76 眠れぬ夜
帰宅し、「ただいま」と両親に挨拶をした後、羽山美穂はすぐに自室へと引きこもった。仕事先で夕食を済ませてくるということについては、今朝母にキチンと口頭で伝えていた。
鞄を本棚にたてかけ、眼鏡をケースにしまって学習机の引き出しに入れてから、美穂はセーラー服姿のままベッドに飛び込み、うつぶせのまま背伸びをした。壁にかけられたペンギンのキャラクターの時計を見て時刻を確認する。午後十時前である。
ふう、疲れたなー……。
大きく息を吐く美穂。それからすぐに立ち上がり、セーラー服とブラジャーを脱ぎさった。朝、ベッドに置きっぱなしにしておいたベージュ色のパジャマに着替える。
本日も学校を終えてからすぐにテレビ収録の仕事へと向かった。明日は土曜日で、学校はない。しかし、午後の生放送出演のため、朝から新幹線で大阪へと向かわなければならない。そろそろ就寝してもいい時刻なのだ。
お風呂は朝入るとして……。あ、メイク! はメイクさんに落としてもらったんだっけ。
美穂はとにかく早く眠りたかった。眠くて眠くてしかたがなかったのだ。
今何時だ?
常夜灯のみが灯った薄暗い部屋の中で、美穂は必死で目をこらした。時計の針は午後十一時半を指していた。美穂は絶望感から、うつぶせになり枕を抱え込んだ。
ダメだ! 眠れない。
ここのところ、こんな日が頻繁にある。原因は美穂自身もよく分かっていた。そう、橘川夢多である。ベッドの中で彼のことを思い出したら最後、気分が高ぶってしまい、いくら眠たくても、意識が鮮明なまま一時間、二時間と平気で経過してしまう。おかげで、寝不足から学校の授業中に居眠りをして教師に怒鳴られたり、仕事の休憩中にうとうとしてしまい、共演者やスタッフに笑われたり、呆れられたりしている。今日に限ってはマネージャーの仲田に、目の下の隈がひどいと本気で叱られた。
美穂だって、橘川のことを考えたくて考えているわけではないのだ。ベッドに入った瞬間、いつも『今日こそは絶対に考えないぞ』と強く決心しているが、その決心こそが橘川のことを連想させる悪い材料となってしまっていた。
美穂は身体を起こし、ベッドから立ち上がった。それから、灯りを点けてセーラー服のスカートのポケットからプライベート用の携帯を取り出した。親友の那美に『電話していい?』とメールを送り、すぐに『いいよ♪』と返信があったので、電話をすることにした。眠れない夜は那美と話をするのが一番だということを美穂は知っていたのだ。
《また眠れないの?》
明るい声で那美は言った。眠たげな様子はない。《橘川さんのこと考えてるんでしょ?》
「うん」
那美だけには橘川のことを相談していた。「今日もたっぷり考えちゃった。秀英祭に行けば橘川さんと会えるのかな、とか」
《でも、仕事なんでしょ? 学校だってあるし》
美穂は力なく「うん」と返事をした。秀英祭期間の十月二十八日から三十一日は、毎日仕事があり、日曜日である二十八日(つまり明後日だ)以外は学校もある。《あきらめるしかないよ。それに、行けたとしても広い大学のキャンパス内で橘川さんを発見するのも難しいし、下手すれば美穂が来てるってバレて大騒ぎになっちゃうよ》
「うん、分かってる」
更に力なく返事をする美穂。「あきらめるよ。ごめん」
《あきらめるしかないっていうのは橘川さんのことを、って意味じゃないからね》
那美のその言葉を聞き、美穂は「へ?」と間抜けな声を発した。《秀英祭行きのことだよ。橘川さんとはまた再会するチャンスが巡ってくるかもしれないじゃん。いざとなったらテレビの人捜しの企画かなんかで捜してもらえばいい》
「馬鹿なこと言わないでよ」
ふふっと美穂は笑った。「私は一応アイドルなんだよ。テレビで好きな人を捜索してもらうわけにはいかないよ」
《どうにでもなるってことの例えだよ》
那美も笑った。
それから二人はしばらく黙っていた。美穂の睡魔がだんだんと復活していく。
「ねえ」
美穂は口を開いた。「やっぱり、忘れないほうがいいのかな」
《うん》
キッパリと那美は言う。《それだけは確かだね。ここで忘れたら美穂は一生後悔し続けると思う。っていうか忘れられないでしょ?》
「……」
美穂は何も答えなかった。
《私ね》
美穂の返事を待たず、那美は続ける。《最近の美穂、すごく好きなんだ。いや、前の美穂だって好きだったんだけど、なんていうか冷たい感じがして……。あ、性格の話じゃないよ。雰囲気というか》
「……」
じっと黙って那美の言葉を聞く美穂。
《なんていうか、人形みたいな雰囲気があった》
更に続ける那美。《でも、今の美穂は……。橘川さんに恋をしてる美穂はすごく温かい感じがする。だから嬉しいんだ。美穂が恋をしてくれて。そんな恋を美穂が自分からドブに捨てちゃうって真似だけはしてほしくないな。勝手なこと言うみたいだけど。でも、大丈夫だよね。忘れないよね」
「うん」
美穂は声を絞り出し、返事をした。いつの間にか自分の頬を涙が伝っていることに彼女は気がついた。「忘れない。忘れたくない」
初恋は忘れられない。
那美との通話を終え、美穂は再びベッドの中に潜り込んでいた。涙も手伝い、今度はすぐに眠れるだろうと思っていたが、気がつけば深夜一時を回っていた。直接橘川に思いを巡らせたわけではない。先日、エックステレビ局内で初対面をした綾川チロリのことを考えていた。
少し調子はずれで、少し礼儀知らずだったけど、良い人だったな……。
その事実が更に美穂を落ち込ませた。橘川がファンになってもおかしくはないと納得してしまったからである。
はあと美穂は溜息を吐いた。先ほどから何度も溜息を吐いている。
チロリと橘川が秀英祭で同じ時を過ごしている間、自分は学校。自分は仕事。別に橘川がチロリと直接会って話をするわけでもないだろうに、どうしようもなく不安になってしまう。恋というものは、こういった不安とも戦わなければならないのか、と美穂は思う。
美穂はベッドの中でひざを抱え、また深く溜息を吐いた。
「しかたないか。忘れないって約束したんだ」
開き直るようにそう口にしてしまうと、美穂は不思議なほどすんなりと眠りにつくことができた。