86 本気モード
「橘川さん、どうしましょう」
背中でちえ美の不安そうな声。橘川は二十メートルほど先のチロリチームを見すえたまま、二、三度頷いてみせた。
「大丈夫。向こうだって同条件ですよ。それより……」
キョロキョロと周囲の群衆を見回す。「亜佐美ちゃんチームがどこからか狙ってるかもしれません。チロリちゃんチームは俺に任せて、ちえ美さんは後ろを見張っててください」
「はい」
二人は背中合わせとなる。観客たちは二人の半径五メートル以内に近づこうとはしない。おそらく、対決しやすよう気を使ってくれているのだろうが、橘川にとってはどちらかというと、盾になってくれたほうが嬉しかった。
両チームを結ぶ直線上もポッカリと空けてくれている。橘川は緊張の面持ちでチロリチームを凝視し続けた。
ズボンのポケットに手をつっ込み、なぜか余裕の表情を浮かべている藤岡。そして彼の後方で伏せている綾川チロリ。トレードマークの白いハットが非常に目立っている。
くそ、なんで上手くいかなかったんだろうな。
先ほど、少年たちに偽の情報を伝達させた作戦である。チロリチームはてっきり亜佐美チームを狙うと思ったのだが、まさかこちらへ攻めてくるとは。亜佐美チームの動向も気がかりである。チロリチームと未だに接触していないのなら、亜佐美チームも自分たちを攻撃してくる可能性が高い。
ちえ美ちゃん、二人から嫌われてるのかな。
思わずそんなことを考えてしまう橘川であった。
ん?
橘川は眉をひそめた。藤岡の後ろのチロリの様子に、やや疑問を抱いたのだ。ちえ美は先ほどからずっと水鉄砲をかまえているが、チロリは隠れたままでこちらを攻撃してくる様子は全くないし、水鉄砲も見えない。
ひょっとして水鉄砲を持ってないのか? 誰かに渡して代わりに攻撃してもらうとか……。いや、アイドル自らが撃たないとポイントにはならないはず。
「ちえ美さん」
背後のちえ美に呼びかける橘川。「なんでしょう」とちえ美。「観客の中に顔を隠している女の子がいないか、注意して見ててください。チロリちゃんが変装して紛れ込んでいる可能性もあります」
「え!」
ちえ美が目を見開くのを確認し、橘川は頷いた。それからまたチロリチームに視線を戻す。「じゃあ、あのチロリちゃんは……」
背中から困惑の声。
「偽者の可能性があります。考えてみれば、チロリちゃんはキャミソールを着ていたはずなのに、あそこにいる白いハットの女の子は長袖のシャツを着ている。お客さんか誰かに借りた可能性もありますけど、顔も見せようとしないし、やっぱり怪しいです」
「偽者……。そんなのアリなんで……」
ちえ美がそこまで口にした時だった。「キャ!」
その短い叫び声と同時に、橘川の頬に水しぶきが跳ねた。橘川はハッと振り向き、ちえ美の様子を窺った。ちえ美は目元を押さえ、うずくまっていた。
「や、やられたっぽいですー」
「やっぱり……」
橘川は周囲の群衆の中にそれらしき人物がいないか探し始めた。すぐに、他の観客たちから注目を浴びる水鉄砲をかまえた少女をとらえる。野球帽、黒いジャケット、赤いジャージ、スポーツバッグ、先ほど見たチロリの服装とはまるで違っているが、橘川は確信する。それは間違いなくチロリであると。「くそ!」
橘川はちえ美の前に仁王立ちし、壁になった。口元をにやつかせ、銃をかまえながら近づいてくる少女。
「さあ、そこをどきたまえ」
芝居がかった口調で少女は言った。その聞き慣れた声は、やはり綾川チロリのものであった。「その高そうなスーツを水びたしにされたくなければね」
「くっ」
若干怖気づく橘川。確かにこのスーツを水びたしにされるのは痛いが。「ど、どきません! 撃ちたいなら撃ってください!」
そんな男らしいことを口にしながら橘川は感慨に耽っていた。
や、やったー! ついにチロリちゃんと口が利けたぞー!
「すきアリー!」
素早い動作で、チロリがちえ美の側面に回り込む。橘川が一瞬遅れて「しまった」と反応した頃には、チロリの発射した水弾がちえ美のわき腹あたりを直撃していた。
「あーん、いやーん」
情けない声を上げるちえ美。彼女はまだ、しゃがんだまま目元を押さえている。
「よっしゃー! 作戦成功!」
ガッツポーズをし、チロリは一目散に藤岡のもとへ走っていった。やがて藤岡と合流し、そのまま二人で大講堂前の広場から離れていく。
く、くそ……。俺が集中を切らしてしまったばかりに、防げたはずの二発目まで……。
「ちえ美さんチーム。二ポイント奪われました」
観客の中の一人の女性が言った。その場にいるちえ美以外の全員が彼女を注目する。やや幸が薄そうな顔立ち。セミロングヘアーとヘアバンド。なんとその女性は、秀英祭ツアー実行委員の一人、控え目少女の貴美であった。バインダーに挟んだ紙にペンで何かを書き込んでいる。
「き、貴美ちゃん?」
「私も審査員の一人です」
ニコッと微笑む貴美。「それはそうと、これでちえ美さんが二歩後退してしまいました。このまま五時になればちえ美さんの罰ゲームが決定してしまいます」
「そ、そうか……」
橘川は神妙な面持ちを浮かべた。もう攻めるしかないということだ。
「許せない!」
突然ちえ美がそう叫び、橘川を始め、辺りの数人が驚いてビクッとする。なにごとかとちえ美に目を向ける橘川。いつの間にか立ち上がっていたちえ美は、わなわなと肩を震わせながら、じっとうつむいていた。「メイクしてるって知ってるくせに、わざわざ顔を狙うなんて……」
そして顔を上げる。確かにメイクが落ち、目元がやや黒ずんでいる。橘川は「まあまあ」と彼女をなだめた。
「顔を狙うってのは反撃を阻止する有効手段です。こっちも仕返ししましょう」
「もちろんです!」
そう言うと同時に、ちえ美は水鉄砲を地面に置き、濡れたデニムのジャケットを唐突に脱ぎ捨てた。観客たちがどよめき始める。ジャケットの下に着ていた赤いティーシャツさえも脱ぎ、上半身は白いビキニのトップス一枚という姿になった頃には、観客のどよめきも歓声に変わっていた。
「ち、ちえ美さん。何を……」
おろおろとした様子で橘川が尋ねる。彼にとって同年代の女性のビキニ姿をこんなに間近で見たのは生まれて初めての経験であった。
「濡れた服は邪魔になります。もういりません!」
水鉄砲を拾い上げるちえ美。怒りからなのか、恥ずかしさからなのかは不明であるが、少し頬を紅潮させている。「さあ、早くチロリのヤツを追いましょう」
「は、はあ……」
橘川は気の抜けた返事をした。