間、彼女は御所の屋根の上にいた。

 初めて訪れる御所は広い。

 兼行の屋敷の何倍、何十倍という広さがあり、その屋敷の中では何百人という人間が動き回っている。

 今までにもここではない場所でそうした光景は見てきていて、慣れていたはずだが、この世界では、初めて見る光景に圧倒されていた。

 こんなにも多くの人間がこの世界にはいたのだと。

 真澄は適当に人気の無い場所で屋根から御所の廊下へ降りる。

 歩いていると、時折視線がこちらに向けられているのを感じた。

 兼行の屋敷で着ていた小袿を纏い、廊下を歩いているだけなのに注目を浴びる。

 格子の向こうの部屋から明らかに嘲笑の声。通り過ぎる男たちは目を丸くしてこちらを振り返る。

 首を傾げ、視線を向けられる格子向こうの女たちを見ると、自分が纏うものより更に豪奢な刺繍をされた鮮やかな色の着物を幾重にも纏っていた。

 それを見た真澄の感想と言えば、

「重そう」

だった。

 幾重にも重ねて身に纏う十二単が御所での常用する正装である事、女性が堂々と廊下を渡り、男性に顔を見せる事など、女性の嗜みとしてまず有り得ない事も真澄は知らなかった。

 ただ兼行の気配を辿って彼の元へ進む。

 どんな事があれども彼の気配だけは見失う事は無い。

 彼が彼女と出会ってから、彼の気配もしくは存在感は一層強くなり、逆に見過ごす事の方が難しくなっていた。

 真澄は一つの部屋の入り口の前に立った。

 そこは御簾や格子で隔たれる事無く廊下に面して開放された広い空間だった。

 人が数十人入れそうなその広い部屋には、誰もいない。人一人もいない。あるのは部屋の中央奥に敷かれている二畳分程の人が座る為の畳と、その畳の両側二箇所に設置されている火の灯っていない蜀台があるだけ。

 ふと、真澄は違和感を覚えて首を傾げた。

 廊下と部屋を仕切る左右の柱を見ると、見た事の無い文様が書かれた札が貼り付けられている。

 しかし、彼女は大してそれに気を止める事をせずに、一歩室内へ足を踏み入れた。と、同時に彼女の目に映る世界が変わった。

 部屋自体の造りは変わっていない。ただ、誰もいなかったはずの部屋に突然人が現れた。

 用意された畳に座す一人の少年。そして彼の中心にして左右三対二に分かれて垂直に廊下へ向かって一列に座る男たち。

 驚いたのは真澄よりもそこにいる男たちだった。

「何故この場所へ!?」

「誰も入れぬよう結界を張っておいたはず」

「どういうことだ一体?」

「それよりもどうして女がこんな所へ?」

 そして真澄から向かって右側手前に座っていた青年が口を開く。

「真澄…」

 驚きの中にも厳しい表情を見せた兼行を真澄は見据える。

 久し振りに会った兼行は以前よりも大人びた顔付きに変わり、真澄は胸に痛みを感じた。

 その痛みが何なのかは今は気にする暇は無い。声を掛けようと口を開くが、奥に座る少年の声に遮られた。

「そなたも異能の者か?」

 まだ声変わりもしていないやや高めの声質。真澄が振り向くと、少年はじっと彼女を見据えていた。

「はい?」

「そなたは兼行と同等の力を有する者かと問うている」

 漆黒の瞳が真澄の瞳を射抜く。周囲の視線も彼女に集中していた。兼行以外。

「はぁ…」

 しかし、糸を張り詰めたような緊張感と凍て付く視線に動じる様子無く寧ろ彼らからの視線を疎ましく感じて逸らし、真澄は兼行を見る。

「それどころじゃないの!ゆき!文が届いているよね?何度も何度も送っているのに届いていないの?」

 彼女はすたすたと奥に座る少年を無視して、彼を正面にして左右に分かれた男たちの間を歩くと、兼行の前に立ち、正面から見下ろす。

 他の人間はただただ彼女の行動に驚愕するしかなかった。

 真澄は兼行の前に座り込むと、彼の手を取り、訴えた。

「父さんが病気だって伝えたよね…。もう…持つか分からないよ。ゆきは一度も会わないまま父さんとお別れするの?」

 その言葉に鋭い視線を真澄に向けていた兼行の瞳が揺らぐ。

「娘!どうやってこの結界内に入ったか知らないが、帝を前にして礼をすることもせず、尚且つ帝の問いにも答えないとは、この狼藉者っ!」

 そう言って、兼行と対面するように座っていた男が立ち上がり、真澄の腕を背後から捻り上げるように掴んだ。と思った次の瞬間には彼は兼行の後方へ吹き飛ばされていた。

 飛ばされた本人にも、周囲の人間にも何が起こったのか分からず呆然とする。

 何の事は無い。男が真澄の腕を掴んだ瞬間その力の反動を使って投げ飛ばされただけの事である。

「邪魔しないで!私はゆきを呼び戻しに来ただけなんだから!」

 叫ぶ真澄の前で、兼行は立ち上がる。

「真澄。帰ろう」

 初めて声を掛けられ、、真澄が顔を上げると、兼行は笑みを見せた。

 その表情にまた真澄の胸がちくりと痛くなる。

 こんなに悲しいような、寂しいような表情は今まで見たことが無かったからだ。

 真澄はそう思うと、思わず彼から目を逸らしてしまった。

 その様子を兼行は無言で見つめ、顔を上げると、少年――帝に向き直る。

「少し席を外させてください」

 透かさず反論しようとする周囲の者を帝は手にしていた扇を振る事で宥める。

「そなた。近親者に異能の者がいる事を教えなかったな」

「聞かれませんでしたから」

 兼行はしれっとして答える。

「それにしては上京してから今までよく隠し通してこれたものだ」

「それは私ではありません。恐らく父でしょう。父上は異能の力を良くは思っていませんでしたから。それに私は最近屋敷に戻っていません」

 その答えに、帝はふむと考え、「そうか。そうだな」と納得した。

「では、暫し時間を頂きます」

 言うと同時に兼行と真澄の姿はそこから消えた。

 まるで始めから誰もいなかったかのように。

「成程」

 帝は薄く笑った。


 御所から次の瞬間には、兼行と真澄は、彼らの屋敷の入り口にいた。突然何も無いところから現れた二人に、それまで吞んだり喋ったり踊ったりしていた者たちも思わず静止して注目してしまった。

 兼行は自分の屋敷で行われている宴に驚き、呆然とし、騒いでいた者たちは二人が突然現れた方法が理解できずに呆然とする。

 その中で真澄だけが平然と、パタパタと手を振り、「気にしないで。続けて。続けて」というと言うと、その途端止まっていた時が一気に動き出したかのように、皆、宴を再会し始めた。

「何?何が起こっているんだ?」

 疑問符を浮かべながら兼行は真澄の後を追う。

「今日はね、父さんが皆におもてなしをする日だったの。皆集まって準備してくれて、もうおもてなしなんだか、宴会なんだか分からなくなっちゃっているけど」

 そう言って真澄は兼行を政行の下へ案内する。

 案内された政行の部屋に入ると、兼行はそこで横たわる父親の姿を見て驚愕した。

 痩せ細り、すっかり骨張ってしまった父親の体。

 人が部屋に入る気配に政行が目を覚ますと、二人の姿を認め、力無く笑って体を起した。真澄は彼に寄り添うように、上半身を起す彼の体を支える。

「父上…どうしてここまで…」

「心配掛けたくなかったんだがな。---久し振りだな。元気だったか?」

 笑う父親の顔は以前のような力強さも無い。

「どうして…。文は届いていました。それでも真澄がいたから。真澄がいてくれればきっと元気になられているはずだ。大事に至ることはない。そう信じていたのに」

 兼行は顔を上げると、責める眼差しで真澄を見遣る。

 真澄は傷付いた様に顔を歪めた。

 兼行の真澄に対して咎める視線を遮る様に政行は手を振る。

「違う。真澄は悪くない。真澄の力でこの体を治すのを断ったのは私だ」

 父親の言葉に兼行は彼に視線を戻すが、その表情は納得していなかった。

「私は真澄には異能の力を使う事無く傍にいて欲しかった。そして私が病気になるという事はそれは運命だという事だ。本来治るものであれば治るし、兼行と真澄がいなければ治す事が出来ないものならばそれは受け入れるしかないんだよ。お前たちが傍にいない他の人たちは治る事はないのだから。私だけ特別扱いはされたくない」

「そんな!病になる事が運命だと言うのなら、私たちが異能の力を持ち、父上の傍にいる事だって運命。私たちが治す事が運命だとは思いませんか!?」

 兼行が訴えると、初めから反論される事を予測していたのだろう政行は苦笑する。

「決めていたんだよ。お前の母親の最期を看取ってから--」

 その言葉に、兼行はそれ以上何も言う事が出来なかった。

 暫し沈黙がその部屋に広がると、廊下のほうからゴソゴソと音がする。

 振り返り、真澄が立ち上がって音の招待を確認すると、数人の市の人間や農民が料理や酒を抱え、こちらを伺っていた。その後ろには困り果てたように家人がこちらを見ている。

「あの…主様にご挨拶もしてなかったから…」

「俺たちが入るのは無理かな?」

「少しでも宴の楽しさを伝えられたら主様も元気になられるんじゃないかと思ってな」

 宴で屋敷を開放しているとは言え、政行の部屋を訪れる事を禁じられていた彼らは必死に言い繕う。

「真澄。お通ししなさい」

 背後からの政行の声に、訪れた男たちからも慣性が上がり、真澄の横を抜け、布団の上に座る政行の前に座り話しかける。

「今日は本当にありがとうございました。残念だなぁ。宴を一緒に楽しめないなんて」

「真澄のお陰で俺たちの畑も本当に良くなって」

「俺たちが作った野菜沢山置いていくんで、それ食べて元気になってくださいな!」

 皆嬉しそうに、初めて会う政行に今まで放したかった事が沢山会ったのだろう次々に話しかけた。

その様子を隣で呆然と見ていた兼行に、彼らは一通り政行に話しかけ終わると、その時初めて彼の存在に気付いたかのように振り返り、「あ」と声を上げる。

「あんた。あの時の貴族さんだろう!」

「そうだそうだ。あんたのお陰で今年は豊作で!本当に感謝してるんすよ」

 にこにこと笑いかけてくる彼らに、兼行は笑みを返す。

「有難うございます」

 それに気を良くした男たちは持っていた料理を広げ、酒を杯に注ぐ。

「あんまり無理は出来んでしょうけど、まあ、ちょっとだけ食べましょうよ」

 そう言って、男は兼行と政行にそれぞれ箸と杯が渡される。

「では少しだけ」

 と言って嬉しそうに政行はそれを受け取り、兼行は「いえ。私はまだ仕事が残っていますので、後で頂きます」と言って立ち上がると、真澄について来る様に目で合図し、部屋を出た。

 途中家人に父の傍について無理をさせないようにと指示を出して。

 兼行と真澄の背後からは笑い声が響いてきた。

 『私も交ざりたいな』と思いつつ、真澄は兼行の後をついて行く。

 人の気配の無い部屋に入ると、それまで無言で彼女の前を歩いていた兼行はくるりと振り返り、真澄を見据えた。

 そこには苦痛と悲しみが浮かんでいた。

 改めて見る表情に、真澄の胸がきゅっと今度は小さく萎んだ。

「真澄…。どうして。どうして父上の病を治さなかったんだ。君にならできただろう。父上はもう少し早く治療をしていればまだ長く生きる事が出来たのに」

「それは…。父さんが望まなかったから」

「父上が望まなくても私が望んでいる。この屋敷の者だって望んでいる。残される者の悲しみを考えれば本当にしなければならない事が分かるだろう。文が来ても君がいてくれるから大丈夫だ。そう信じていたのに」

 苦しそうに口元を押さえ、絞り出す様に声を出し、兼行は訴える。

「どうして。どうして文を出したのに帰ってきてくれなかったの?」

「君を信じていたからだ。まだ私は政に関わってから日が浅い。これから帝が上げる政策の基盤を作る為に今はまだ本当は御所を離れてはならない時期なんだ。私の異能の力を帝は認めて必要としてくれている。全てはこれからなんだ。だから父上の事はきっと君が良い様にしてくれると信じていた」

 真澄は何も言えず唇を噛む。

「市の者たちが集まっているのには驚いたが、それでも彼らの話を聞いただろう。今年は豊作だ。これから都はもっと豊かになる。それでもまだ方々まで豊かさが広がるには時間が掛かる。それまでは都の周辺で採れた余剰になる作物を税として徴収して、周囲の貧困している地域の救済に当てる。その間に土地を均し豊かさを少しずつ広げていく。あの笑顔がもっと広がっていくんだ。その為に私は必要とされている。私は必要とされている力を持っているのだから使わなくてはならないんだ」

 兼行は俯きかけていた顔を上げ、真澄を見つめる。

「その位気付いてくれていると思っていた」

 その言葉を告げられた瞬間、真澄は聞こえるはずの無い音が聞こえた。

 ピシリと何かが割れる音を。

 真澄は兼行にどんな表情を見せればいいのか。どんな言葉を告げればいいのか分からなくなっていた。

「もうずっと長く私の傍にいてくれた。私は君に沢山のものを与えてもらった。感謝している。だから真澄にも私が与えられるものを沢山上げたいと思って、互いの足りないものを補い合えるような関係になりたいと思っていた。私は真澄にもっと沢山の大切なものを伝えられているはずと思い込んでいたんだ。――すまない」

 笑えばいいのだろうか。

 怒ればいいのだろうか。

 悲しめばいいのだろうか。

 人間は、命あるものはこういう時、どんな表情をするのだろうか。

 真澄は自分が今まで得てきたものが何だったのか分からなくなり、頭の中は真っ白だった。

 ただ全身が震え、口元が震え、きっと今の自分の顔は醜く歪んでいるだろうと感じた。

 兼行は真澄の表情に気付き、彼女に手を伸ばすと、震えたままの彼女を優しく抱き寄せた。

「すまない。真澄。酷い事を言ってしまった。父上ももうすぐこの世からいなくなるのかと思うと、怖くて、君を傷付けてしまった。真澄は真澄だし、私が勝手に思い込んでいたのが悪かったんだ。本当に心配ならもっと早く駆けつければよかったんだ」

「…どうして…ゆきが謝るの…?」

「気付かないのならそれでいい。ただ謝らせてくれ」

「だってゆきは間違った事を言ってない。私が父さんの気持ちを大切にして他の人の気持ちを大切にしきれなかったから悪いんだ」

 でも。と真澄は疑問を心の中に沈める。

 『聡里や屋敷の皆に同じ事を伝えた時、誰も私を責めなかった』

 それはどうして?

 自分が感情と言うものを理解しきれていないから分からないのだろう。と疑問を口に出すことはしなかった。

 ただ。

 すぐ傍にいて、自分を抱き締めているのに、酷く兼行が遠くにいるような気がした。

 何も動く事が出来ずにそうしていると、「失礼致します」と廊下から声が掛かる。

 そちらを振り返ると、年若い女房が廊下で膝を突いて、手に持っていた文を差し出した。

 兼行は真澄から離れ、文を受け取ると中を読み、その文を持ったまま暫し静止する。

 声を掛けるのを躊躇われる気配が彼に漂い始め、真澄はただ文を持ってきただけの女房と兼行を交互に見る。

 静止していた兼行は一つ溜息を吐くと、真澄を振り返る。

 その表情は今にも泣き出しそうだった。

「帝からだ。すぐに御所に戻るようにと」

「どうして!?だって父さんもうあと少しの時間しかないのに!」

 聞かされた文の内容に怒りを覚え、真澄は怒りをぶつける相手は違うと分かっていても当事者の兼行に食って掛かる。

「――私は御所へ戻る」

「なっ!?何言ってるの!?」

「真澄が来るまで治水の話をしていたんだ。今年は冷夏だった。きっと冬には雪が降る。それが積もらない程度ならいい。しかし積もり、春を迎えてから雪解けする事があれば――。都は山に囲まれている。その山から豊かな川が流れ込んでくる事で私たちはこの土地で生きていける。しかし、春にその山に積もった雪の雪解け水により川の水量が上がれば、あっという間に川は溢れ出し、都は沈んでしまう。実際に今までも何度か起きているんだ」

「…だから?」

「だから私の力で天候を変えるか、川の支流を増やす。それを成す為に地形を見定めるのも今のうちに行わなければ間に合わない」

「それは父さんを見送る時間も無い程に急がなくてはいけないことなの?」

「それを君が言うな!」

 言ってから兼行は自分が言った言葉の過ちに気が付き、はっと口を噤む。

 真澄の瞳は揺らぐ事無く、兼行を見上げた。

「そうだね」

 無表情に。

 兼行は目を逸らし、言い澱みつつ言葉を続ける。

「それを行う事で、どれ程の人を救えるのか分からない。父上を看取りたい。けれど私はもう己の感情だけで、己の為だけに動く事は出来ないんだ」

 握り拳を作り、必死に自分に言い聞かせるように言葉を発する。

「…真澄も一緒に連れてくるように書かれていた。けれど真澄は連れて行かない。この世界に生まれ、この国で生きていく人間でもないのに巻き込みたくない。けれど二人とも参上しない訳にはいかない。だから私が一人で行って来る」

「うん」

「父上には今、これからもう一度会ってくる。―――どうか父上を頼む」

「うん」

 真澄はもう彼の言葉に頷く事しか出来なかった。


「父さん。ゆき、行っちゃったねぇ」

「そうだな。それでいいんだ。男は時には家族よりも仕事を優先しなくてはならない事がある。だからいいんだ」

 静かな空間。

 政行は布団に横になり、真澄は彼のすっかり細くなってしまった手を握り、布団の横に座る。

 空には月が昇り、御簾を上げたままの部屋に、僅かに入り込んでくる光が二人の姿の影を床に焼き付ける。

 秋の風が時折流れ込み、微かな枯れ草の匂いが鼻を擽る。

 部屋を間仕切る几帳の向うに、使用人や女房たちがいる事を二人は知っている。

「父さん。静かだねぇ」

「そうだな。静かだな」

 微かに聞こえてくる啜り泣きや嗚咽に、政行は静かに眼を閉じる。

「私、父さんと一緒にいれて良かったよ」

「父さんもだ。真澄に会えて、こうして最後まで傍にいてくれるのが真澄で良かった」

 その言葉に真澄は目を丸くする。

「私で良かったの?」

「真澄で良かった。――もしかしたら誰にも看取られないまま死ぬんじゃないかと思っていたからね」

 政行は苦笑する。

「そんな事無いよ。だって今だって皆傍にいてくれるよ」

「それは全て真澄のお陰なんだ」

「私は何もしていないよ」

「―――うん。真澄はそれでいいんだ」

 静かに真澄に微笑みかけると、政行は目を閉じる。

「一つ願いを言っても良いか?」

「私に出来ることなら何でも」

 真澄の答えに、安堵したように小さく息を付くと、願いを口にする為に政行は息を吸う。

「桜を見せてくれないか?―――妻に最後に見せてくれたように」

「―――」

「そうする事で、私は妻の元へ行ける様な気がする」

 「気付いていたの?」と確認する事は無かった。

 真澄は目を閉じる。

 そして、静かに開き。

「父さん」

 と、声を掛けた。

 政行は目を開く。

 目の前には無数の桜の花弁が舞っていた。

 視線を外に向けると、彼の妻を看取ったその瞬間開花した桜と全く同じ桜が目の前で、あの時と同様に花を咲かせ、闇の中月の光を浴びて鮮やかに咲き誇っていた。

 几帳の向うから歓声が上がる。

 と言う事は自分だけが見せられている幻ではない。

 驚きに真澄を見ると、彼女はにっこりと微笑んでいた。

 その表情に、政行は力が抜けてしまい、半分起しかけていた体を再び布団に横たえる。

 風によって運ばれる桜が彼の手元に落ちてくる。

 触れてみると、艶やかで、何処か懐かしい感触。

 もう片方の手から伝わってくる柔らかな掌の温もり。

「私は幸せだ。---ありがとう」

 そうして静かに彼は目を閉じた。


   7

 兼行は政行の葬儀にも戻る事は無かった。

 元々低い身分故、形に囚われる必要も無くなっていた政行の身辺を確認すると、近親者は既に他界しており、貴族の中に親しい友人は少なかった。そうなると、たった一人の血縁者である兼行もおらず、葬儀は政行に親交のあった人間、身分関わらず弔問してもらえるように屋敷を開放した。

 異例と言えば異例ではあるが、既に過去に異例と呼ばれる事を繰り返してきた慣れもあり、彼自身や彼の屋敷の者たちを知らない周囲の貴族からは非難されたが、それに対して悲嘆する者はいなかった。

 寧ろ貴族よりも、市の人間や農民が集まり、以前政行が開いた宴のように賑わい、彼を悼んだ。

 葬儀も終わり、一段落し、さて、屋敷の主がいなくなってしまったこの屋敷でこれからどうしよう。という時に、それは起きた。

「え?え?兼行様。このお荷物は一体…」

 門番をしていた男は兼行の突然の帰宅と、そしてその後に続く牛車と荷車に驚いた。

「今日から私がこの屋敷で暮らすんだ」

 兼行はそう答えた。


 真澄は呆然と目の前で繰り広げられる光景を見つめていた。

 女房や下男たちがあっちに行ったりこっちに来たりを繰り返している。その都度に部屋の調度品類は整えられ、元々使える部屋が少なく殺風景だった部屋が生活観のある部屋に変わっていく。

 彼女は呆然と見つめながら、取り敢えず邪魔にならない場所、邪魔にならない場所へと移動していった。

 ただ、その中で先程から皆、彼女を見つけると不思議な行動を取る。

 皆一様に彼女を労うのだ。

 ぽんぽんと頭を撫でる者。「大丈夫だ」だの「私は味方だよ」と言う者、抱き締めてくる者。

「何なんだろう?」

 首を傾げつつ、居場所も無いので、市に出かけてみようかと門に向かった。

「真澄!」

 戸口を出ようとした所で声を掛けられる。

 それは彼女がこの世界に来て、一番良く聞き慣れた声。

 振り返ると、兼行が笑みを浮かべ、手招きをしていた。彼の傍には聡里がいたが彼女は真澄が見ると視線を逸らし、俯いた。

「真澄。おいで」

 言われるがまま、真澄は兼行の後を付いて廊下を進む。屋敷の一番北にある部屋に辿り着くと、部屋を隔てていた几帳のその向うに招き入れられる。

「――」

 真澄は言葉にする事が出来ず、呆然としていた。

 そこには一人の女性がいた。

 まるで花のように白い肌、そして緩やかに波打つ黒髪。やや下がり気味の目じりが彼女自身が持つ儚い雰囲気を強調し、ふっくらとした唇には紅を乗せているのだろうか紅く、見る者を魅了した。

 これ程までに綺麗な女性がいるのかと、真澄は驚き、そして思わず感嘆の息を漏らす。

 兼行は真澄と対面するように女性の横に座ると、真澄を見上げた。

「まずは父上の件。最期を看取ってくれて有難う。屋敷に戻って来れない私の為に葬儀や処務を代わりに行わせてしまった。それに関してはお詫びと感謝する。今日、改めて父上の墓を見舞ってきた。私は親不孝者だ。けれどきっと分かってくれていると信じている」

 真澄はやや伏せ目がちに語る兼行を見つめながら、その場に座り、話を促した。

「真澄や屋敷の者には迷惑を掛けてしまったが今日からまた私はこの屋敷で暮らす事にする。妻と共に」

 そう言って、兼行は隣に座る女性に目配せすると、女性は真澄を見つめにっこりと微笑み、深く頭を垂れた。

「兼行様の妻を勤めさせて頂いております。藤乃と申します」

 まるで花が咲き誇るように柔らかで綺麗な笑顔に惹きつけられると同時に伝えられた事実に対して、真澄は目も見開いて、静止した。

 一瞬、時が止まってしまったのかとさえ錯覚した。

 しかし、実際には時を止めていたのは真澄自身だけで、再び五感が世界を認識するようになると、藤乃は既に顔を上げ、嬉しそうにこちらに語りかけていた。

「本当に真澄様とお話できるのを楽しみにしていたのですよ。兼行様はいつも真澄様のお話をされるから少し妬いてしまったりもして。そうでした。私の事は藤乃とお呼び下さいませ。至らない所もあると思いますがどうぞ仲良くしてやって下さいね」

 嬉しそうに笑いかける藤野につられる様に真澄も笑ってみせる。

 兼行はそう言って笑うので、真澄も笑ってみせた。

「先日行っていた宴があっただろう。あれは良い宴だったと思う。貴族と庶民ではやはり考えている事は違う。隔たりも大きいが、互いの架け橋になるだろう。それに彼ら農民や商人の話を直で聞いて、政をもっと人の為に役に立てる事も出来る。また来年以降も行っていきたいな。この間色々と立て込んでいたから宴の準備等を詳しく知る事が出来無かった。是非真澄に教えて欲しい。妻も貴族や庶民の隔たりの意識を持たない方だから安心してくれ」

 真澄は自分でもどうしてなのかは分からない。けれど一分一秒でも早くこの場を立ち去りたかった。

「私も仕事を貰い、政に関わり、もう十分に自立しているだろうと自負していたのに、真澄に教えられる事がある。本当に感謝している。これからも傍にいて欲しい」

 変わらない。兼行は何も変わっていない。

 そう思うのに、真澄は彼が酷く遠い存在に感じた。

 今まですぐ傍に、何よりも一番に耳の奥にまで響いてきた言葉が、まるで遥か遠くから聞こえてくるように彼女の中に入ってこなかった。

 私はちゃんと笑えていただろうか。

 真澄の意識はただそれだけだった。

 気が付いた時には話が終わり、気が付いた時には部屋を出ていた。

 何処と無く歩いていると、聡里に手を捕まれた。恐らくは真澄が部屋から出てくるのを待っていたのだろう。そうでなければ引越しで一番忙しいはずの女房頭が彼女を捕まえられるはずが無い。

 聡里は真澄の手を握り、台所まで連れてくると、用意していた菓子を渡す。そして既に沸かしてあったお湯で茶を入れ、真澄に差し出した。

 真澄は茶を飲む気にはなれなかったが、差し出された湯のみを受け取ると、一口口に含む。

 温かい。

 そして与えられた菓子を口に入れると、口の中に甘さが広がった。

「本当はもっと早く伝えればよかったんだけどねぇ」

 呟く聡里の言葉に真澄は首を傾げる。

「政行様が知らせない事を望んでいたから」

「父さんが…?」

「そう…。兼行様が既に結婚された事を知ったら、きっと真澄はいなくなってしまうから。兼行の為に都まで付いて来てくれたのに、傷付けてしまうから。出来るだけ少しでも長く知らせないでいて欲しいと望まれていたから。そしてそれは私たち屋敷の人間も同じ気持ちだった」

「--ゆきはいつ結婚していたの?」

「都で帝とご対面された数日後には。その日に奥方を見初められたそうですよ」

「そうなんだ…どうして皆私が傷付くと思ったんだろう」

 その真澄の呟きに聡里は驚いたように顔を上げる。

「だって私はゆきが結婚したって何も変わらないよ。ゆきが望んでくれるし、私がいたいと思ってここにいるんだから」

 明るく語る言葉と裏腹に真澄の表情は歪んでいった。

 何かを堪えるように。

 その表情を聡里はこれまでも幾度も見てきた表情だった。

 政行が倒れた時、兼行が政行を見舞った時、政行が亡くなった時、そして先程兼行に藤乃を紹介された時。

 本人は自分が何を堪えているのか気付かないのだろうか。まさかそんなはずは無い。そう思う一方で、そんな顔をさせ続ける事に胸が痛み、聡里は戸惑いながらも、意を決して真澄の手を握り包み込んだ。

「兼行様は貴方がいてくれて本当に幸せでした。そして私たちも。屋敷中の皆が貴方に沢山の大切なものを頂きました。それは確かに貴方にしか無い力です。私たちが持っていない異能の力ではなく、私たちも持っているその中で貴方にしか出来ない事をしてくれました。私たちは貴方がとても大切です。これからもずっとここにいて欲しいと願っています、けれど貴方が望むなら好きなところ行っていいんですよ」

 真澄にはその言葉の全てが理解しきれず眉間に皺を寄せる。

「貴方が好きな所で幸せに暮らしてくれれば、貴方を大切に想う私たちはそれだけで幸せなんですよ」

 優しい笑みをくれる聡里を真澄は見上げる。

 ふと、周りを見ると、いつの間に集まってきたのか屋敷の家人たちが土間に集まっていた。

 彼らは口々に謝りや労いの言葉、そして感謝の言葉をくれる。

 時には頭を撫で、頬に触れ、彼女を抱き締めて。

 そうされる事で真澄は自分の中にあった大きな黒い穴のような、糸をぐちゃぐちゃに巻いて絡まったような重さが、温かくて柔らかい、そして軽いものに変わっていた。

 それがどうしてかは分からないが自分の中が変化する事でずっと歪んでいた表情は彼女自身でも気付かないうちに笑顔に変わっていた。

 そして、胸に込み上げるものがあったが、それを言葉に変える。

「ありがとう」

 その言葉が何度も何度も喉から溢れ出続けた。


 真澄は月を眺めていた。

 屋根に登り、人工的に作られた屋敷の池に浮かぶ月を、そして真っ暗な空にぽっかり浮かぶ月を。

 翌日にはきっと雨が降るだろう。今はまだ薄いがやがて厚みを持って空を覆ってしまうだろう雲が月を時々包み隠していた。

 雲の流れる切れ間から覗く月は白く、優しい光を放っていた。

 いつか、遥か昔のような、ほんの少し前のような、そんな何時だか定まらない程近くて遠い昔、その日も真澄は月を見上げていた。

 その優しく彼女を包む込む月にゆらりと現れた黒い影が重なる。

 長い時の流れの中で出会う事は少なく、それでいて彼女が最もよく知る人物。

 彼女の対になるように、彼女と共にある存在。

「麒麟」

 それが対に与えられた名。

 対である存在、麒麟は苦しそうに顔を歪めていた。

「久し振りに会ったのに酷い顔――」

 そう言って彼女は笑うが、彼の表情が変わることは無かった。

「なぁ――。もういいだろう?」

 紡ぎ出された言葉に、真澄の笑い声がぴたりと止まる。

「何がもういいのか分からないよ」

「もうこんな世界にいる必要ねーだろ!」

 叫ぶように発せられる言葉に、真澄は反論する。

「そんな事――」

「あるだろ!ゆきはもう結婚したんだ!この世界で生きる役割を持って、嫁さんを貰っていつか子どもが生まれて、年老いて死んでいく。そうやって生きていくんだ!」

 真澄の表情が歪む。

「あいつはオレたちと似たような力を持ってる。でもオレたちと同じじゃない。生きているんだ。そしてこの世界で生きていくんだ。もうお前が傍にいてやる必要なんてないんだよ」

 真澄の表情を見て、麒麟も顔を歪めるが、喋る事を止めない。

「オレがお前から離れてからずっとお前を気にしてなかったと思うか?…もうお前の辛そうな顔見るの嫌なんだよ!」

「…辛そうって何が…?」

「お前のその顔だよ」

 真澄の両頬を掌で包み込み、麒麟はじっと彼女の瞳を覗き込む。

 その行動に不快さを覚えた真澄は、慌てて手を引き離そうとするが、麒麟はそれを許さない。

「泣きたかったら泣けばいいだろう!痛かったら痛い、傷付いたなら傷付いた、苦しいなら苦しい、嬉しいなら嬉しい、でいいんだ!泣けばいいんだよ!そんな顔するな!」

 そう言って、麒麟はコツンと真澄の額に自分の額をつけて彼女の瞳を真っ直ぐ覗き込んだ。

「兼行が好きだったんだろ。惚れてたんだろ」

「―――」

 麒麟が額を合わせながら彼女を見据えると、彼女の歪んだ表情がふっと無表情になり、そして瞳に涙がじわじわと堪り始め、それは一筋の流れになって頬を伝い、零れ落ちた。

 一度零れ始めると、後はまるで防波堤が決壊したように、ぼろぼろ止め処なく流れ続ける。

「…っ…ひっく…っ…」

 何かを言葉にしようとするが、声が出ず、喉の奥を鳴らし続け、呼吸を整えようとするが、元に戻す事が出来ない。

 緩められた麒麟の腕から逃れ、両手で必死に頬を拭うが、涙は止まる事無く流れ続ける。

「ふぁっ…に…し…ん…」

「何をしたんだって?オレは何もしてない」

 もう一度麒麟は真澄の目を覗き込んだ。

「そういう時は泣くんだ。泣けなくなるまで泣き尽くすんだよ」

 その囁きに真澄は頬を拭っていた両手を止めて、ただ涙を零し続ける。

「ふぅっ…うぇっ…」

 堰を切ったように嗚咽交じりの声を上げて、叫ぶように泣き始める。

 ただただ麒麟は真澄が泣き尽くすまで傍にいた。

「――ゆきに会えて良かったな」

 月を見上げて、麒麟は呟いた。



 その日を最後に真澄は姿を消した。


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