89 思わぬ訪問者
《大変なことになってまいりました。一度は逆転したはずの内藤ちえ美さんが、最下位を独走中! おまけに他の二人は逃亡中。イエーイ! さあ、いよいよ残り二十分。ちえ美さんの逆転はありえるのかー!》
そんな学内放送に耳を貸そうともせず、詩織は黙々と露店で購入したポップコーンをほお張り、目の前で繰り広げられるショーを観覧し続けていた。
「わー、サバイバルゲーム大詰めみたいだよ」
隣に座る田之上が焦りを含んだ声色で言う。「もうミスコンはいいじゃん。早く観に行こうよ」
「だから、一人で行けばいいでしょ」
ツンと顔を背ける詩織。「私はサバイバルゲームなんかよりミスコンが観たいの」
そしてまたポップコーンを一つまみしてから、元親友の顔を思い浮かべる。
誰が綾香なんか……。
二人はキャンパスの北東にある広場内ミスコン特設ステージの観客席の最前列に並んで座っていた。元親友、綾香を含むアイドルたちのサバイバルゲームが始まってからというものの、ここはいまいち活気をなくしてしまっている。観客席(パイプ椅子を三百脚ほど並べて作られた簡易なもの)のほとんどは空席で、おまけに百名近いという参加者たちも観客席に座っているため、純粋な見物客は詩織たちを含めたごく少数だということは想像に難くない。まあ要するに、サバイバルゲームに客を取られてしまったわけである。
《さあ続いてエントリーナンバー七十一番、経済学部の澤井明日香ちゃんでーす》
司会者の男子学生。彼からも当初のような覇気が感じられなくなった。まあ、それは客が減ったからという理由だけではなく、長時間に渡りひたすら参加者を紹介し続けるという単調激務の疲れもあるのであろう。
「はー、この子は微妙だねー」
詩織は鼻で笑った。「それなりに可愛いけど、ミスコンに出れるレベルじゃないでしょう。なんていうの? 華がないっていうか」
「詩織ちゃん、失礼だよ」
どんどん性格が悪くなっていく恋人をたしなめる田之上。「さっきから毒吐いてばっかりじゃないか。たまには褒めてあげなよ」
「田之上くんこそ失礼だねえ」
前を向いたまま、詩織は表情を変えずに言う。「何人かはちゃんと褒めてるでしょ。十一番と十七番と三十一番と四十番と……」
「よく覚えてるね」
田之上は苦笑した。「実は綾香ちゃんを観に行きたい、っていう本心のわりには」
「……!」
詩織が何か反論しようとした時、突然広場の隅が騒がしくなった。二人が同時にそちらへ目を向けると、そこに一組の男女を先頭とした集団があった。
《あー、すみませーん》
司会者が慌てた様子で言った。《アイドルさん、客席でのバトルはなるべく避けてくださいねー。ステージに上がってくるのは論外です》
「オーケーでーす! ちょっとかくまってもらうだけなんで、他のチームが来たらすぐに離れまーす!」
先頭に立つスーツを着た男性が大声で答える。彼がパートナーだとすると、横にいる少女はアイドルのうちの一人だということか……。
「あ、綾香……!」
先に気がついたのは詩織であった。綾香は大きな黒いコートを羽織っており、裾からは素足が伸びていた。頭には白いハット、手には水鉄砲。ぐったりと背を丸め、うつむいている。どうやらかなりの激戦を終えたところのようである。
「やった。向こうから来てくれた」
嬉しそうに田之上が言う。「話しかけても大丈夫かな」
詩織はやはりふて腐れた表情で「さあね」とだけ答えた。
綾香は水鉄砲をパートナーに手渡し、こちらに向かってトボトボと歩いてきた。彼女が連れていた集団が後方の客席にぞくぞくと腰を下ろす中、彼女だけが最前列にまで達し、詩織たちが陣取る場所から右へわずか五脚目のパイプ椅子に座った。パートナーは水鉄砲を手に、どこかへ行ってしまったようである。
元親友の様子をまじまじと観察する詩織。かなり憔悴しきった表情だ。おそらく、ここでひっそりと残り時間を潰そうという考えであろう。周りのミスコン参加者や元からいた観客たちも、それを察してか誰も騒ごうとはしない。綾香はトレードマークのハットを脱ぎ、隠すように懐の中へ入れた。
「やっぱり最低だね」
綾香からステージ上へと視線を移し、詩織は言った。「こんだけ近くにいるのに気がつかないなんて、自分が呼んだくせしてさ」
「そんな」
また苦笑いを浮かべる田之上。「疲れててそれどころじゃないんだよ。ゲーム終わったら話しかけてみよう。きっと詩織ちゃんが来てるって知ったら喜ぶよ」
「喜ぶ……? どうかねえ」
嫌味ったらしくそう答えた後、詩織はもう一度だけ綾香を見やり、ふんと鼻を鳴らした。むしゃむしゃとポップコーンを噛み砕く。
その時、綾香の後ろの席に座る女性が、綾香に話しかけた。エントリーナンバー七十四番まで進んだミスコン(何番まであるのかは知らないが)に目と耳を傾けながらも、意識は綾香と女性のやり取りに釘付けとなってしまう詩織。観客たちのほとんどがそうなのかもしれない。
「あの子、参加者だったよね」
目も耳も意識も綾香に傾けている田之上が口を開いた。無論、綾香と話している女性のことであろう。「何番だったっけな」
「十七番」
横目で女性を眺めながら詩織は答えた。「名前は忘れちゃったけど、確か文学部二年の人だったはず。あの人はけっこう感じ良かったね。私は優勝候補だと予想してるんだ」
アピールタイムで、こま回しというシュールなことをやっていた女性だ(しかも失敗していた)。屈託のない笑顔がとても愛らしかったのを覚えている。レモン色のワンピースの上から白いチョッキを羽織っており、控え目なショートボブカットと合わせ、それがとてもよく似合っていた。
「あれ、綾香ちゃんになんか手渡したよ」
わざわざ報告する田之上。彼に言われなくとも、詩織だって気がついていた。手渡したのは眼鏡で、綾香はすぐさまその眼鏡を装備してみせた。なるほど、なかなか印象が違って見える。それは変装としてはもってこいのアイテムだったようである。
「ん?」
その時、綾香の様子が一変した。目と口を大きく開け、不気味な笑顔を浮かべ始めたではないか。そして視線は真っ直ぐにこちらへと向いていた。
「ほら言ったでしょ」
勝ち誇ったように田之上が言う。「詩織ちゃんを見つけた途端、あんなに嬉しそうな顔して」
チッ……。
詩織は心の中で舌打ちをした。あえて綾香から視線をそらしてみる。視線を戻すと、綾香は同じ表情のまま一つ近い席に移動していた。またそらす。再び戻すと、更にもう一つ近い席へ。
来るんならさっさと来い!