71 サインを求めて
「ヘーイ! 今日もはりきっていこうか! 新感覚トークバラエティ『テレビでラジオ』の時間だぜベイベ!」
ヘッドイヤフォンをつけた岩田幸三が目の前のカメラに顔を近づける。丸く小さなサングラスをかけ、派手なアロハシャツを着ている。あごひげは自前だが、アフロヘアーはカツラである。「今日はキュートでチャーミングでちょっぴりフールなゲストを呼んであるぜ! 綾川ああ……」
五秒ほど溜めてから。「チイーロリちゃんだー」
「よろしく頼むぜイエーイ!」
カメラに向かって親指を立てる綾香。二人はひょうたん型のテーブルに向かい、隣り合って座っている。カメラは固定されており、番組中は常に横並びの二人を正面からとらえる。
「ヘーイ!」
岩田の(綾香も)このノリはあくまでキャラ作りである。これはオープニングのみあり、本編はいたって普通のトーク番組に変貌する。「どうしたんだいベイベ。可愛いお顔がかくれんぼしちゃってるぜい」
もはや綾川チロリのトレードマークとなった白のソフトハットを、眉が隠れるほどにまで深く被っている綾香。
「イエーイ。最近の流行を知らないのかいベイベ! こうやって目元まで深く被るのがクールだってもんさファイヤー!」
ノリの方向性を若干誤解している綾香。「おっと、今日は約束の品を持ってきたぜベイベ!」
テーブルの下からポスターを取り出し、それを広げる。「あたいが明日遊びに行く学園祭のポスターさ! こいつを壁に貼っといてくんろ!」
秀英祭のポスターであった。全面に動物の抽象的なイラストが描かれており、右下の隅にゲスト三人の顔写真が載っていた。番組は秀英祭初日(綾香の出演日)の前日にオンエアされる予定だ。
「宣伝はお断りだぜベイベ」
チッチッチっと指を振る岩田。「オープニングクイズに答えもしないでそいつを壁に貼りたがるなんてナンセンス! さあ、クイズスタートだ! そいつの辞書に寝不足という言葉は存在しないんだ。毎日しっかり寝て毎日快調! さあ、そいつはどんなスポーツをやっている?」
収録は円滑に進み、予定どおり一時間で終了した。綾香はスタジオを出て、廊下を少し歩いた先にあるホールのソファで携帯をいじっていた。収録前、真一に『松尾和葉のサインほしい?』とメールしており、その返事が届いていた。
『何がなんでも手に入れろ。綾香愛してる』
どんよりとした顔でまた複雑な気分に浸っていた時、ホールに岩田がやってきた。アフロとサングラスは外しているが、アロハシャツはそのままである。アフロの下は頭皮が見えるほどの短髪。サングラスの下はギョロッとした大きな瞳。歳は綾香より一回りほど離れていたはずだ。
「あ、お疲れさまでした」
ペコリと頭を下げる綾香。岩田は「お疲れ」と綾香の隣に腰かけ、ジーンズのポケットから煙草の箱を取り出した。
「お前、笑わせんなよな」
煙草を一本くわえながら、岩田は苦笑する。「でこに畳の跡つけて収録に臨むアイドルなんて聞いたことねえよ」
「す、すいません」
しょんぼりと肩を落とす綾香。まだ帽子を深く被ったままである。
「まあ、収録自体は良かったよ。ノリも良くて。」
ふうと紫煙を吐く岩田。「けっこうノリ悪いヤツ多いからさ。お前みたいなのが相手だと仕事しやすいね。他の番組でも一緒に仕事しようぜ」
「ありがとうございます!」
パッと明るい顔に変わる綾香。「岩田さんはまだお仕事なんですか?」
岩田は頷く。
「これからまた打ち合わせだよ。お前は上がりだろ?」
「はい」
綾香も頷く。「今、松尾和葉ちゃんが収録やってるらしくて……。友達がファンなんでサインをもらおうかな、と」
「ああ、前に他局で一緒に仕事した。あの子もなかなかノリが良かったな」
またうんうんと頷きながら、岩田は煙草を吸い、煙を吐いた。「普段はおとなしくて礼儀正しい子なのに、カメラが回るとパッとキャラが切り替わっちまうんだよな。それはそれでやりやすいし、胸もでかいし」
最後のは聞き流すとして。
「そうなんですか」
意外そうに目を丸める綾香。「私の中では明るいってイメージしかなかったんですけど……。サインとかしてくれますかね」
そして、廊下の先を見つめる。その方向にエックステレビ局内で最も広いスタジオがあり、そこで『はって回ってポン』の収録が行われているという話を聞かされていた。
「さあな」
岩田は興味がなさそうにそう言った。
午後八時過ぎ。廊下が少しだけにぎやかになる。例のスタジオのほうからいくつもの足音が聞こえてくる。
き、きた……。
岩田は去り、ホールには数人の見知らぬ男性と綾香のみ。綾香はソファに座ったまま顔をうつむかせ、横目で目の前の廊下を通り過ぎていく人々の顔を確認した。中には俳優やお笑い芸人の姿も。しかし、松尾和葉や菊田つばきの姿は見えない。
綾香は立ち上がり壁に張りついて、そっと廊下の先を覗き込んだ。やはり、和葉やつばきがこちらに歩いてくる様子はない。
「あんまり怪しい行動を取るなよ」
「わっ!」
背後から突然話しかけられ、綾香は驚き、ビクッと跳ねた。高鳴る心音を抑えつつ、振り返ると、そこには予想どおり南の姿があった。「なんよ! 驚かさんでよ!」
「お前が勝手に驚いただけだろう。それより」
ゆっくりと身をひるがえしながら南は言う。「今日の仕事は終わりだ。額の跡の件についての説教は車の中まで取っておくとして、さっさと出るぞ」
それから、エレベーターホール方面に向かって歩き始める。
「ああ、ちょっと待ってよ」
南を呼び止める綾香。「ん?」と眉をひそめる南。綾香は身体をもじもじさせながら言った。「松尾和葉のサインがほしいっちゃんね。友達が大ファンでさ。今収録が終わったみたいやけん」
「ふん、くだらん」
再び歩き出す南。「まあいい。十分だけ待ってやる。十分以内に楽屋に戻って来い。戻って来れなければ、家まで一人で帰れよ」
じ、十分……。厳しいな。
「あ……」
唐突にひらめいた。
そ、そうだ。松尾和葉の楽屋の前で待っとけばいいっちゃん! なんで気がつかんやったっちゃろ。それなら、もし和葉に会えんでも私の楽屋にすぐ帰れるし。
そう考え、南の後を追おうと歩を進め始めた時だった。
「お疲れさまです」
「え?」
振り向いてから、しばらく綾香はぼうっと目の前に立つ少女を見つめていた。髪型はシンプルなポニーテイル。誰もが美人と認めるであろう完璧なルックスに加え、サマーセーターに包まれた豊満なバスト。デニム生地のホットパンツから伸びたすらっとした足。少女の全てが輝いて見えた。
ま、松尾和葉……。
ごまんといるアイドルたちの中で、今やトップに立つ存在の松尾和葉。初めて生で見る彼女の姿に、綾香は不本意ながらも目を奪われてしまったのだ。