68 例えばの話
十月中旬。松尾和葉こと羽山美穂は、港区お台場に位置するテレビ局、エックステレビの楽屋内に一人でいた。部屋の中心に置かれた木製のテーブルに向かい、雑誌を読んでいる。時刻は昼の二時過ぎ。これからバラエティ番組の収録が行われるのだ。学校を早退してきたばかりで、まだセーラー服を着ている。眼鏡はかけていない。もともと視力は悪くない。
トントンとノックの音が聞こえ、美穂は慌てて読んでいた雑誌をテーブルの隅に置き、「はい」と返事をした。扉から顔を覗かせたのは派手な巻き髪と猫目が特徴的な小悪魔アイドル菊田つばきであった。
「おひさ」
そう言って、つばきは楽屋内に足を踏み入れた。部屋は畳張りなので、入り口先のたたきで靴を脱いでいる。「今日はよろしくね、和葉ちゃん」
「よろしくお願いします」
頭を下げる美穂。本日二人は共演する予定なのである(レギュラーの美穂に対し、つばきはゲスト出演だ)。二人は共に今年ブレイクを果たしたアイドルとあってか、比較的共演が多く仲も良い。デビューは美穂のほうが先だが、歳はつばきのほうが三つ上だ。
おそらく衣装であろう白のワンピースを着たつばきが、テーブルの向かい側に腰を下ろすのを待ってから美穂は言った。「最近急に寒くなりましたね。風邪を引かれてはないですか?」
「大丈夫、ありがとう」
ニコリと笑うつばき。外見はすでに小悪魔アイドルモードだが、カメラの回っていない今は心優しきお姉さん、すなわち素のつばきである。巻き髪がウィッグだということも、もちろん美穂は知っている。「ん?」
テーブルの隅の雑誌に注目するつばき。そして、それを手に取る。背表紙を向けているにも関わらず、彼女にはそれが何の雑誌だかすぐに分かったらしい。アイドルの勘であろうか。「新しい『月刊アイドルプレス』じゃん。和葉ちゃんも出てるの?」
「いえ、ちょっと暇つぶしに買ってみました」
髪の毛をいじる美穂。「少し早めに着いちゃいそうだったんで」
月刊アイドルプレス。大手出版社、成岡出版より刊行されているアイドル専門誌で、現在アイドル専門誌の中ではダントツの発行部数を誇っている。発売日は毎月十五日である。
「ふーん」
パラパラと雑誌をめくるつばき。「なんか和葉ちゃんがこうゆうの読むのって意外だね。あんまり他のアイドルの子とかに興味なさそうだもん」
「そんなことありませんよ」
美穂はふるふると首を振った。「いつ共演するかも分からないし、なるべく事前に共演相手を知っておいたほうがいいと思っています」
半分本当であり、半分嘘である。今回に限っては興味があるというだけのこと。
「あ、チロリちゃんだ」
雑誌の中のあるページを開き、つばきが言った。聞き耳を立てる美穂。「最近よくテレビ出てるなー。元気してるかなー」
「し、知り合いなんですか?」
思わず尋ねてしまう。つばきは一瞬だけ目を丸くしてから答えた。
「うん。一度だけ共演したんだ。面白くて明るくて良い子なんだよー」
「その子、こないだテレビで見ましたよ」
少しツンとした表情で美穂は言った。「確かに面白くて明るくて良い子みたいですね。カメラの外でもそんな感じなんですか?」
「カメラの前じゃ少し緊張してるっぽいかな」
共演した時のことを思い出すかのように、宙へと視線を這わせるつばき。「カメラが回ってないところのほうが面白いよ。どうしたの? チロリちゃんと共演するの?」
「いえ、そうゆうわけじゃないですけど」
美穂はつばきから顔を背けた。「インタビュー読んで気になったんです。なんか素のままでインタビューに答えてる感じ。プライベートと仕事の顔を使い分けきれてないんじゃないでしょうか。それから、前にドッキリで大泣きして、鼻水とか出しちゃったらしいじゃないですか。アイドルとしてどうなんでしょう」
「変なの」
あははとつばきは笑った。「素のキャラクターを全面に押し出すタイプのアイドルって他にもいるじゃん。アメイジング(人気アイドルユニット)の三田沙織ちゃんとか。和葉ちゃん、沙織ちゃんの仕事の姿勢に対して『尊敬してる』って前に言ってたよ」
「沙織さんは沙織さんでプロ意識を感じるからです」
狼狽し、頬を赤らめてしまう美穂。「この子の場合はただ暇だからなんとなくアイドルやってる感じです。インタビューでも歌手になりたいって言ってます。歌手とアイドルは別物ですよ」
「随分嫌われてるんだね。良い子なのになー」
またパラパラと雑誌をめくるつばき。「今度共演とかしたら話しかけてみなよ。すぐ仲良くなれると思うよ」
少しだけ黙った後、美穂は答えた。
「遠慮します」
トントンとまたノックの音。美穂とつばきは同時に扉へと顔を向けた。美穂が「はい」と返事をし、扉が少しだけ開かれた。美穂のマネージャー、仲田である。二十代後半、眼鏡をかけたおとなしい女性だ。
「和葉ちゃん。もうすぐリハ始まるから一応衣装に着替えといてね」
中には入らず、入り口先でそう告げる仲田。美穂が「分かりました」と答えると、仲田はそのまま扉の向こうに消えてしまった。
美穂は立ち上がり、部屋の隅の衣装立てまで歩いた。衣装立てから、用意されていた衣装を全て剥ぎ取り、足元に丁寧に置く。
「つばきさんは忘れられない人がいる時、どうやって忘れます?」
「え?」
意外そうに美穂に目を向けるつばき。やがて、意地悪な笑顔を浮かべる。「何それ? 男の話?」
「例えばの話です」
赤面する美穂。セーラー服の上着を脱ぎ、肌着姿となる。肌着も脱ぎ、肩紐のないブラジャー一枚の姿に。胸には小さなペンダントが光っている。足元の衣装の中から、白のキャミソールを手に取る。
「そうだねえ」
あごに指を当て、考え込むつばき。「あんまり忘れようとは考えないかな。相手に彼女がいたって別れないとは限らないし、気長に待つよ。まあ、別れた頃にはいつの間にか忘れてそうだけど」
「忘れようとは考えない……」
つばきの台詞を繰り返す美穂。丈の短いキャミソール。チラチラとお腹が見え隠れする。続いて赤の長袖サマーセーターを拾い上げ、頭から被る。「でも、忘れなきゃダメでしょ? アイドルなんですから」
首周りが大きく開いたサマーセーター。身体を動かすたびに生地が伸縮し、露出度が変わる。
「仕事に支障をきたすとか考えてるんでしょ?」
つばきは呆れたように苦笑した。「大丈夫だって。女の子なら恋ぐらいしなくちゃ! なんとなく今の和葉ちゃん、前会った時より生き生きしてるように見えるよ」
「だから、例えばの話ですってば」
トゲのある口調でそう言ってから、美穂はセーラー服のスカートを下ろした。