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65 初恋

 浪人さんだなんて失礼しました、むーちゃん。ペコリ。

 美穂は心の中でそう謝罪した。橘川に『秀英大学に通っている』と、聞かされたところである。Bランクの私立大学だが、今の美穂が入学するにはおそらく裏口以外にありえない。

「家庭教師のバイトにも登録してるから。中学や高校で使う参考書なんかの知識も備えておくことにしてるんだ」

 照れ笑いを浮かべながら橘川は言った。なるほど、と美穂は書店でのことを思い出した。橘川オススメの『高校化学ワンツースリー』は鞄の中である。

「そうですか」

 テーブルにひじを付き、つまらなそうな表情でストローをくわえ、ズズッとコップの中身を啜る美穂。コップにはもう氷しか入っていない。「それじゃあ、アイドルとかには興味ないんでしょうね。勉強に忙しくて」

「うーん。興味ないってことはないけど」

 橘川もストローをくわえる。彼もクリームソーダを飲み干した。「限定的ではあるね」

「限定的?」

 美穂は眉をひそめた。「どういうことですか?」

「いや、一人だけ好きなアイドルがいてさ」

 好きなアイドル……。美穂は考える。それが自分でないということだけは分かる。「あ、もちろん、羽山美穂ちゃんも、前からすごく可愛いなって思ってたけど」

 だから、そんなアイドルはいないってば!



 いつの間にか、同じ高校の四人の女子生徒たちは姿を消していた。もう隣のテーブルを陣取る中年女性二人組以外に、美穂の存在に気づいている人物はいないようである。

「で? 好きなアイドルって誰なんですか?」

 相変わらずつまらなそうな表情のまま、美穂は尋ねた。

「綾川チロリちゃん」

「綾川……。チロリ?」

 し、知らない。もちろん、共演したこともない。そんなアイドルいたっけ?

 最近デビューしたのかな、と美穂は予想した。「その子、私より魅力的なんですか?」

 うーん、と唸りながら美穂を見つめる橘川。美穂は照れて、少し顔を背けてしまった。

「多分、美穂ちゃんのほうが可愛いと思う。でも……」

 宙に視線を泳がせ、言葉を探る橘川。「なんていうか、絶対的な存在なんだよね。多分、初めて好きになったアイドルだからだと思うけど」

 そっか、と美穂は納得した。

 初恋は忘れられないっていうもんな。「でも、これからは美穂ちゃんだって応援するよ。テレビ欄に羽山美穂ってあったら、絶対に観るから」

 だから……。



「もうすぐ六時だ」

 携帯電話で時刻を確認する橘川。美穂はテーブルの上で組んだ両腕の上にあごを乗せて、その様子を見つめていた。二つの空のコップはテーブルの隅に追いやられている。

「何か用事でもあるんですか? 『大事』な用事でも」

 ややキツい口調で美穂は尋ねる。橘川はハハ、と苦笑した。

「大事ってほどじゃないんだけど、夕方の子供向けバラエティ番組に、チロリちゃんが出演するんだ」

「え!?」

 思わず大きな声を上げてしまう美穂。周りの何人かの客に注目されてしまい、慌ててうつむき、顔を隠す。「……。そ、そんなの、ビデオでも録ればいいじゃないですか?」

「ビデオセットしてないんだ」

 そう言ってから、すぐに「いや」と手を振る橘川。「今日はもうあきらめるよ。こうして、美穂ちゃんと話をするのも楽しいし」

 あきらめる? 失礼な……。

 美穂はムッとした。そして、澄ました表情を作り、首を振った。

「別にいいですよ」

 唇をとがらせる美穂。「私もそろそろ帰らないといけませんから。今日は本当にありがとうございました」

「いや、こちらこそ」

 立ち上がる橘川。しかし、美穂は立ち上がらない。「あ、あれ? 出ないの?」

「お先にどうぞ。私はもう少し座ってます」

 少しだけ間を置いて、橘川は「そ、そう」と頷いた。

「それじゃ、お先に失礼するね。今日は本当にありがとう」

 美穂は何も言わずペコリと一度頭を下げて、橘川を見送った。橘川から目をそらし、彼が遠ざかっていく気配を感じながら、美穂は「あっ」と小さく声を漏らした。

 れ、連絡先聞いてない……。

 すぐに橘川に視線を戻すが、彼はもう店を出るところであった。はあ、と深く溜息を吐く美穂。

 初恋は忘れられない、か……。

 忘れられるかな、と美穂は思った。



「もしもし」

 耳元で誰かが囁いてきた。そちらに顔を向ける美穂。そこに立っていたのは、隣のテーブルの二人の中年女性のうちの一人であった。やや肥満気味の化粧の濃い女性。茶色のロングヘアーにパーマを当てている。手にメモ帳らしきものとボールペンを持っている。彼女は人懐っこい笑顔を浮かべた。「うちの息子が大ファンなんです。サインを頂けませんか?」

 とても小さな声。他の客に美穂の存在がバレてしまわないよう配慮しているのであろう。美穂は好感を持った。その配慮にもそうだが、橘川といる時には声をかけてこなかったことに対してもだ。彼女もにこやかに笑ってみせる。

「本当ですか? 照れちゃいますー」

 明るく、軽い声のトーン。『天然ドジキャラ』モードである。美穂はメモ帳とボールペンを受け取った。「私なんかのサインでいいなら、いくらでもしちゃいますよー。息子さんのお名前教えてください」

「あ、タカシって言います。高いに志しです」

「高志くんへ……。と」

 美穂は慣れた手つきでメモ帳にペンを走らせた。『高志くんへ』の下に、漢字をアルファベットの筆記体に似せた自らのサインを書く。

 そうだ、私にはファンがいるんだ。ファンのためだけに頑張ればいいんだ。

 美穂はメモ帳を中年女性に返した。

「ありがとうございます。大切にします」

 そう頭を下げてから、サインを眺め苦笑する中年女性。「パッと見ただけじゃ、誰のサインだか分かりませんね」

 サインはただの落書きのようにも見える。

「そうですねー」

 美穂も苦笑する。「でも、一応私のサインですよー。ちゃんと『松尾和葉』って書いてあります」

 それがアイドルとしての美穂の芸名であった。


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