84 ファン心理
秀英大学キャンパス最北に位置する第四学舎の前。橘川は何度も深呼吸を繰り返しながら、そわそわと視線を左右に動かしていた。視線の先には、周りを取り囲む大勢の観客の姿があったり、テレビリポーターにインタビューを受ける内藤ちえ美の横顔があったりした。
「ちえ美ー! がんばれー!」
数人の若い男性から野太い声援が飛んだ。ちえ美がそちらに顔を向け、淡く微笑み、小さく手を振る。それからチラリと橘川を一瞥する。橘川はなんとなく目を逸らしまった。
とんでもないことになっちゃったな。
ただの秀英祭ツアーがサバイバルゲームに姿を変え、秀英祭全体のテンションは明らかに上がっている。自分たち(というよりちえ美)に注目する、周囲の客たちの数を数えてみようとて、それは到底無理な話である。百人やそこらではない。数え切れない。
テレビカメラはキャンパス内に二台入っており、一つはここ、もう一つはおそらくチロリのところにある。テレビ局側はトークショーよりも、むしろこのサバイバルゲームに注目していると聞く。もちろん、今となってはほとんどの者が同じ考えであろう。
《まもなく開始いたします。三チームとも準備はよろしいでしょうか》
学内放送が響く。みなみはゲーム中ずっと放送室に居座るようだ。放送を聞き、ちえ美が軽い足取りで橘川のもとへ駆け寄ってきた。両手で水色の水鉄砲を抱えている。それなりに飛距離も出る全長三十センチほどのポンプ式のもので、他のアイドルも全く同じものを所持している。
「絶対勝ちましょうね」
ちえ美がなぜか客に銃を向けながら言った。「私、罰ゲーム本気で嫌なんです」
「は、はい」
軽く頭を下げる橘川。「俺にできることがあれば。でも、盾になったり、ガイドしたりしかできませんけど……」
その時、また観客たちから野太い声が飛んだ。
「橘川ー! お前、ちえ美ちゃんを死ぬ気で守れよー!」
声の主に目を向けてみるも、知らない男性である。他にも女子高生らしき集団から「橘川さん、頑張って!」とエールを受けたり、肉体労働者風の中年男性から「ちえ美に手ぇ出すんじゃねえぞ」と忠告を受けたりしたが、いずれも橘川とは無関係の人物であった。学内放送にてみなみに、橘川ら三人のパートナーのことも紹介されてしまったのだ。
《それでは3、2、1……》
カウントが始まると同時に観客たちが静まり返り……。《スタートォッ!》
その合図と共にまた一気に湧き上がった。
先ほど、それぞれがどのアイドルのパートナーになるかについて、三人のガイドたちの間で話し合いが行われた。二人の後輩が『まずは橘川さんが自由に選んでいいですよ』と言ってくれたため、橘川は悩んだ末に、チロリではなくちえ美を希望した。それにはもちろん理由がある。サバイバルゲームが企画される前に、一度だけチロリと顔を合わせているのだが、その時、橘川は頭が真っ白になるほど彼女に対して緊張感を覚えてしまったのである。もし、彼女のパートナーになれば、ガチガチに固まってしまい何ら戦力にはなれないだろうと考えたわけだ。
ただし、今となってはもう一つ理由ができた。
「ちょっと作戦タイムです」
パンフレットの地図を広げて、ちえ美が言った。二人はまだ第四学舎の前から離れてはいない。「まずはどっちに行きます? 安らぎの森広場? 正門前?」
南西の安らぎの森広場は亜佐美、南東の正門前はチロリのスタート地点である。それぞれのチームのスタート地点だけは全チームに知らされている。
「そ、そうっすね」
橘川も地図に目を落とす。「チロリちゃんが一番動きやすそうな格好してるから、一騎打ちになると危ないかもしれないっすね。まずは亜佐美ちゃんを狙ってみますか?」
「でも……」
ちえ美は空を見上げた。橘川もそれにつられる。「意外と暖かくなりましたね。これなら亜佐美ちゃん、さっそくビキニ姿に変身するかも」
確かに十月下旬にしてはよく陽が照っている。観客たちの熱気も気温の上昇に一役買っているのかもしれない。
「うーん、それもあるか」
亜佐美のビキニ姿を想像して、ほんの少し興奮してしまう橘川。気を紛らわすように、両手で自分の頬をパンパンと叩く。「そうだ。他の二人の行動も大事ですよ。このゲームは優勝者を競うんじゃなくて、最下位以外を競うわけですから、二チームが組んで一チームを狙ったほうが当然有利です」
「なるほど!」
嬉しそうに声を上げるちえ美。「さすが、頭良いですね!」
「いや……」
橘川は照れて頭をかいた。
「それならうちらが有利ですよ」
ちえ美は自信満々な表情を浮かべた。「亜佐美ちゃんとチロリちゃん、朝からケンカばっかりしてるんです。きっと二人が潰しあってくれます」
「そ、そうなんですか?」
橘川は目を丸める。「それなら俺らがどっちに加勢するかが勝負の行方を左右しそうですね」
「どっちに加勢します?」
上目づかいでちえ美は尋ねた。橘川は一瞬、宙に視線を泳がせるも、迷うことなく答えた。
「亜佐美ちゃんに加勢しましょう」
第四学舎のほぼ真南にある大講堂を目指して歩く道すがら、橘川はふと思いつき、「ちょっと」とノリの良さそうな少年三人組に声をかけた。高校生、いや中学生だろうか。とにかくあどけなさが残る顔立ちである。
「頼みがあるんだ」
「はい。なんすか?」
突然話しかけられ、少々戸惑っている様子の少年たちだったが、その目にはしっかりと好奇心が宿っている。
「チロリちゃんのチームにさ」
少年たちと顔を寄せ合い、小声で話す橘川。「『ちえ美ちゃんチームが亜佐美ちゃんチームを狙ってましたよ』って伝えてきてほしいんだ」
それから南側を指差す。「今、チロリちゃんたち、向こうのほうにいるみたいだからさ」
ちえ美ファンの客のタレコミである。
「分かりました」と頷いた後、少年たちは駆け足で南側に向けて走り出した。
「凄いですねー」
ちえ美が感心したように言う。「頭脳戦って感じ。チロリちゃんを安心させておいて、後ろからバンってことですね」
「そうゆうことです」
橘川はコクリと頷いた。「やるからには徹底的にやります」
「それにしても」
やや言いにくそうにちえ美は言った。「橘川さんってチロリちゃんのこと嫌いなんですか? さっきもずっとチロリちゃんを見つめてたし……」
「あ、いや、その……」
橘川は腰に手を当て、しばし悩んだ。やがて決心し、口を開く。「いえ、逆です。好きなんです。ファンなんです」
初めて素直になれた。
「じゃあ、なんで……」
そこまで口にした時、ちえ美はハッとした表情を浮かべ、口もとを手で覆った。「ま、まさか……」
橘川は頷く。
「当然のファン心理ですよ」
チロリちゃん、ゴメン。でも、君に勝たせるわけにはいかない。しかたないんだ。
橘川はチロリのビキニ姿での一発ギャグを死ぬほど見たかった。