表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
75/172

74 案内人は引き受けた

 近所のコンビニで食料を調達し、橘川夢多は秀英大学のキャンパスへと戻ってきた。グリーンの野球帽を被り、ベージュの長袖ティーシャツを着て、黒のジーンズをはいている。

 雨が降りそうだな。

 星のない夜空を見上げ、橘川は思った。それから、自身の専攻する文学部のある第一学舎に向けて、キャンパスを歩く。

 秀英祭まで残り一週間を切った。もう午後十一時を回っているというのに、キャンパス内にはその準備に追われる学生たちがまだ多数残っている。もちろん、橘川もその一人なのであるが。

 チロリちゃん……。楽しみだな。

 もし、綾川チロリが秀英祭にやってくるという事実がなければ、おそらく、夜遅くまでこうして秀英祭の準備を手伝うということもなかったであろう。ひょっとしたら、当日は大学にさえ来なかったかもしれない。橘川は何もサークルなどに属していないのだ。



 第一学舎に入り、二階へと上がる。学舎内のほとんどの教室の明かりはついており、学生たちのにぎやかな声が聞こえてくる。橘川はある教室のドアの前に立ち、そのドアをガラッと開けた。

「おかえりなさい」

 部屋のほぼ中心の席に座り、ペンで紙に何やら書き込んでいた大田早苗が顔を上げて言った。ショートボブカットの前髪をピンで止めており、眼鏡をかけている。グレイのトレーナーとジーンズを着用している。格好は地味だが、かなりの美人である。周りにいた他の学生たちも一斉に橘川に目を向ける。

「ただいま」

 そう言って橘川は彼らのもとまで歩き、机の上に袋に入った食料を置く。「あんまり弁当残ってなかった。カップ麺も買っといたから……。お湯ならどっかにあるでしょ?」

「ありがとうございます」

 藤岡茂が頭を下げる。眼鏡をかけ、頭は丸坊主だ。「下の講義室にいる奴らがポット持ってきてましたんで、借りられると思います」

 橘川は近くの椅子に座り、一息吐いて部屋を眺めた。小さな演習室である。部屋の中には橘川以外に全部で五人の生徒がおり、皆、橘川より年下である。入学して以来、自分より年下の生徒と接することなどあまりなかったので、彼は精神的に窮屈な思いをしていた。しかし。

 辛抱だ。チロリちゃんと話をするための。

 五人は秀英祭の実行委員であった。



 同じ文学部の比較的親しい男子生徒を介し、橘川は今日早苗たちと知り合ったばかりである。その男子生徒も実行委員で、先日橘川は彼にこう持ちかけてみたのだ。『秀英祭ツアー』の文学部の案内人を自分にやらせてほしい、と。

 秀英祭ツアーとは、その名のとおり一人のガイドが秀大生以外の客を対象に、彼らを引き連れ秀英祭を案内して回るというイベントである。ガイドは早苗が担当する予定だが、学部、または施設など、ポイントごとにもう一人別の案内人が付き、そこで行われているイベントなどの内容を詳しく説明する。つまり、その案内人の文学部担当を橘川は志願したわけである。

 秀英祭ツアーの企画を受け持っていたのが、早苗以下五人の後輩たちであった。



「すいませんね」

 カルビ弁当を箸でつまみながら、早苗が言った。「案内人をやってもらえるっていうのに、しかもこんな雑用みたいなことまでやってもらっちゃって」

 人懐っこい笑顔を見せ、それからご飯を口の中に入れた。雑用というのは食料調達のパシリのことである。

「いや、全然かまわないよ」

 橘川は小さく首を振った。彼はジャムパンをすでに食べ終えている。「案内人みたいな光栄な役をやらせてもらえることになったんだし。それに、俺もできるだけ実行委員の人たちの力になりたいんだ。秀英祭の成功のためにさ」

 心にもないことを言う。

 秀英祭初日から最終日まで、ずっと秀英祭ツアーは行われるため、案内人になると秀英祭期間中の自由を奪われてしまう。よって、案内人はジャンケンで負けた実行委員が渋々と引き受けるものなのだと見なされていた。だからこそ、実行委員ではない橘川がその役を引き受けたいと申し出た時、五人のリーダーである早苗はすんなりとその申し出を承諾してくれた。

 確かに、秀英祭の期間中、ずっとそんな役目を背負っていなければならないということを考えると、橘川としても正直うんざりしてしまうが、それが帳消しになるほどの利点がこの案内人にはあった。



「でも、橘川さんって見た目によらず行動派なんですね」

 カップラーメンを手に持った藤岡が、意地悪そうな笑顔を浮かべた。「いくらアイドルと話ができるからって、初日だけなんですよ。しかもほんの数分ぐらいだろうし」

「べ、別にアイドルと話をするのが目当てじゃないよ」

 橘川は慌てて大嘘を吐いた。「色んな人たちに秀英祭の歴史や楽しさをじかに説明してあげたいだけなんだ。まあ、アイドルの人たちにももちろん説明してあげたいけどね」

 アイドルの人たちっていうかチロリちゃんにね、と心の中で呟いた。

 そう、綾川チロリを含む三人のアイドルのトークショーが行われる秀英祭初日、そのトークショーの前に彼女たちも秀英祭ツアーに参加する予定なのだ。つまり、彼女たちがそのツアーで文学部を訪れた際、藤岡の言うとおり数分ではあるが、彼女たち、いや、綾川チロリと直接話をすることができる。それが、橘川が案内人を買って出た最大の、そして唯一の理由であった。

 ちなみに今橘川がこうして一緒に残って早苗たちの手伝いをしているのは、彼女たちがあまりに忙しそうに見えたからである。かなりの数を用意しなければならないという案内人はまだほとんど集まっていないようだし、ツアー客に渡す冊子もまだできあがっていないらしい。気の優しい(というより弱い?)橘川としては彼女たちを見過ごして帰宅することはできなかった。彼女たちが文学部の教室を拠点としている(リーダー早苗が文学部であるというだけの理由だ)ことも大きかった。

「橘川さん」

 不意に早苗が上目づかいをしながら言った。「もし良ければ、明日も……。っていうか当日まで一緒に残ってくれませんか?」

「え?」

 少々戸惑ってしまう橘川だったが、それも致しかたないことかと観念する。「そ、そうだね。バイトがある日は無理だけど、それ以外なら別にいいかな」

「ありがとうございます!」

 早苗はまた人懐っこい笑顔を見せた。橘川は「ハハハ……」と乾いた笑い声を発しながら、少しだけ肩を落とした。

 チロリちゃんの出るテレビ番組とか観たかったんだけど……。断れないもんなあ。

 やはり、気の弱い橘川であった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ