92 スモールマジック
昭和院大学昭和院競技場、『プリンセス雅マジックショー』特設ステージ。椅子はなく、客は皆立ち見である。真一と彼の悪友的場は、その立ち見席のステージからかなり離れた後方部分に陣取っていた。
「おいおい」
呆れた口調で的場が言う。「こんなところからじゃ、マジックなんて全く見えねえんじゃねえの? どうやったか分からない、っていうより何をやったか分からないって感じだぜ」
「んなこと言ってもよ」
わしわしと頭をかく真一。「開演時間直前に会場入りしといて良い場所を取ろうなんて、さすがにムシが良すぎるだろ」
ステージから近い、絶好の場所に立つ客たちの後ろ姿を眺める。当初の予定では自分たちがあそこにいるはずであった。
では、なぜこんなことになってしまったか。理由は単純明快である。プリンセス雅が開演直前、つまりたった今まで、キャンパス内でのゲリラライブを続けていたのだ。真一は早めに会場入りして良い場所を確保することより、ゲリラライブを見物することを優先させた。しかし……。
はあ、やっぱり早く会場入りすべきだったな。
真一は大きく溜息を吐き、肩を落とした。結局ゲリラライブもまともに観ることができなかったのである。雅の出没情報を仕入れ、急いでその現場へ向かい、辿り着いた時には、すでに雅のショーはお開き、とその繰り返しであった。
「もう、あっちに行かねえか」
的場が口元をいやらしくにやつかせる。『あっち』とは秀英大学のことであろう。「チケット代は惜しいけどよ、どっちにしてもまともにマジックなんて観れねえんだし」
秀英大学で綾香たちアイドルによる水鉄砲を使ったサバイバルゲームが行われ、アイドルたちが次々とビキニ姿になっているという情報を得た時から、的場はずっとそちらへ足を運びたがっている。真一も気にならないといえば嘘になるが、それでもやはり雅のショーのほうが重要だ。それに……。
「今更行っても遅いだろ」
真一はポケットから携帯を取り出し、時刻を確認した。空はまだなんとか明るいものの、午後五時を回ったところである。トークショーは六時スタートのはずなので、そろそろサバイバルゲームも終了する頃だろう。
「サバイバルゲーム行ってきたぜ」
真一たちの背後でタイムリーな話題が出る。そちらに顔を向けず、真一と的場は聞き耳を立てた。「滝田亜佐美がチョーすげえの、動くたびに胸がゆっさゆっさ揺れてさ。パンツもめっちゃ食い込んでたし、写メ撮ったけど見るか?」
「おお、すげえ。それってまだやってんのか?」
別の男が尋ねる。
「五時までって言ってたな。最後までは観てねえけど、あのままいけば内藤ちえ美が罰ゲームだな。ビキニ姿で一発ギャグ、観たかったなー」
俺も観たかったなと思いながら真一は。
「ほらよ」
的場の腕をひじで突く。「もう終わったんだとさ。おとなしくマジック観んぞ」
チッ、と的場が舌打ちをした時、ステージがパッと明るくなった。
下からの照明でライトアップされた、だだっ広いステージ。目につくものは特にない。後ろ側はただの板張りのようで、『プリンセス雅マジックショー』という文字だけが見える。屋根はない。ステージの脇には舞台袖といった感じの死角があり、その近くに数人の関係者らしき人物が集まっている。
《大変お待たせしました》
マイク片手に、舞台袖から姿を現したのはプリンセス雅ではなく、タキシードに蝶ネクタイという出で立ちの若い男性であった。おそらく昭和院大生で、彼が司会進行役なのであろう。《ただいまより、昭和院大学学園祭今年最大のイベント、『プリンセス雅マジックショー』を開催させていただきます!》
地鳴りのような拍手と声援。真一はたじろぎ、思わず耳をふさいだ。《いやー、今日は屋外でのステージということで、雨が降ったらどうしようかって感じでしたけど、無事晴れてくれて良かったですねー。昨晩、窓辺にてるてる坊主を下げておいた甲斐がありました。で、これがそのてるてる坊主なんですけど……》
懐からてるてる坊主を取り出す。遠目でよくは見えないが、そのてるてる坊主には違和感があった。頭の上に黒い物体が乗っているのだ。プリンセス雅にあやかり、小さいシルクハットでもかぶせてんのかな、と真一は予想した。とその時。《え?》
話を止め、司会者はすっとぼけた顔を見せた。《そんな話はどうでもいいからさっさと主役を呼べですって? 失礼しちゃうなー。彼女ならちゃんと皆さんの目の前にいるじゃないですか》
どよめく観客たち。しかし本心では皆、自分と同じ思いなのであろうと真一は思った。
さっそく始まったな……。
司会者はてるてる坊主にマイクを当てた。やがてそのマイクをとおして(かどうかは不明であるが)てるてる坊主が喋り始めた。
《皆、長らくお待たせして悪かったね》
無論、雅の声である。《頭にかぶったシルクハットを見てもらえば分かると思うけど、実は私がプリンセス雅なのだよ》
やはり、シルクハットであった。《私はシャイだから、いきなりステージに上がるのは緊張するんだ。だからまずはてるてる坊主くんの身体を借りて皆の前に登場させてもらったよ》
ふわっとてるてる坊主が司会者の手から離れ、浮き上がった。司会者の頭の上でくるくると回った後、上空で静止する。
「真一よお」
名を呼ばれ、真一はステージから的場へと視線を移した。「俺、なんだか頭痛くなってきちまったよ」
「馬鹿」
真一は苦笑した。それからまたステージに視線を戻す。「あんなもん糸かなんか使って操ってんだろ」
そう言いながらも、実は納得などしていない。屋根はないのだ。
《でも、ずっとこのままってのはちょっと寂しいかな》
てるてる雅は言う。《皆は実物の私を観に来てくれてるんだもんね。じゃあ、ちょっと待ってて、今本体を呼び寄せるから》
その瞬間、こと切れたようにてるてる坊主がステージの床にポトリと落ちた。司会者がそれを拾い上げる。真一は固唾を呑んでステージの上を注目し続けていた。
《ただのてるてる坊主に戻ったみたいです。ほら、シルクハットがなくなっている》
司会者にそう言われて真一もようやく気がつく。確かに、てるてる坊主の頭の上にあった黒い物体が消えている。
「全然見えねえよ」
駄々をこねるように的場が言った。「あんな細かいことされても前のほうのやつじゃないと分かんねえよなあ」
「確かにな」
真一は頷く。「もともとプリンセス雅のマジックって、トランプとか使ったり、けっこう細かいやつが多いから、しかたねえよ」
そう言った矢先である。背景の板がぐらぐらとぐらついたかと思うと、女性客の短い悲鳴を合図になんとステージ側へゆっくりと倒れてきたではないか。《うわー》と叫び声を上げる司会者。派手な音もなく彼が板の下敷きになると同時に、ステージからもくもくと煙が立ち上がった。
ざわざわと控え目に騒ぐ周りの観客たちと同じように、不安そうな目つきでステージを見つめる真一と的場。しかし、すぐに真一は口の端を曲げる。ステージを隠すように立ち込める煙がやたらと人工的なものだったからである。
やがて煙の向こうに人影が見える。煙が薄れ、その人物の姿が鮮明になるにつれて、観客たちがまた歓声を上げ始める。タキシードに身を包んだ髪の長い少女。頭にはシルクハット。姿を現したのはもちろん、プリンセス雅であった。
《たまにはこんな大がかりなこともやるんだ》
マイクを手に彼女は言った。小さな笑いが巻き起こる。まるで自分たちの会話を聞かれていたかのようだなと真一も苦笑した。《さて、これからが本番なわけだけど、まずは……》
先ほどまでは背景だった床の一部分を指差す。司会者が下敷きになったあたりであるが。《彼を救出しなくっちゃね》
笑いが大きなものへと姿を変え、パチパチと拍手がこだました。真一と的場も無意識のうちに手を叩いていた。