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64 まずい

 まずいな。

 美穂は目の前に置かれたクリームコーラに一口手をつけたところで、テーブルにひじをつき手の平を頬に当て、心の中でそう呟いた。それはクリームコーラの味の話ではない。

 駅構内二階のファーストフード店、窓際の二人がけの席である。店内は多くの客でにぎわっており、すでに空いている席は一つもない。と思いきや、隣の席が空く。しかし、すぐに中年女性二人組がそこを陣取る。客の回転はかなり早い。そういえば、美穂が今座っている椅子も、座った直後はまだ前の客の温もりが残っていた。『この光景』を一瞬でも目撃するのは、たかだが数人といったレベルではなさそうだ。

 美穂はテーブルの向こうでメロンクリームソーダをストローでかき混ぜる浪人さんの様子を垣間見た。彼はそわそわと落ち着かない様子で、店内や窓の外をしきりに眺めている。

「食べないんですか?」

 美穂は浪人さんにそう問いかけた。彼の手元のクリームソーダを指差す。「かき混ぜてばっかりだと、アイス溶けちゃいますよ」

「あ、ああ。今食べようとしてたところ」

 ソーダから先がスプーンになったストローを引き抜き、浪人さんは笑った。テーブルにソーダがこぼれる。美穂は頬杖をついたまま、もう片方の手でテーブルの隅のナプキン立てに立てられた紙ナプキンを一枚手に取り、無言でソーダを拭き取った。「あ、ありがとう」

 礼を述べながら、半分以上がメロンソーダに溶けたアイスをすくい取る浪人さん。

 『この光景』、つまり、自分と若い男性が二人きりでファーストフード店のテーブルに向かい合っているという姿を、多くの人物に目撃されるということまでは、もちろん美穂だって覚悟はしていた。そして、眼鏡をかけ、髪を下ろしていれば、きっと誰も自分の正体に気がつかないはず、という目算もあった。

 ただ、誤算もあった。

 チラリとカウンター近くの四人がけテーブルを見やる。そこに、美穂と同じ制服を着た女子高生が四人いた。そう、美穂と同じ学校の生徒である。美穂は彼女たちのことを知らないが、向こうは美穂のことを知っている。眼鏡をかけ、髪を下ろした美穂のことを知っている。ひょっとしたら、同じ学校の生徒でも美穂のことを知らない生徒だっているかもしれない。しかし、彼女たちの場合は違う。なぜなら、美穂と浪人さんが店に入った瞬間からずっと、明らかにこちらの様子を窺っているからだ。すでに気づかれているのである。

 四人のうちの一人が携帯を開き、何やらメールを打っている。他の三人が好奇心たっぷりな表情でそれを見守っている。同じ高校に通うトップアイドルのスキャンダルを、誰かにリークしているのであろうか。

 ネットには流しませんように。

 美穂は心の中でそう祈った。



「大丈夫?」

 心配そうに眉をひそめて、浪人さんが言った。「あの子たち、羽山さんのこと気づいてるみたいだけど」

 彼の目線は例の四人に向いている。彼も気がついていたらしい。

「心配しなくていいですよ」

 はむ、とアイスを口に入れる美穂。口の中でアイスを溶かし、飲み込んでから続ける。「こんなことは前にもありました。その時は仕事関係の人だ、って説明しました。って、実際そうだったんですけどね。今回も騒ぎになったら同じように説明すればいいんです。事務所も助けてくれます」

 でも、怒られるだろうな、と美穂は思った。

 事務所の意向で、異性交遊は禁じられていた。いや、事務所以上に美穂自身がそれを堅く禁じていたはずであった。アイドルにとってスキャンダルは命取りであるということを、彼女も充分承知しているのだ。それなのに、『どこかでお話しませんか』と浪人さんを誘ったのは、他ならぬ彼女なのである。

 そういった意味でもまずい。美穂は自分に嘘を吐かない。認めざるを得ない。目の前にいる、先ほど出会ったばかりの貧相な男に惹かれ始めているということを。なぜだかは分からない。書店で自分を助けようとしてくれたからかもしれないし、たまたま心の奥底で恋をしたいな、と思っていた瞬間に出会ったのが、浪人さんだったのかもしれない。両方かもしれない。

 まずいな。

 美穂はもう一度呟いた。恋が仕事に与える影響は計り知れない。スキャンダルの危険を犯してまで、浪人さんと話をしたいと思ってしまった自分の心が、何よりもまずかった。

 これ以上はダメだ。これ以上は。

 自分にそう言い聞かせる美穂であった。



「ねえ」

 顔を近づける浪人さん。美穂も姿勢を正し、顔を近づける。浪人さんは小声で言った。「隣にいる人たちも気づいてるっぽいよ」

「そうですか」

 美穂は隣のテーブルの客を確認せずに言った。気づかれることだってもちろんある。先ほど浪人さんにも気づかれたではないか。彼女はストローで一度コーラを吸い上げ、息を吐いてから言った。「そんなことより話をしましょうよ。私たちは密会してるわけじゃありません。堂々と会ってるんです。私があなたと二人でいるところを他の人に見られたくないのであれば、こんなに人がたくさんいる店には来ません」

 近かったからこの店に来ただけであり、本当は誰にも見られたくない。美穂は自分にではなく、浪人さんに嘘を吐いた。「あなたには本屋でお世話になりましたから、そのお礼なんです。アイドルと二人っきりで喋れるチャンスなんてなかなかありませんよ?」

 また嘘を吐く。もしスキャンダルになったらそう説明しようかな、などと思う。

「そ、そうだね」

 帽子を脱ぎ、額の汗を拭う浪人さん。帽子を被り直す。「それじゃあ、話をしようかな。でも、俺、女の子と二人きりで話したことなんて生まれてから一、二度ぐらいしかないんだよね。しかも女子高生で、しかもアイドルなんて」

「それでそわそわしてたんですか」

 チューとまたコーラを飲む美穂。

「あ、分かった?」

 照れくさそうに笑う浪人さん。「女の子と話すのって苦手でさ。俺、話す内容がマニアックすぎて、女の子引いちゃうんだよね。陰でアイツつまらないって言われてるっぽいし」

「女の子は興味のない男の話は皆つまらないものです」

 言ってから気がつく美穂。失言である。

「だよねー」

 へらへらとした顔のまま肩を落とす浪人さん。「誰も俺になんか興味持たないし」

 まあいいか、と美穂は思った。少なくとも、自分は興味があるのだから。

「ところで聞きたいんですけど」

 美穂がそう言うと、浪人さんはコクリと一度頷き、続きを促した。「名前はなんておっしゃるんですか? なんて呼べばいいんですか?」

「あっ」

 ハッとした顔になる浪人さん。「俺は橘川って言います。橘川むた。夢が多いって書いてむた」

 夢多……。

「面白い名前ですね。でも素敵な名前。で、橘川さんって呼べばいいですか?」

「うーん」

 腕を組む浪人さん。「むーちゃんとでも呼んでいいよ」 

「む、むーちゃん?」

 むーちゃんというその言葉の響きがなんとなくおかしかったので美穂は笑った。

「もしくはサブちゃんでもいいや」

「サブちゃんって全然関係ないじゃないですか」

 ツッコミを入れながらまた笑う。美穂は思った。

 この人のどこがつまらないんだろう。


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