73 待ち人現れず
吉祥寺駅構内のファーストフード店『バスケット』。店内は多くの客で溢れかえっている。矢上詩織は入り口近くの二人がけテーブルにて一人コーヒーを啜っていた。セミロングの髪をほんのり茶色に染め、パーマを当てている。そして、整髪料でピンピンと乱れさせている。服装は質素な黒のワンピースと、白のブラウスという組み合わせ。首には恋人、田之上裕作にもらったシルバーネックレスが光る。
先ほど学校を終えたばかりの午後三時過ぎである。本日は夕方からのバイトはない。詩織はこの店である人物と待ち合わせをしていた。
遅い……。
左手の指先でテーブルをトントンと叩く詩織。ぶすっとした表情を浮かべている。それもそのはず、待ち合わせ時間は午後三時。相手が遅刻をしているのだ。
自分から言い出したくせに遅刻だなんて……。やっぱり仲直りするのやめようかな。
待ち合わせ相手は元親友、池田綾香であった。
一昨日の夜のこと。絶交以来、詩織は初めて綾香からの電話に出た。二週間ほど前、ラーメン屋『ぶるうす』で綾香の恋人である井本真一と話をした時から、詩織の心に『そろそろ許してあげようかな』という気持ちが芽生えていたのである。
《え? 詩織?》
自分から電話をかけてきたくせに驚いた様子の綾香。《あの……。綾香ですけども》
『言われなくても分かってるよ。アイドルのお仕事、随分忙しいみたいだね』
《ま、まあまあねー。ハハハ……》
しばし沈黙する二人。
『で? 何か用?』
《えーっと……》
綾香は気まずそうに口を開いた。しかし、すぐにテンションが加速する。《あ、あの時はゴメン! 会ってちゃんと謝るけん、今度一緒にご飯食べに行こうよ》
『ふーん、ご飯ねえ』
わざと意地悪な口調で詩織は言った。『ちゃんと反省してる? 田之上くんにも謝る?』
《謝ります! 謝るけん!》
『分かった』
もともと歩み寄るつもりではあった。『明後日とかどう? バイト休みなんだ。もしくは次の日曜日』
《あ、明後日でよかよ。仕事昼過ぎに終わる予定やけん。駅で待ち合わせよう》
二人の間で単に『駅』と呼んだ場合、それは吉祥寺駅を指す。
『オーケー。じゃあ(バスケット)に午後三時ね。遅刻したら怒るよー』
コーヒーだけでは悪いので、ハンバーガーとポテトも購入した。もう三十分以上同じ席を陣取っている。時刻は三時半だ。
時間潰しのため、ポテトをちびちびと食べながら、詩織は店内に入ってくる客の顔を一人一人観察し続けた。しかし、一向に綾香は現れない。携帯を見ても着信はない。こちらから連絡を取ろうとしても繋がらない。メールをしても返ってこない。
これだから嫌なんだ。アイツは。
かなり悪どい表情になる詩織。綾香に対しての怒りがこみ上げてくる。と、その時。
「綾川チロリっているじゃん」
ん? と詩織は声のしたほうに顔を向けた。隣のテーブルに陣取る若いカップルである。聞き耳を立てる詩織。
「は? 聞いたことないし」
女が言う。金髪の髪に濃い化粧。派手な洋服。「なにそれ。芸能人?」
「アイドルだよ。さっき『港町ホットストア』に出ててさ」
男が言う。同じく金髪。ピアス。派手な洋服。『港町ホットストア』は関東ローカルのお昼の情報バラエティである。「新谷清志と一緒になんかスポーツジム体験とかやっててさ」
若手イケメン俳優である。「もうマジでウゼえの。ちょっとランニングマシンで走っただけで顔中汗だらけになっててさ。俺なんか三時間は余裕だっつの」
詩織はなんとなく気分が悪くなった。ハンバーガーにかぶりつく。
「マジでー? ウザ過ぎー」
女。お前の喋り方のほうがウザいよと詩織は思う。「っていうかなんでキヨポン(新谷清志の愛称)と一緒にそんなヤツが出てるわけ? ありえなくない? キヨポン可哀想ー」
もぐもぐと口を動かし、ハンバーガーを飲み込んだ後、詩織はふうと溜息を吐いた。
うーん、アイドルも大変だな……。
詩織の携帯の着うたが鳴った。発信者は綾香である。すぐさま電話に出て、開口一番に詩織は言った。
「今何時だと思ってんの!?」
こちらを注目する例のカップルの視線を感じたが、気にせず続ける。「三時半過ぎてるよ! 遅刻したら怒るって言ったでしょ! この馬鹿!」
《……。ご、ごめーん》
泣き声に近い綾香の声。《仕事が二時過ぎぐらいにまで伸びちゃって。連絡しようと思っとったっちゃけど》
「ちゃけど、何?」
二時過ぎならまだ間に合うだろ、と思いつつ、詩織は尋ねた。
《スタジオ前の廊下でリリアンさんとバッタリ会っちゃって……》
「ふーん」
女性R&B歌手である。綾香は彼女の大ファンなのだ。「……。つまり、大好きなリリアンを目の前にして私との約束が飛んじゃったと……」
《だ、だってリリアンさん、私のこと知っとったんよ! しかもファンだって言ってくれて》
綾香の声が気持ち明るくなる。《そんでさ。私もいつか歌を歌いたいって言ったらリリアンさん、下積み時代の話とかしてくれてさ。もう私、感動で胸が震えっぱなしやったばい》
何も返さず、ポテトを口にする詩織。《と、とにかく。話しとったらこんな時間になっとってさ。携帯もマナーモードでしかもバッグに入れっぱなしやったけん、全然着信に気がつかんやったんよ。これからすぐ行くけん! なんとか四時まで……。四時十五分までにはそっちに……》
そこで詩織は通話を切った。そして、ポテトとハンバーガーの残りを一気に口の中に入れ、そのまま店を出たのであった。