66 午後の一時
池田綾香とその恋人、井本真一は、吉祥寺本町の綾香のアパートのリビングにてテーブルを挟み、二人してインスタントのカップそばを啜っていた。
ずるずるとそばを啜り続ける二人。会話はない。テレビも点いていない。そばを啜る音だけが部屋の中を飾り立てる。二人の周りにはいくつものダンボールが無造作に置かれており、ただでなくとも狭いリビングが更に狭まっていた。
「ふと思った」
箸を止め、ようやく口を開いたのは真一である。「こうやって越してきたのはいいけど、事務所に俺のことがバレる可能性もあるんじゃねえのか?」
「事務所だけやないよ」
綾香は答えた。彼女は箸を止めず、そばを啜りながら続ける。「家族にバレてもヤバいし、何よりも写真週刊誌にスクープされたら一発でアウトやね」
「どうすんだよ」
眉をひそめ。真一がまた尋ねる。
「どうしようもないよ」
箸を置き、両手でカップを持つ綾香。スープを一口飲み、「ごちそうさまでした」と食後の挨拶を済ませる。「どっちにしても、もう二部屋分の家賃払い続けるのは厳しいっちゃけん、一緒に暮らすしかなかろうもん」
「そりゃそうだけど」
頭をポリポリとかく真一。再び箸を握る。「実際、スクープされたらどうするんだ? お前そこそこ有名人になっちまったんだから、どこで週刊誌が狙ってるか分かんねえぞ?」
虚空を見上げ、気の抜けたような顔で考え込む綾香。
「アイドルはちょっとぐらいスキャンダラスなほうがウケるっちゃない?」
ニカッと笑う綾香。「スキャンダラスねえ」と真一は嫌味ったらしく返した。
十月上旬のとてもよく晴れた日曜日。本日は記念すべき日となった。松庵の真一のアパートを引き払い、吉祥寺本町の綾香のアパートにて、いよいよ二人は同棲生活をスタートさせたのである。そのキッカケはもちろん綾香の仕送りが止められたことだ。
「なんか、ガラクタばっかりやね」
一つのダンボールの中を探りながら綾香が言った。動きやすい上下ジャージという姿である。「これもアイドルのDVD。またアイドルのDVD。これは……。エッチなDVD」
少し赤面する綾香。
「バカ。ガラクタじゃなくて宝の山と言え」
あぐらをかき、しーしーとつまようじで歯の掃除をする真一。こちらも動きやすいティーシャツ、ジーンズ。「そのダンボールには男のロマンが詰まっている。そっちも……。あ、こっちもか」
そう言いながら真一はいくつかのダンボールを指差した。
「えー、そんなにあると?」
呆れたようにうな垂れる綾香。「あんなに苦労して運び入れたとに、まさかそんなガラクタばかり入っとったとは。あんた、私の部屋をガラクタまみれにする気?」
ただいま午後二時過ぎ。先ほど、真一の荷物の運び入れを終えたところである。一万円そこそこの格安プランでの引っ越しなため(ドライバーのみしか来てくれないのだ)、二人も運ぶのをかなり手伝った。ちなみに、真一のアパートにあった家具や家電は先日のうちにほとんど売り払ってしまっている。
「ん? 怪しいビデオ発見」
一つのビデオを手に取る綾香。「なになに? 『裏ビデオ』? ま、まさか……」
見つけたか……。
真一はニヤッと微笑んで見せた。
「別に見たいなら見てもいいぜ。すげえ映像が入ってる」
「ほ、本当?」
ビデオデッキの前に移動する綾香。テレビの電源を入れ、デッキにビデオを差し込む。「ち、ちょっとだけね……」
「ああ、分かる分かる。女でもドキドキしちまうもんだよな。モザイク一切ナシだぜ」
やがてテレビに『すげえ映像』が映し出された。
《わーん! わーん! ひどいよー! ひどいよー!》
「これかい!」
すかさずビデオを消す綾香。「なんで『裏ビデオ』なんよ! なんでわざわざこの場面で止めてあるとよ」
笑い転げる真一に対し、まくしたてる綾香。
「お前、今度休みいつよ」
二人はソファに並んで座っていた。綾香の頬を撫でながら真一が尋ねる。「たまには二人でどっか遊びにでもいこうぜ」
本日は真一は休みであるが、綾香は夕方より仕事である。タレントには学生もたくさんいるためか、暗くなってからの仕事も多い。
「次は……」
真一の胸に頭をあずけている綾香。うーん、と眉間にしわを寄せる。「金曜日かな。その次は来週の月曜日」
「ダメだ。俺は仕事だ」
「なかなか合わんね」
綾香は苦笑した。「あんたが休み替えてもらえばよかろうもん」
「無理だって。若頭、予定変更されるの無茶苦茶嫌うんだ」
「私だって無理だもん」
少し間を空けてから、綾香は続ける。「今月は学園祭の仕事もあるし、一番頑張らないかん時期よ。ブレイクできるかできんかの瀬戸際やね」
「分かってるよ」
ブレイクしたら、今よりもっと二人の時間が減るってこともな。
わしゃわしゃと頭をかく真一。「綾香」
「ん?」と綾香が自分の顔に視線を移したことを確認してから、真一は少し唇を突き出し、あごをしゃくりあげた。綾香は頷き、顔を近づけながら目を閉じる。そして、そのまま二人はキスをした。
真一は確信していた。今はまだ、知る人ぞ知るといったレベルの知名度ではあるが、いつかきっと綾香はブレイクする。長年のアイドルマニアとしての勘がそう言っている。
その時、俺はまだお前のそばにいることができるかな。
「真一」
薄らと目を開け、綾香は言った。「汗くさい……」
「こっちの台詞だ」
甘くて、ほろ苦くて、ほんのり汗くさい午後の一時であった。